レーリー家の祖先は一六六〇年頃エセックス(Essex)州のモルドン(Maldon)附近に若干の水車を所有して粉磨業を営んでいた。一七二〇年頃ターリング(Terling)に新しく住家を求め、その後 Terling Place の荘園を買った。その邸宅はもとノリッチ僧正(Bishops of Norwich)の宮殿であった。その後ヘンリー八世の所有となったこともあった。その時の当主ジョン・ストラット(John Strutt)は Maldon からの M. P. として選出された。この人の長子は早世し、次男の Joseph Halden Strutt(一七五八―一八四五)が家を継いだ。彼は陸軍大佐となり王党の国会議員となり、Duke of Leinster の娘の Lady Fitzgerald と結婚した。これがここに紹介しようとする物理学者レーリー卿の祖父である。勲功によって貴族に列せられようという内意があったが辞退したので、爵位はその夫人に授けられ、夫人からその一人息子の John James Strutt(一七九六―一八七三)に伝えられた。これが最初の Lord Rayleigh となった訳である。Rayleigh は附近の小都市の名で、口調がいいというだけの理由でこの名を採用したものらしい。彼は Clara Elizabeth La Touche Vicars と結婚して、Langford に住んでいた。ここで John William Strutt が生れた。これがすなわち物理学者のレーリー卿である。
レーリーの血筋に科学的な遺伝があるとすればそれはこの外戚のヴィカース家から来ているらしい。すなわち外戚祖父とその兄弟は工兵士官であり、また外戚祖母の先祖にも優れた砲工兵の将官が居た。また祖母 Lady FItzgerald は有名なボイル(Robert Boyle)の兄弟の裔だそである。
一八四二年の十一月十二日に John Willam を生んだときに母は年わずかに十八歳であった。そうしてこの子はいわゆる七月子として生れたのである。三歳になるまで物が云えなかった。しかし物事にはよく気がついて、何でも指さして「アー、アー、アー」と云った。そうして「あれはお家です」、「犬です」という返事を聞かないうちはなかなか満足しなかった。祖父の大佐がこの子を始めて見たときに「これはよほど利口か、それとも大馬鹿だ」と云った。それはこの児の頭蓋骨の形を見てそう云ったものらしい。
生れて二十箇月後に階段から転がり落ちて、頭に青や黒の斑点が出来た。その後にも海岸の波止場から落ちて溺れかかった事もあった。また射的をしている人の鉄砲の筒口の正面へ突然顔を出して危うく助かった事もあった。大きくなるに従って物を知りたがり、卓布にこぼれた水が干上がるとどうなるかなどと聞いた。内気でそして涙脆く、ある時羊が一匹群に離れて彷徨っているのを見て不便がって泣いたりした。記憶がよくて旧約全書の聖歌を暗誦したりした。環境には何ら科学的の刺戟はなかったが、塩水に卵の浮く話を聞いて喜んで実験したり、機関車二台つけた汽車を見てその効能を考えたりした。伯母に貰った本で火薬の製法を知り、薬屋でその材料を求めて製造にかかっているところを見付かって没収された話もある。
一八五二年すなわち十歳のとき学校へ入るために Eton に行ったが、疱瘡に罹りまた百日咳に煩わされたりした。それで Wimbledon Common にあった George Murray という人の私塾のような学校に入って、そこで代数や三角や静力学初歩を教わったが、その頃からもう彼の優れた学才が芽を出して師を感嘆させた。同時にいたずら好きの天分をも発揮して、ガス管内に空気を押し込み、先生の祈祷が始まると燈火が自然に消えるという趣向を案出し実行した。その頃彼の父は彼に農業の趣味を養うために郷里で豚を飼わせ、その収入を彼の小使銭に充てた。この銭は多くは化学材料を買うために費やされ、ある時は燐で指を焼いた。後年ケルヴィン卿が化学会の晩餐演説でこの事を引合に出し、レーリー卿は十二歳のときに燐で指を焼いたそうだが、自分は八十二歳のときに全く同じ火傷をしたと云った。
十四歳のとき Harrow に入ったが、二年級になってから胸の病を得て退学した。生命もどうかと気遣われたが幸いに快癒したので今度は Rev. G. T. Warner の学校に入ってそこで四年間の修業をした。その間に一度 Cambridge の Trinity College におけるある Minor Scholarship の試験を受けたが失敗した。師の Warner は「今度はいけなかったが決して二度とは失敗しまい」と云った。その頃の彼の悪戯の傑作は、Milton の sonnets をそのまま自作のような顔をして田舎新聞に投書したことである。勿論新聞は夢にも知らずにそれを掲載した。
十五歳の頃から写真を始めてかなり身を入れてやった。その外の娯楽は乗馬、クリケット、フートボール、クロケー、射的などであった。その頃彼は休暇の度に近親の年上の誰かに淡い恋をしたが、次の休暇には前の恋人はすっかり忘れて、また別の初恋をするのであった。またある時は若い婦人に扮装して午餐会に現われ、父の隣席に坐って一座を驚かせた。
いよいよ Cambridge に入った。貴族の子弟であるので、Fellow Commoner として入学した。しかし極めて質素な生活をしていた。ここで有名な Routh の下に厳しい数学的訓練を受けた事が、後年の彼のために非常に有益であったことは彼自身も認めている。その頃彼はよく長椅子に凭れてぼんやりしていることがあった。友人には、面白い作り話を考えているんだと云ったが、実は数学の問題を考えていたらしい。彼は生涯喫煙はしなかった。
一八六四年の秋には Sheepshanks Exhibitioner に選ばれた。これは大変な名誉なことであったが、これについて母に送った手紙には「試験官が私の書いたナンセンスに感服したのは可笑しい」とあった。この秋から彼は始めてストークスの光学の講義に出席し、特にその講義でやって見せる実験を喜んだ。ストークスの考え方や表現の仕方がすっかり気に入ってしまった。そのうちに Mathematical Tripos の試験が近づいた。彼の伯母が心配して師のラウスに見込みを聞いたら、ラウスは "He'll do." と答えたそうである。
在学中の彼は試験官の銘々の癖をよく呑込んで、例えばトドハンター先生の出す問題を予知したりした。ある試験官は「ストラットの答案は多くの書物よりもいい」と云った。
一八六五年の正月に彼は遂に Senior Wrangler の栄冠を獲た。その表彰式に彼の母も参列したが、人々は「我 Senior Wrangler の姉君」のために万歳を三唱」した。実際母は彼よりただ十八歳の年長者であったのである。彼の郷閭の人々のうちには彼の学者として立つ事が彼の Lord としての生活と利害の相反することを恐れるものもあった。この学位を得た後に二人の友人とイタリア旅行をしたが、美術見物には大した興味がないようであった。
一八六五年の四月に始めての講演をした。ひどく「はにかみや」であったのでこの時の演説はよく聞き取れないくらいであった。しかし晩年はかなり講演がうまくなり、政治演説なども相当有効にやってのけるようになった。
自分の研究をする自由は得たが、実験を始めようとしても器械や道具が手に入れられなかった。定性分析のコースを一学期やらせてもらったくらいのものであった。しかし読物には事を欠かなくてマクスウェルの電磁気論(一八六五)や、マクスウェル及びヘルムホルツの色の研究、それからストークスやウィリアム・タムソンの主要な論文を読み、傍らまたミルの論理学や経済論を読んでいた。
一八六六年二十四歳で Trinity の Fellowship を獲た。その頃の友人の中には George Darwin も居たが、違った方面の友では Arthur Balfour すなわち後の首相バルフォーア卿と親交を結んだ。これが彼の生涯に大きな影響をすることになったのである。
一八六七年の八月に始めて大西洋を越えてアメリカの旅をした。帰ってみると彼の郷里ではチフスが流行していたので家族とともに五マイル離れた Tofts へ転地し、父のレーリー卿がただ一人 Terling に止まっていた。これが動機となって後にこの荘園内にあった「白鳥池」を利用して水道工事が出来、これが後に水力学の実験に利用されるようになったのである。
その頃彼は国会議員として政治生活に入るように彼の父その他からも勧められた。政治に対する興味はかなりあったが国会議員として立つ事は好まなかった。そうしてテートやマクスウェルなどと文通をしながら研究をしていた。またチャールス・ダーウィンとも知合になった。後年彼の書いたものの中にこんなことがある。「一八七〇年にダーウィンと一緒になったとき、あるアメリカ人からよこした手紙のことを話した。それは『失礼ですが貴方の顔が著しく猿に似ているという事実が貴方の学説をひどく左右したのだと思います』というのであった。」
一八六八年の米国旅行から帰ってから、彼は自分の実験に着手した。ルムコルフコイル、グローヴ電池、無定位電流計、大きな電磁石、タムソンの高抵抗ガルヴァなどを買入れた。最初にやった実験は、電流計の磁針が交流でふれることに関するものであって、その結果は同年の British Association で報告している。その外の実験は色に関するものや、電気感応と惰性とのアナロジーなどに関するもので、これに関するマクスウェルとの文通が保存されている。
一八七一年に、ケンブリッジに新設されたキャヴェンディッシ講座に適当な人を求める問題がおこった。その時レーリーからマクスウェルに送った手紙を見ると、ウィリアム・タムソンは決定的に辞退したから、是非ともマクスウェルが就任してくれるようにと勧誘している。その手紙の中でこう云っている。「この地位に望ましい人は、ただ講義をするだけの先生ではなくて、実験に体験をもった数学者で、そうして若い学者達の活動を正しい道に指導することが出来る人でなければならない。」マクスウェルは遂に承諾して最初の Cavendish Professor となった。その年にタムソンがヘルムホルツに送った手紙によると、もしマクスウェルが断ったら、この椅子はレーリーに廻るのであったらしい。
この年にマクスウェルの紹介で、共鳴に関する彼の論文が Phil. Trans. に出た。この論文が評議会を通過したことを告げたのは、ソリスベリー卿であった。「この間評議会で君の破れ徳利が出たよ」と云ったそうである。これが音響に関するレーリーの研究の序幕となったのである。彼が音響の問題に触れるようになった動機は、ある先生から是非ともドイツ語を稽古しろと勧められ、その稽古のためにヘルムホルツの Tonemspfindungen を読んだのが始まりだそうである。この最初の研究実験はターリングの邸宅の古いグランドピアノの上で行われたのである。
色の研究をしているうちに、空の色の影響に気が付き、それから、空の色そのものの研究に移り、ついに有名な λ-4 の方則に到達した。そうしてクラウジウスやティンダルの説を永久に否定してしまった。
これより先、一八六九年にロンドンで彼の学友アーサー・バルフォーアの二人の姉妹エリーノア(Eleanor)とイヴリン(Evelyn)とに紹介され、その後しばしば出遭う機会があった。イヴリンは音楽を好んでいたので、レーリーはヘルムホルツの書物を貸してやり、それが二人に共通の興味ある話題を提供した。その頃彼はソルスベリー卿の実験室を訪れて磁気に関する実験を見せられたりした。その時母に送った手紙に「あんなに不器用では実験家として成効しそうもない」と云ってこの政治家の余技を評している。この頃またグラドストーンにも会った。そうしてこの大政治家の能力と独創的天分とに感服すると同時に、科学的考察力の欠乏を認めた。グラドストーンは雪が長靴の革を滲透する特殊な力があるということを主張した。レーリーは、それは靴の上部にかかった雪が靴の中へ落ち込むのだと云って説明したが、結局どうしても了解を得ることが出来なかった。
一八七一年の五月にイヴリン・バルフォーアと婚約し、七月十九日に結婚式を挙げた。大学における fellowship は未婚者のみに許されるという規則であったので、結婚と同時に大学との縁は切れることになった。これは「将に来らんとする私の生活の転機の暗黒面だ」と云った。新婚旅行の途次にエディンバラの British Association に出席し、そこで始めてウィリアム・タムソンやテートと親しく言葉を交わした。旅行後ターリングに帰って秋と冬を送った。その間に彼等の新家庭を営むべき Tofts(Little Baddow における邸宅の名)の工事を監督するため毎週二、三度は新郎新婦駒を並べて出かけて行った。
一八七二年正月ケント州の Bedgebury の親戚の宅で泊っているうちに劇烈な熱病(rheumatic fever)に罹り、一事は心許ない容態であった。関節と肺とを冒されたのであった。幸いに治癒したが、急に年を取ったように見えた。
Toftsの新居に実験室を造ろうと考えてマクスウェルの知慧を借りたりしたが、結局ここにはわずかに四箇月くらいしか居ないことになった。ここでは主に廻折格子を写真で複製する実験をやったのである。後年この家の後継者はこの実験室を玉突き室に改造したそうである。
病後の冬の寒さを避けるためにエジプト旅行に出掛けた。夫人の姉エリーノアも同道した。その頃はまだ珍しかったスエズ運河を見、蜃気楼に欺されたりして、カイロに着き、そこから小船に乗ってナイル河を遡った。南京虫や蚤蚊に攻められながら、野羊の乳を飲み、アラビア人のコックの料理を食って、一八七二年の十二月十二日から翌年三月中旬にわたる単調な船住いをつづけた。この退屈な時間を利用して彼はその名著 Theory of Sound の草稿を書いていた。午前中は大抵キャビンに籠ってこの仕事に没頭していた。しかしすっかり戸口を締め切って蠅を殺してしまってから仕事にかかる必要があったのである。義姉のエリーノアはレーリーの机の前に坐って彼から数学を教わっていた。どんな面白い見物があっても午前中はなかなか上陸しようとしなかった。午後にはデッキへ出てエジプトコーヒーをすすりながら、エジプトロギーをひやかしなどした。
帰途はギリシアからブリンデイシ、ヴェニスを経て一八七三年五月初旬にロンドンに着いた。そうしてアーサー・バルフォーアの近頃求めた No.4 Carlton Gardens に落着いた。これが晩年までも彼のロンドンでの定宿となり、ほとんど毎年数週ないし数月をここに送ることになったのである。
旅から帰った翌月、すなわち六月十四日に彼の父のレーリー卿が死んだ。これは彼にとって大きな悲しみであったのみならず、父の遺産の管理という新たな責任が彼の科学的生活の前途を妨げはしないかという心配があった。
一八七三年の秋に新しきレーリー卿となった彼はトフツの邸から父祖の荘園ターリングに移った。それまでは石油ランプを使っていたのをガス燈にし、また実験用の吹管や何かに使用するために、新たに自家用のガス発生器を設備した。その他には客間にあったオルガンを書斎に移したくらいで、外には別に造作を加えるようなことはしなかった。晩年に到るまで、彼はこの旧宅に手を入れることは容易に承諾しなかった。そうして彼の幼時の思い出のかかっている家具の一つでも取除けることを許さなかった。
この年に彼は F. R. S. に選ばれた。そうして一八七四年から一八七九年までは平穏にターリングの邸で暮していた。一八七四年の夏頃始めていわゆる心霊現象(spiritualistic phenomena)の研究に興味をもつようになった。それはクルックス(W.Crookes)がこの方面の研究に熱心であったのに刺戟されたものらしい。彼は、もしこれらの現象が本当であれば、それはあらゆる他の科学的の発見よりも遥かに重要であると考えたのであった。しかし色々の実験に立合ったりした結果は彼を失望させた。もしそうでなかったら、彼はおそらく生涯をこの方面の研究に捧げたかもしれないということである。しかし彼が最後までこの方面の興味を捨て切れなかったことは、彼の死んだ年一九一九年に心霊現象研究会の Rresidential Address をやっているのを見ても分るであろう。何事も容易に信じない代りに、また疑わしいものでも容易には否定しないのが彼の特長であった。
一八七五年に上院で演説をさせられた。それは衛生問題に関することであったが、云いたいと思うことは皆口止めされて結局何も云うことがなくて困ったと云ってこぼした。これはソリスベリー卿が彼を政治界へ送り出す初舞台としてやらせたらしいのであるが、当時既にレーリーの心は科学の方へ決定的に傾いていた。一八七六年には動物虐待防止法案の修正を提出した。一八七二年にはグラドストーンから大学の財政に関する調査委員会の一員となることを勧められた。一八七七年大学令の改正委員が選ばれた時も、彼は仲間に入れられた。旧師のストークスもその員に加わっており、わざわざアイルランドから出かけて来たが、会議中ただの一語も発せずに坐っていたそうである。レーリーも会議にはあまり熱がなかったと見えて、ある人が彼にある科学上の問題を話しかけたとき、それは午後の委員会のときにゆっくり考えてみようと云った。この点「職務不忠実」であったのである。
一八七五年八月、ブリストルの大英学術協会に出席中に郷里から電報で呼びかえされた。彼の長子で現在のレーリー卿たる Robert John Strutt が生れたのであった。
一八七五年から七六年にわたる冬の数箇月間ビーチャム・タワー(Beauchamp Tower)というエンジニアーを助手として水力学の実験をした。この人は有名なフルード(William Froude)の弟子であった。前に述べた「白鳥池」を利用して水力実験室を作り、色々の形の穴から水を流出させるときの孔内の圧力分布を測ろうというのであった。この実験はその後にマロック(Arnulph Mallock)が完成し、而してレーリーの理論的の計算と一致する結果を得た。
一八七六―七七年の冬には、やはりフルードの弟子で、また親戚であった前記のマロックを助手として液体力学の実験をした。不思議なことにはこの時やった実験のことをすっかり忘れてしまって、四十一年後になって同様な実験をやることの提案をしている。
タワーやマロックのような、自分で独立の研究の出来るような人は彼の助手としてはあまり適当でなかった。それで一八八〇年までは全く助手なしで独りで実験していた。しかし後ではやはり助手のなかった事を悔いた。
一八七六年の Cambridge Mathematical Tripos の試験には補助試験官に選ばれた。その試験問題の討究のために試験官仲間をターリングに招待したが、そのためにソリスベリー卿とディスレリーとの和解の饗宴という歴史的のシーンに出席する機会を逸した。レーリーの出した試験問題(Coll.Pap.,1,p.280)にはオリジナルな点があった。問題が急所に触れていてただの elegant academic exercise ではなかった。
一八七三年にレーリーが家督を相続した頃は農業も相当有利であったが、一八七四年に外国貿易の頓挫した影響から、引いて農民の窮迫を来し、従って地主の財政も極めて不利になった。一八七九年から翌年へかけては小作人がだんだん土地を返上して来たので、地主は自作するより外途がなくなった。この財政の困難ということが、レーリーをしてケンブリッジの教授としての招聘に応じさせた主要な原因であったと云われている。
相続後の家政は大概、書記や執事や代言人に任せてあって、彼自身は大審院の役をつとめるだけであった。家作の修理などを執事がすすめてもなかなか受入れなかった。
農業に関する知識は相当にあって、人工肥料の問題にも興味があり、この点では却って旧弊な執事等より進取的であった。
弟の Edward Strutt が大学卒業後農事に身を入れるようになったので、一八七六年に家産全部の管理を弟に一任し、生涯再び家事には煩わされなくてもいいようになった。この時弟のエドワードはわずか二十二歳であったのである。吾々はこのエドワードに感謝したい気がする。
一八七七年の春はマデイラへの航海をした。昔夫人の父が肺病でここに避寒に行って亡くなったのである。その時の乗船にケルヴィンの羅針盤が三台備えてあった。タムソンはレーリーに手紙をやって、どうかこの器械を見て意見を聞かせてくれと頼んだ。その手紙に添えて彼の測深器の論文も送るとある。マデイラの断崖で気流の実験をして鳥の飛翔の問題を考えたりした。帰途プリモースに上陸し、そこからフルードの船型試験室を訪問した。レーリーはフルードの才能と人柄を尊敬していた。二人の行き方はどこか共通なところがあった。最も簡単な推理によって問題の要点を直進するところが似ていると、今のレーリー卿が評している。
一八七八年の五月に王立研究所(Royal Institution)で色に関する講演をした。十月二日には次男の Arthur(後に海軍士官)が生れた。一八七八ー七九年には王立研究所の評議員を務めた。
一八七七年に彼の Theory of Sound の初版がマクミラン(Macmillan)から出版された。一八七三年のナイル旅行の船中で稿を起したのが、足かけ五年目に脱稿したのである。書いて行く間に色々の新しい問題が続出する、それを一々追究してはその結果を別々の論文で発表していた。この著書の草稿は Mathem. Trip. の試験答案の裏面を利用して書いたのであった。ヘルムホルツは『ネーチュアー』誌上にこの書の紹介を書き、この書は正にタムソン―テートの『物理学』に比肩すべき名著であると云った。タムソン―テートの書物が遂に完結せずに了った一つの理由は、レーリーのこの書とマクスウェルの『電磁気学』が出て、それで大体書くべきことは尽されたからというのであった。これはタムソン自身の言明したことである。ヘルムホルツもまた出版者もこの『音響論』の第三巻を書くことを勧め、自分でもその気はあったが、遂に書かずに了った。しかし再版のときに色々な増補をした。
レーリーの初期の研究の中で、かなり永い間の手しおにかけて育て上げたものの一つは、廻折格子の問題と分光器の分解能(resolving power)に関する問題とであった。初めは大きく画いた格子を写真で縮写しようと試みたがうまく行かなかった。しかしその研究の副産物としていわゆる zone plates(光を集中する円形格子)を得た。しかし、別に発表するほどの珍しいこととも思わなかったらしい。それから四年後にソレー(Solet)、七年後にウッド(R.W.Wood)がこれについて論じたので世に知られたが、レーリーのやったことは誰も知らない。
当時の格子と云えばナベルト(Nabert)の作ったガラス製のものしかなかった。オングストレームの太陽スペクトルの図版もこれで取ったのであった。レーリーは縮写に失敗した後(一八七一)、このガラス格子を写真種板に直接に重ねて焼付けることを試みたらすぐ成効してたいそう嬉しがった。粒の粗い今のゼラチン乾板ではおそらく不成効であったであろうが、タンニン、蛋白、塩化コロジオンを使う古い方法が丁度適当であったのである。また重クローム酸ゼラチン法を用いて著しい結果を得た。そうして透明な棒の生ずる光波位相の反転に気付いた。この考えは後に発展して階段格子(chelon grating)となったのである。
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