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科学的精神とは何か(かがくてきせいしんとはなにか)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-7 22:26:28  点击:  切换到繁體中文


 処が引用の精神は単に回顧的・古典的・文献についてだけ発動するとは限らない。之は一般に認識上のエキゾティシズムとも云うべき、一種の距離感に発するとさえ云っていいようだ。回顧は時間的距離感に基くが、空間的距離感に基くものが外国文化摂取の際往々にして現われる。日本のインテリで邦語の出版物は日常の消耗品のように読む人でも、外国語の書物を何等か古典のように「文献」として読む人は多くはないのか。そこにおのずから、無用な引用の興味も起りかねないのだが、併しそれはまだいいので、ただの引用ではなくて外国文化を引用するという引用の精神そのものがインテリの精神の糧となるに及んでは、外国文化と日本的現実とのつき合せに、著しく混雑を来すことになる。で、或いは外国文化は西欧精神というようなエキゾティックなもので、従って日本精神とは凡そ別なものだとか、科学はヨーロッパのもので日本には不向きであるとか、云うかと思うと、今度はドイツ=ロマンティクがいつの間にかそのまま日本ロマン主義になっていたりするのである。
 ジードを「古典」のように「文献」のように読んだ人達は、やがて同じ調子で古典や文献のようなものを、日本の伝統というようなものに見出したくなるのは自然だ。そして伝統の内に――万葉や源氏をひもとく場合だ――却ってエキゾティックなものを見ようとさえするのが、今日の文化的伝統主義の特色の一つに数えられるだろう。この不思議は全く、引用の精神、文献の物神崇拝、の無躾けなのさばり方から来る必然的な結果に他ならぬ。
 引用精神・文献精神・が、足下の現実について、本来の意味での実証的精神の規格を守らない場合、どういう誤りに陥らざるを得ないかが、これで判るだろう。元来文献精神・引用精神・は、文献学上の実証精神に基く筈であった。処がこの文献精神・引用精神が、独り勝手にとぐろを巻き始めると、すでにその元来の実証的精神などは吹き飛ばされて了う。民族の歴史的伝統を口ぐせにすることは、やがて民族の歴史的な事実を美事に抹殺して了うことだ。国史の認識が喧しくなればなる程、一定の国史史料は封鎖されねばならず、古典的文献そのものが改竄かいざんされたり否定されたりしなければならなくなって来ているのだ。
 ここに、歴史認識に於ける科学的態度と非科学的・反科学的・態度との、鮮かな対立が現われるのを見ることが出来るだろう。思い上った文献精神・引用精神は、文献そのものをさえ破壊し、引用そのものをさえ無用にし又不可能にする。実証的精神の退潮後退が、文献精神・引用精神・をば非科学的・反科学的・にするのだ。引用精神の独裁が科学的精神の反対物を齎すのである。
 私はすでに、この消息を、文献学主義(フィロロギー主義)と名づけて、現代観念論の方法全般に於けるその系統的な活動振りを批判した。哲学の方法としては之が解釈学となるものであり、現実の実践的変革の代りに世界をあれこれと解釈する自由な解釈の哲学=体系的なフラーゼオロギーとなるもののことである。之は今日の日本の自由主義・文化的自由主義・の哲学的支柱の一つともなるものであり、そして夫故に又更に、日本型文化ファシズムの支柱ともなるものだ(その点日本にだけ特有な現象ではないのだが)。
 文献学という科学は、云うまでもなく立派な科学である。それは歴史科学の絶体不可欠の認識手段である。もう少し広く理解すれば、夫はアカデミー的学殖をさえ意味する。そういう点から私は文化の思想水準と文献学的水準とを区別出来るとも思う。文献学的レベルは専門技術的な水準を意味する、特に広義の文学的学科に於てはそうだ。だがそれにも拘らず、文献学の哲学的世界観的拡大としての文献学主義に現われる処の、云わば文献学精神=フィロロギー精神は、もはや科学的精神ではない。もし評論などに於ける文学的精神がこの文献学精神を出ないなら(文学=リテラチュア=文献)そういう文学的精神は正に科学的精神の正反対物だということを、記憶せねばならぬ。

 日本の文化常識では、科学というと自然科学のことだと思われている。必ずしも日本だけではなくて、科学的な社会科学を信用しないブルジョア社会に於ては、どこの国でも多かれ少なかれ見受けられる処の現象だ。だが科学を自然科学に限定する合理的な理由は無論全く見出され得ない。科学的精神とは、自然科学一点張りのことや所謂「科学万能主義」や又「科学主義」とは、云うまでもなく別だ。科学主義の名に値いするのは例えばフランスのル・ダンテクのものなどであろうが、之は実証主義認識論の現代的形態の一つと云っていいだろう。そして実証主義なるものと実証的精神との相違は、常識にぞくする。現代唯物論は実証的精神によって貫かれているが、実証主義は一種の現代観念論に数えられるのである。
 科学的精神は真の意味に於ける実証的精神である。というのは、単に感性に訴え感性の保証を要求するだけではなく、その感性が主体的な能動性の発露面・出入口・の役割を担うのだ。つまりこの感性は実践と実験の窓なのである。之がなければ事物の時間的歴史的推移の必然性の内面に食い入って之に対処することが出来ない。科学的精神とはその限り歴史的認識の精神である。事物をその実際の運動に従って把握する精神なのだ。
 だが科学的精神の意味する実証的精神は、同時に技術的精神をも意味する。その意味はこうだ。実践や実験は要するに社会に於ける生産の技術から離れては、社会的に存立するものではない。社会の生産技術に触れない如何なる行動も、単に肉体の運動ではあっても少しも実践的ではない。世界を根柢から動かすことが実践の最後の意味だろうが、生産技術に関わりない行動は世界を根柢から動かすことは出来ぬ。実験のプロパーな意味は、こうした技術的機動力を有つ実践が、自然に対して働きかける場合を指す。そして実験が生産技術の水準によって直接支配されることも、判り切ったことだ。実験は産業と一つづきのものだ(実験室と工場との結合を見よ)。かくて科学的精神は又技術的精神である。
 事実、技術的精神によるのでなければ事物の歴史的認識を齎すことは出来ないのだ。科学的精神とは、歴史的・技術的・精神である。実践的精神と論理的精神とが夫だ。――で、フィロロギー精神が如何に非技術的で非論理的であるか、又如何に非歴史的で非実践的なものであるかを、考えて見るがよい。処が夫がなおかつ、一見歴史的でそして技術的なものでさえあるように見える点こそが、フィロロギー精神の魔術なのであり、フィロロギー精神・引用精神・文献精神・の思い上り得る所以でもあるのだ。論理とはただの思考のからくりのことではない、現実そのものの組立てのことだ。だから実践は論理に立って初めて成り立つ。実践と論理との統一、というよりも論理に拠らねば実践が成り立たないという、このただの一つの世界的宇宙的事実そのものが、つまり科学的精神ということの説明に他ならない。

 科学的精神はあれ之の精神の一つなのではない。普遍的な精神なのだ。ヨーロッパ精神でもなければギリシア精神でもない、日本的精神でもなければ東洋精神でもない。そういうものと並ぶものではないのだ。夫々の異った時代・社会の・現実のある処に常に、要求されねばならぬ精神のことだ。云わば之は現実そのものの精神だと云ってもよい。――処でここからこういう一つの結論が出て来る。科学的精神の働きかける処は常に現実であり、常に目のあたりある処の現実だ。科学的精神はまず足下の現実を掴むべき機能を持っている。もし日本というものが問題なら、日本的現実を把握するものは科学的精神以外にない筈で、科学的精神でない処の日本精神か何かがあるなら、必ず夫は食わせものであるのだ。科学的精神は日本に於てはまず第一に、日本的現実を掴まねばならぬ筈のものなのだ。
 掴まねばならぬのではない、現に現代日本の科学的精神は最もよく「日本的現実」をつかんでいる、という一つの事実を、吾々は忘れてはならぬ。それを知らないか、又は忘れているか、見ぬ振りをするものは、各種の日本主義者だけだ。日本の現実は、諸外国に通用するカテゴリーの組み合わせによってしか分析出来ないこと、そうした日本独特の現実を科学的に解明しつつあるものは、一体どういう種類の人達であったか。で誰が本当に「公式主義者」であったか、公式主義呼ばわりをどっかから覚えて来た連中にそう質問したいのだ。科学的精神は尤も日本的現実を、いきなり日本文化日本人精神として掴みはしない。日本の現実は根本的にはそういうもので動いているのではないからだ。日本的現実は正に、日本の社会機構・生産機構を通して政治的に動いているのだ。分析をここから始めない限り、日本的現実の把握は歴史的でもなく又技術的でもない、つまり科学的でないのだ、ということを銘記すべきである。というのは、そうしないと、一切の日本論議が、恰も今日見るように、論理的にもならぬし、実践的にもならぬ、というのであり、筋も通らなければ物の役にも立たぬ、というのだ。
 さて之が科学的精神の要求する処である。之によって日本的現実のもつ日本固有の独特な特色も初めて正確に検出出来る。最近までのわが国の科学的な日本研究は、正にこの線に沿うて、部分的にしろ可なり着々と歩武を進めて来ていることを知らねばならぬ。この労作の蓄積とその方向とを無視して、徒らに、思い思いの落想のように、日本文化のあれこれの探究(?)を揚言することは、刺戟としての意味はあっても、何等日本の認識を日本人の自己認識を、富ます所以ではあるまい。――まして思い上った単なる文献学精神・引用精神・を以て、現代に至る「日本文化」を理解しようとするが如きに至っては、何の意たるかを知るに苦しむのである。

(一九三七・三)





底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
   1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
   1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
入力:矢野正人
校正:松永正敏
2003年9月11日作成
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