それはとにかくすべての感覚を、器械的現象に引きならしてしまおうとしているところに、われわれはルクレチウスの近代科学的精神の発現を認めなければならない。
次には、固体元子は曲がりあるいは分岐しているのに対して液体の元子は丸くなめらかであるとしている。これも、一方に結晶体の原子格子の一小部分を考え、他方に液体の分子集合の緩舒な状態を考えれば、ある度まではあたっていると言われる。煙や火の元子は尖鋭な形をもっているが、もつれ合ってはいないと言っているのはよくわからない。また海水のごときは水の円滑な元子の間に塩の粗面的な元子が混合しているが、地下で濾過されれば、水だけが通過すると言っている。これらもおもしろい、一概に笑ってしまわれないところがある。
元子の形状は多種多様であるが、しかしその種類の数は有限である。もし無限の種類があるとすれば、その一種としてわれわれは無限に大きな形態をもった元子もあるとしなければならないという議論が述べてある。この議論はそのままでは科学者には了解し難いものである。しかし今かりに次のような言葉に翻訳してみると彼の言葉がいくぶんか生きて来るように思う。すなわち彼は形の変化は、形を定める「部分」の錯列によって生ずると考える。そしてその「部分」に有限な大きさを考えるとすれば、無限の種類を生ずるためには結局無限大の大きさのものの生ずる事を許容しなければならないことになるのである。この考えはある点において現代の原子内部構造の予想として見る時に興味が深い。すなわち原子はその核の周囲をめぐる電子を一つずつ増すことによって一つの物質から他の物質に移って行く。すなわち原子数を増して行く。もしも元素の種類が無限に多様にあるとすれば、原子数、あるいは原子量の無限大な物質原子が存在する事になるはずである。しかし実際にそんなものはない。すなわち原子の「形」の種類には制限があるのである。
……these primal germs
Vary yet only with finite tale of shapes.[#「finite tale of shapes」の部分はイタリック体]
この言葉が現代の原子模型をいかに適切に表わすものであるか。また言う
…………………………
Betwixt the two extremes: the things create
Must differ, therefore, by a finite change,
…………………………
これは寒と熱との間の段階の素量的推移を述べた言葉で、言わば温度の素量説として述べた言葉である。しかしこれはまたきわめて徹底的な一般的素量説の標語としても見られる。しかして現在洪水のごとく物理学の領土を汎濫しつつある素量の観念の黙示のごとくにも響くのではあるまいか。
元子の種類が有限であるという考えと、最初の元子個性説とは一見矛盾するように見える。しかしこの矛盾ははなはだ貴重なる矛盾であり、実に無機界の科学と生物界の科学との矛盾である。そうしてこの矛盾を融和することこそ、未来の科学の最も重大な任務でなければならない。
元子の種類は有限であるが、各種元子の数は無限である。これは物質総量の無限大という前提から来る当然の帰結である。
これら無数の元子はその運動の結果として不断に物を生成し、また生じた物は不断に破壊され、生成と破壊の戦いによって世界は進行する。生のそばには死、死のそばには生があるのである。この考えにはいわゆる「平衡」の観念が包まれている。
物の性能が複雑であればあるほど、その物の組成元子は多種多様である。われらの母なる地のごときものはその最も著しいものである。彼女はあらゆるものの母であるからである。そのために昔のギリシア人はこの地を人格化して神と祭り上げてしまった。しかしそれは譬喩である。地はただの無生の物質の集合に過ぎない。
動植物は地から食物をとって生長する。従って彼らの中には共通な元子が多分に包まれている。しかし共通な元子からできても、その元子の結合のしかたや順序によって異種の物ができる。あたかも種々に異なる語に共通なアルファベットがあるようなものである。
しかし元子の結合のしかたにある定則があって、勝手放題なものはできない。そのために生物はその祖先の定型を保存し、できそこないの妖怪はできない。すなわちここで初めて遺伝の問題に触れている。
そういう事がどうしてできるか。それは動植物が摂取する食物の中で、各自に適当なものは残存し、不適当なものは排出されるからである。すなわちここにも「選択の原理」の存在を持ち出している。これと同じ事は無機界にも行なわれている。すなわち元子の結合にはある定まった方則が支配している。そのおかげで個々の一定の物質が区別されると考えるのである。これも化学におけるあらゆる方則全体の存在を必要とする根本原理を述べたものと見られる。
次にはすでに前にも述べたごとく、元子に可触的物体と同じような二次的属性を付与する事の不都合を詳述している。たとえば元子に色があるとしては、同じものの色の変化することを説明し難い。色の変化は元子の排列順序の変化あるいは元子の交代によって説明せられうると言っている。これもはなはだ近代的である。
色は光あって始めて生じるものであると言っているのも正しい。暗中では色の見えぬ事、照らす光によって色のちがって見える事が引証されている。有色物質を粉末にすると次第に褪色するという事実が引用されているのもおもしろい。つまり、彼の考えではいっそう細かく分割して元子まで行けば無色になると言うつもりらしく読まれる。しかしここにいう色彩とそれが目を刺激する元子との関係はよくわからないのが遺憾である。
光が当たって色を生ずるのは光の元子の衝突し方によるもので、そのしかたの差は物質元子の形状によると述べてある。これはある程度まで近代的に翻訳する余地があるかと思われる。
同様に元子は香も味もなく、声も発せず、また熱くも冷たくもない。そういう変わりやすい無常的なる二次的属性が永遠不変なるべき元子にあるはずがない。
色のないものから色が生じるように、感覚のない土から蚯蚓が生まれる。草や水が牛馬に変わる。同じ元子が混合排列のしかたや運動のしかたによっていろいろのものができる。ここで彼は生物がいかにして無機物から生じうるかを説明せんと試みている。後条で精神の元子を論ずるのであるからここでそういう議論は必要がなさそうにも思われるが、しかしここでは心や精神と切り離して感覚を考えているらしい。それはとにかく、感覚を有するものの素成元子は感覚を有すべきだとする事は必要としない。むしろありとするほうが不合理だとする彼の所説にはかなり重要な意義を含蓄しているように思われる。結局はこれもやはり前にたびたび繰り返した、物質と生命との間の「見失われた鎖環」に関する考察の一端である。平たく言えば、もし元子が生物のごときまとまった感覚をもつとしたら、それの集合したものがいかにして一つのまとまった感覚を持ちうるかという考えであると読まれる。
その次に、生物がはげしい衝撃を受けると肉体と精神との結合が破れて後者が前者の孔から逃げ出すというような考えから、苦痛や快楽の物質的説明を試み、「笑いの元子」などというものはないと言ったりしている。このへんの所説はしかし私の今の立場から詳説すべき範囲外にあるからすべて省略する事とする。
これらの所説は畢竟するに人間霊魂非不滅論に導くべき前提としてルクレチウスのかなり力こぶを入れているところであるらしく見える。
以上の所説のごとくにして造られた世界には、同じようなものがたくさん共存するという考えから、われわれのと同じ世界が、他にもいくつも存在するであろうという考えが述べてある。これも一つの卓見であると言われよう。さように限りなき宇宙を一人の力で支配する神様はないはずだというところへ鋒先を向け、そして例の宗教の否定が繰り返される。
この条下にこの世界の誕生、生長、老衰、死滅に関することも述べられている。これらを省略して直ちに第三巻に移ろう。
三
第三巻の要項とするところは、人間精神の本性を論じこれもまた物質的なる元子より成るものであることを論じ、それから霊魂は死滅するものであるという事を「証明し」最後に死の恐るるに足りない事を結論するのにある。
これらの所論はルクレチウスの哲学的の立場からすれば最も重要な役目を務めるものであろうが、今の私の立場から見るとあまりに現在の科学の領域を逸出した問題である事はやむを得ない。もっとも今から百年二百年後の精神物理学者が今の私のような立場でこの巻を読めばあるいは、この巻において最も興味ある発見に出会うかもわからないという事は想像し得られる。しかし私としてはこの巻をきわめて概括的な、主としてマンローの摘要による紹介だけで通過しなければならない。これらの所説の哲学史的の意義については他の哲学書に譲るほかはない。
冒頭には例によってエピクロスにささげた礼賛の言葉がある。そうして、あらゆる罪悪を生むものは死の恐怖である。もし、精神というものの本性を明らかにさえすれば、死は決して恐ろしいものではなくなるであろうから、これからその説明を試みようというのが前置きである。
まず心(mind, animus or mens[#「animus」、「mens」の部分はイタリック体])は他の学者の説くごとく人体の調和原理でもなく生命原理でもなく、ちょうど頭や足が人体の部分であると同様の意味において人体の「部分」であるに過ぎない。その証拠には肉体が病気でも心は幸福でありうるし、心が悪くても健康でありうる。ちょうど足が痛んでも頭は平気でありうると同じである。
同様に精神(soul, anima[#「anima」の部分はイタリック体])もやはり人体の一部で全体の調和ではない。からだの部分を取り去っても、生命は持続する。これに反して「熱と空気の粒子」がほんのわずか逸出すると死んでしまう。これから考えると生命持続のためにはある特別な要素が必要だという事がわかる。しかしそれは人体に含まれている元素であって、全体の調和原理でもなんでもない。
ここで心と精神 animus と anima をルクレチウスがどう考えているかというと、両者は相互に連関したものであるが、心は支配者として胸の中枢なる心臓に座し、精神は全身に分布して心の命令に従うものとしている。私の読み得たところが誤りでなければ、彼のいわゆる心は脳に相当し、精神は全身に広がれる知覚ならびに運動神経に相当するように見える。そう思って読むと彼の言葉が了解しやすくなるのである。
心の衝動によって精神が刺激され、これが肉体を動かす。物質的肉体を動かすものはまた、物質でなければならない。ゆえに精神、従って心もまた物質的のものでなければならないと論ずる。これは彼の唯物観の当然の帰結であり、またおそらく現代の多くの物理的生理学者の暗黙のうちに仮定しつつある事でなければならない。
精神は物質であるとすれば、それはやはり物質的原子より成るはずである。ただし心や精神の元子は非常に微細でその速度は非常に大なるものでなければならない。なんとなれば考えの速さは何よりも早い。そして人が死んでも、少なくも見かけの上で、大きさも重量も変わらない。あたかも酒の気の抜けたようなものである、というのである。ルクレチウスはもちろん神経の伝播速度の実際などは知らなかったが、ともかくも考えの速さという事を物質的なるある物の速度で置換した。
人間の息を引き取る前とあととにおける体重を比較しようとする学者は今おそらく一人もないであろう。しかし徹底的なる現代科学的精神からすれば、この実験を遂行せずして始めから結果を断定する事は許されないであろう。
精神を組成するものは、「精」、「熱」、「空気」、とそれに第四のある「名のない者」とである。この第四の者は最細最微にしてかつ最も急速度のもので、これが感覚の基になるものであり、これが害せられると生命はなくなると説き、またこの四つのものが混合してある一つの全体を成すと言っている。
人間や動物の性情性質の相違はこの熱と精気と、空気との含有の割合によって生ずる。たとえば獅子は熱を、鹿は空気また精気を多く持っている、という筆法である。
精神は肉体によって結合され、さらに肉体を生かす。両者いずれか一を引きはなせば両者は破壊され生命は滅びる、また両者の相対的運動によって感覚が生じる。肉体の元子と精神の元子とが一つずつ対になっているというデモクリトスの説は誤りである。後者の数は前者に比してはるかに小さい、と論じる条がある。
これらの考えを基にしてルクレチウスは、精神は肉体の死とともに死滅するものであるという彼の信条を「説明」するためにおよそ二十八箇条をあげて彼の雄弁を発揮するのである。しかしこれを逐条ここで述べることは私の任務でないのみならず、いたずらに読者の倦怠を買うに過ぎないであろう。ただその一箇条として各種の生物に特有な性状の親から子へ遺伝する事実に論及し、そして心もまた「定まれる種子」を有する事を仮定しなければこの現象は説明し難いと言っているのは注目すべきである。またもし霊魂なるものが肉体へ突然入り込んで来るものであるとすると、一人の子供がまさに出産しようとする際には、いくつもの霊魂が産婦の枕もとに詰めかけて、おれがおれがと争うであろうと言っているのは読者をしておのずから破顔微笑させるものがある。
さて、霊魂が母体とともに死滅してしまうとすれば、死は少しも恐ろしくなくなってしまう。ローマが勝とうがカルタゴが勝とうが、霊肉飛散した後の我れにはなんのかかわりもない。たとえわが精神の元子は元子として世界のどこかに存在していても、肉を離れて分解した元子はもはや「我れ」ではない。もっとも、現に我れを構成していたすべての元子が、測るべからざる未来において、偶然に再び元のとおりに結合して今の我れと同じものも作るような事はありうるかもしれないが、その再生した我れが、前生の我れを記憶していようとは思われない。
死後に自分の死を悲しむべき第二の我れは存しないからわが死は我れにとって悲しみでない。死とともに欲望も死ぬるから、だれも、満たされなかった望みに未練を感ずるものはない。そしてたとえせいぜい幾年生き延びたところで永遠の死に対してはその余命は無に等しい。
死後に行くと言われる地獄は、実は目前の欲の世界である。これをのがるる唯一の道は万物の物理の研究である。
私はこのエゴイストの哲学についてはなんらの批評の言葉も持ち合わせない。しかし私は、現代においてもしも腹わたの奥底までも科学的にできあがった科学者がいたとしたら、少なくも彼の死に対する観念だけは、よほどこれと似たものでありはしないかを疑うものである。
以上彼の所説中で今の物理学者にとって最も興味あるものと思わるるのは、いったん成立して後に分解し離散した多数元子のある特定の集団が、たとえほとんど無限の時間の後であるとしても、再び元どおりに復活しうる機会を持つという考え、しかもそれはなんらの神の意志にもよらずして単に統計学的偶然の所産として起こりうるという考えである。これを読んだ多くの物理学者はボルツマンがそのガス論の第九十章に書き残した意味深きなぞを思い出さないわけには行かないであろう。
もう一つの注目すべき事は、この巻のみに限らないが、一般に元子の大きさが小さければ小さいほどその速度が大きいという考えが黙認されているらしく見えることである。いかなる根拠あるいは機縁によってこういう観念が生じたかはもちろん不明であるが、ともかくもこれは後代のガス論に現われたエネルギーの等分配の方則を少なくも質的に予想するものと見れば見られるという事である。
私は思う。直観と夢とは別物である。科学というものは畢竟「わかりやすい言葉に書き直した直観」であり、直観は「人間に読めない国語でしるされた科学書の最後の結論」ではないか。ルクレチウスを読みながら私はしばしばこのような妄想に襲われるのである。
ちなみにわが国の神官の間に伝わる言い伝えに、人間の霊魂は「妙に円き」たまであるという考えがあるそうである。この事を私は幸田露伴博士から聞いて、この条の心や精神の元子と多少でも似た考えがわが民族の間に存した事を知り奇異の感に打たれたのである。これはギリシア語のテュモスが国語のタマシイに似ていると同じく、はたして偶然であるか、そうでないか全くわからない。
四
第四巻に移るに当たって、私は以上の三巻を取り扱って来た私の紹介の態度と方法に多少の変更を加える必要を感じる。
以上紹介したところによって、私はルクレチウスの根底に存する科学的精神の一般的諸相と、彼の元子説のおもなる前提ならびにその運用方法の概念だけを不完全ながら伝えることができたように思う。以下の三巻に現われるこれらの根本的なものは、多く述べきたったものの変形であり敷衍であるとも見られる。
また一方、以下各巻に現わるる具体的の自然現象の具体的説明となれば、これらはそのままでは当然現在の科学に照らした批判に堪えうるものではない。
そういうわけであるから、これ以後も従前のごとく逐条的詳細の紹介解説をするとすれば、それはあまりにしばしば無用な重複に陥り、またあまりにわずらわしき些末の詮索に堕するほかはないであろう。たとえそれは読者の寛容を得るとしても、編集者から私に与えられた紙数には限りがある。
それで、私は、以下にはなるべく重複を避けながら、主として科学的に興味あるべき事がらを、やや随意に摘出しながら進行しようと思う。
第四巻の初めにおける重要題目は物体が吾人の視官によって知覚さるる機巧に関するものである。アリストテレスやピタゴラスらは、目から発射するある物が物体を打つために物が見えると考えたのに反して、この著者が物体から飛来する何物かが目を刺激するのであると考えた点は、ともかくも一歩だけ真に近い。しかしその物体から来るものは今日の光線でも光波でもなくて「像」(image)と名づける薄膜状の物質である。これはあたかも蛇の皮を脱するごとく、物体の表面からはがれて、あとからあとからと八方に飛び出す。その速度は莫大なものである。これが目を打つと同時にわれわれはその物体の形と色を知覚する。この像が鏡に衝突すると、反射し、そして「裏返し」になって帰って来る。物の距離の感ぜられるのは、像が飛んで来る時に前面の空気を押して目におしつけるためである。そのために鏡に映ったものは、鏡の後ろにあるように距離が感ぜられるというような解説がある。
反射角と入射角と等しいという意味の言葉もある。水中に插入した櫂の曲がって見える事は述べてあるが、屈折の方則らしいものは見いだされない。また数多の鏡による重複反射の事実にもともかくも触れてある。
表面の粗なる物体にこの「像」が衝突した場合には、この薄膜の像が破れてしまうから、映像を生じないという説明や、また遠方の物体が不鮮明に見えるのは長く、空中を飛行する間に無数の衝突を受けて、像のとがった角が次第につぶれてしまうからであるという光の拡乱の説明は、やや近代的なものを含んでいる。
知覚が与えるものは常に正しくても、その判断の誤りから錯覚を生ずると言っていろいろの例もあげてある。そしてこれに続いて自然の認識の基礎となるべきものはしかし結局吾人の感覚にほかならないという感覚論的方法論の宣言がある。これは後にマッハの一派によって展開されたものの先駆をなすものと見られる。そしてプランクらの「感覚からの開放」という言葉が彼らの意味では正当であるとしても、われわれはこのルクレチウスの所説もまた同時に真理として認容しなければならない。いかに人間が思い上がってみたところで、五官を封じられてしまって、そうして物理学の課程を学ぶ事がどうしてできるであろうか。
音響はやはり一種の放射物であるが「像」のようなものとは考えられていないらしい。そして音の散乱、反射というようなものも、どうにか論じてある。おもしろいのは音の回折の事実を述べてある所に、ホイゲンスの原理に似た考えが認められる。すなわち一つの音から次の音が生まれる。ちょうど一つの火花から多くの火花が生まれるようだと言っているのである。そして、光は影を作るが音は影を作らない事実に注意を向けている。
私は昔ある場所の入学試験の問題として、音波と光波の見かけの上の回折の差を証明する事を求めたが、正解らしい要点に触れたものはまれであった。多くの学生らは教科書に書いてない眼前の問題はあまり考えてみないものと思われる。そして教わったものなら、どんなめんどうな数式でも暗記していて、所問に当たろうが当たるまいが、そのままに答案用紙に書き並べるのである。二千年前のルクレチウスのほうがよりよき科学者であるのか、今の教育方針が悪いのか、これも問題である。
香や味の問題その他生理学的の問題の所説は全部略する。ただこの条に連関して人間の生活官能は人間の用途のために設計して作られたものではなくて、官能があって後にその用が生まれるものであると言って、目的論的自然観に反対する所論のある事を注意しておきたい。
巻末に性愛を論じた部分の中に遺伝素に関する考えが見いだされる。この考えはよほどまで具体的に現代の遺伝学説に近似するものであって、この事はすでに近ごろのネチュアー(6)[#「(6)」は注釈番号]の寄書欄で注意した人もあったくらいである。
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