ファラデーはしかし彼の直観を周到厳重な実験の吟味にかける事を忘れなかった。この事がなかったら彼はおそらく十九世紀の科学者であり得なかったに相違ない、ところでデモクリトス、エピクロス、ルクレチウスはたしかにファラデーのような実験はしなかった。そういう意味では彼らは明らかに科学者ではあるまい。しかしもし彼らがその驚くべき直観の力を具有してしかしてガリレー以後に生まれ、ファラデーの時代に生まれたと仮定したらどうであろう。
もっともルクレチウスを科学者と名づけるか、名づけないかというような事は実はどうでもよい事で、またどうでも言える事である。しかし私のここで問題とするところは、現代の精密科学にとってルクレチウスの内容もしくはその思想精神がなんらかの役に立ちうるかということである。ルクレチウスの内容そのものよりはむしろ、ルクレチウス流の方法や精神が現在の科学の追究に有用であるかどうかということである。
科学上ではなんらかの画紀元的の進展を与えた新しい観念や学説がほとんど皆すぐれた頭脳の直観に基づくものであるという事は今さらに贅言を要しない事であるにかかわらず、昔も今も通有な一種の偏狭なアカデミックの学風は、無差別的に直観そのものを軽んじあるいは避忌するような傾向を生じている。これは日本やドイツばかりには限らないと見えて米国の学者でこの事を痛切に論じたものもあった(4)[#「(4)」は注釈番号]。これは科学にとって自殺的な偏見である。近代物理学に新紀元を画した相対的原理にしても、素量力学や波動力学にしても、直観なしの推理や解析だけで組み立てられると考える事がどうしてできよう。私はアインシュタインやド・ブローリーがルクレチウスを読んだであろうとまでは思わないが、彼らの仕事に最初の衝動を与え幾度か行き詰まりがちの考えに常に新しい活路を与えたのは、私に言わせれば彼らの頭の中にいるルクレチウスのしわざである。決して彼らの図書室に満載された中のどの物理学書でもないのである。
しかし何もアインシュタインやブローリーらのごとき第一流の大家だけには限らない。ほとんどいかなる理論的あるいは実験的の仕事でも、少しでも独創的と名のつく仕事が全然直観なしにできようとは到底考えられない。「見当をつける」ことなしに何事が始め得られよう。「かぐ」ことなしにはいかなる実験も一歩も進捗することはあり得ない。うそだと思う人があらば世界の学界を一目でも見ればわかることである。
ケルヴィンやマクスウェルがルクレチウスを読んだのはなんのためであるかはよくわからない。しかし彼らがこの書の中に彼らに親しい何物かを感じたには相違ないと想像される。実際ルクレチウスに現われた科学者魂といったようなものにはそれだけでも近代の科学者の肺腑に強い共鳴を感じさせないではおかないものがある。のみならず、たとえ具体的にはいかに現在の科学と齟齬しても、考えの方向において多くの場合にねらいをはずれていないこの書物の内容からいかに多くの暗示が得られるであろうかという事はだれでも自然に思い及ばないわけには行かないであろう。
原子素量の存在、その結合による物質の構成機巧、物質総量の不滅、原子の運動衝突と物性の関係、そういうようなものが予想されているばかりでなく、見方によっては電子のようなものも考えられており、分子格子のごときものも考えられている。またおそらくニウトンが直接あるいは間接に受けついだと思われる光微粒子説でも一時全く忘れられていたのが、最近にまた新しい形で復活して来たのは著しい事である。また彼が生物の母体から子孫に伝わると考えた遺伝の元子のようなものが近代の生物学者の考える遺伝素といかによく似たものであるか。そういう事を考えてみる。十九世紀二十世紀を予言した彼がどうしてきたるべき第二十一世紀を予言していないと保証する事ができようか。今われわれがルクレチウスを読んで一笑に付し去るような考えが、百年の後に新たな意味で復活しないとだれが断言しうるであろうか。
私は自分の頭になんらの「考え」をもたない科学者がかりにあるとして、そういう人がルクレチウスを百ぺん読んでもなんの役にも立とうと思わない。女学校上がりの若い細君が料理法の書物を読むような気でこの詩編のすみずみまで捜したところで、すぐ昼食の間に合いそうな材料は到底見つからない。そういう目的ならば、ざらにある安い職業的料理書を見て、完全なる総菜料理を捜したほうがいいのである。
しかし多くの科学の探究者はそれでは飽き足らないであろう。その当代のその科学の前線まで進んで来て、そこでなんらかの自分の仕事をしようとしている人たちは、眼前の闇黒な霧の中にある何物かの影を認めようとあせっているのである。そうしてその闇の底に何かしら名状のできない動くものの影か幻のようなものを認めるように思う。しかしそれが何であるかははっきりわからない。そういう状態が続いているうちに突然天の一方から稲妻のような光がひらめいて瞬間に眼前のものの正体が見える。それからいよいよその目的物を確実につかむまでにはもちろん石橋をたたいてそこまで歩いて行かなければならない。行ってみると、それは実体のない幻影であって失望する事ももちろん往々ある。しかしこの天来の閃光なしには彼らは一歩も踏み出す事はできない。
今もしルクレチウスが現代の科学者にとって有効に役立ちうるとすれば、それはまさにこの稲妻の役目をつとめうる点である。たとえば化学的分子の立体的構造を考えていた化学者や渦動原子の結合を夢みていた物理学者にはルクレチウスの曲がったり角立ったりした元子は必ずなんらかの暗示を与え得たであろうと思われる。のみならずたとえば最近にボーアがネチュアー誌上に出した(5)[#「(5)」は注釈番号]
The Quantum Postulate and Atomic Theory.
と題する興味ある論文を読んだ後に、ルクレチウスの第一巻を開いて、
Even time exists not of itself; but sense
Reads out of things what happened long ago,
What presses now, and what shall follow after:
No man, we must admit, feels time itself,
Disjoined from motion and repose of things.
という詩句を
玩味してみると、いかに最新の学説に含まれた偉大な考えがその深い根底においてこの言葉の内容と接近しているかに驚かざるを得ない。もしルクレチウスの sense を「実験観測」と置換し、また彼の motion and repose を ΔE 等で置換すればこれはまさにボーアの所説となるのである。もちろん私はボーア、ハイゼンベルヒらがルクレチウスを読んで暗示を得たとは思わない。しかし彼らの考えが識域の下においてまさに発酵しようとしている際に彼らがもし偶然この詩句に
逢着したとしたら、そして彼らの心の窓が啓示の光に対して開放されていたとしたら、おそらく彼はデスクをたたいて立ち上がり、「ユーレーカ」を叫んだのではあるまいか。これはもちろん私の想像でありドラマであるが、そういう場面が、いつかどこかで起こり得ないとは保証し難いことである。
暗示の
閃光が役に立つためにはもちろん見るべきものに直面して両眼をあけていなければならないのである。それで科学の既得の領土に隠居して、
虎の子の勘定でもして楽しんでいるような人にはこの書はなんにもならない。また戦線の夜の野原の中を四つんばいになってしかも目かくしされたままで手探りで遺利を拾得しようとしている「落ち穂拾い」にもこれは足しにならない。要するに私がかりに、「科学学者」と名づける部類の人々には役に立たないが、「科学研究者」と名づけるべき階級の人々には、このルクレチウスは充分に何かの役に立つであろうと信じるのである。
一方において私は若い科学の学生にこの書の一読をすすめてもよいと思うものである。学生たちは到底消化しきれないほどの栄養を詰め込まれて知識的胃病にかかっている。人は決して
澱粉蛋白脂肪だけで生きて行かれるものではない。ヴィタミンが必要である。ヴィタミンだけでは生きて行かれないが、しかしヴィタミンを欠いだ栄養は壊血病を起こし
脚気症を誘発する。実際現代の多くの科学の学生はこれとよく似た境遇にありはしないかと心配される。そういう学生にとってルクレチウスが確かに一種のヴィタミンの作用を生じうるであろうと考えるのである。
以上長々しい前置きによって私は多くの読者の
倦怠を招いたであろうと思う。しかし多数の読者を導いてこのルクレチウスの花園に入るべき小径の
荊棘を開くにはぜひともこれだけの露払いの労力が必要であると思った。それほどに現代科学のバベルの塔の頂上に住むわれわれは、その脚下にはるかな地上の事を忘れていると思ったからであった。
これから私はルクレチウスの内容についてきわめて概略ながら紹介を試みようと思う。
もちろん私は哲学史については何も知らないものであるからこの書の所説の哲学史的の意義などはよくわからない。またどこまでがデモクリトス、エピクロスの説で、どこからがルクレチウスの独創によるか、そういう考証も私の
柄ではない。私はただ現代に生まれた一人の科学の修業者として偶然ルクレチウスを読んだ、その読後の
素朴な感想を幼稚な言葉で述べるに過ぎない。この厚顔の所行をあえてするについての唯一の申し訳は、ただルクレチウスがまだおそらく一度も日本の科学者の間にこの程度にすら紹介されなかったという事である。
ルクレチウスに関するあらゆる文献、内容に関する詳細の考証、注釈はマンローに譲りたい。
以下ルクレチウスと私の呼ぶものは、必ずしもローマの詩人ルクレチウス・カールスをさすのではなくて、かの書に示された学説の代表者を抽象してそれをさすものである事を承知した上で以下の解説を読んでもらいたいと思うのである。
一
ルクレチウスの第一編は女神ヴィナスに呼びかけた祈りの言葉で始まっている。これはあらゆる神と宗教とを無視し否定せんとする彼にふさわしからぬようであるが、実はこの彼のヴィナスは「自然」とその「生成の方則」をさしているように思われる。そう思って読むと彼の言葉が生きて来るようである。それからヴィナスに訴えて、どうかその愛人たる軍神マルスが、自分のこの詩を書く邪魔をしないように心配してくれと頼んでいる。これもシーザーやポンペイの活躍していた恐怖時代のローマの片すみで静かに科学の
揺籃をつづっていたこの人の心境をうかがわせるに足るのである。
要するにこの冒頭は詩編の形式を踏襲するために置かれた装飾のようであるが、これもまた彼の全巻をおおう情調の前奏曲として見るとおもしろいのである。
次に名はさしてないがロイキッポスあるいはエピクロスの
礼賛の言葉が出て来る。そしてこのギリシアの賢人が宗教の抑圧のために理知の光をおおわれていた人類に始めて物の成立とその方則を明示した功績をたたえている。そうして今自分がこのギリシア人の発見した真理の教えを伝えんとするに当たって、自分の母語ラテンがあまりに貧しいものであるとこぼしている。しかしせいぜい骨折って「物の中心の隠れた心核を見るためのかなたよりの光」を伝え、物の最初の
胚芽たる元子について物語ろうというのである。
そういう事を自分が論ずるのは神を
冒涜するものと思われるかもしれない。しかしそれよりももっと冒涜的な事をしばしば犯すものは実は宗教自身である。そう言って、イフィゲニアの犠牲の悲惨な例をあげ、犠牲の罪悪である事、その罪悪を犯させるものはすなわち宗教である事、そういう事になるのは
畢竟人間が死を恐れるためであるが、死が何物であるかをほんとうによく知りさえすれば、そんな恐怖もなくなり、従って宗教が罪を犯す事もなくなる。こう言って後に論ぜんとする霊魂非不滅論の伏線をおいている。わずかにこれだけ読んでも彼がいかにはえ抜きの徹底した自然科学者であるかがわかっておもしろい。現代の職業的科学者のうちには科学者の着物を着た迷信家がたくさんあるのに、二十世紀前に生まれて、エレクトロンの何であるかも知らなかったローマの詩人に、この徹底した科学者魂を発見するのはいささか皮肉である。
そうして彼は次の数句を歌う。
This terror, then, this darkness of the mind,
Not sunrise with its flaring spokes of light,
Nor glittering arrows of morning can disperse,
But only Nature's aspect and her law,
この句は後にもしばしばリフレインとして繰り返さるる。私はこの四句をどこかの科学研究所の喫煙室の壁にでも記銘しておいてふさわしいものであると思う。
この次の二句は
Which, teaching us, hath this exordium:
Nothing from nothing ever yet was born.[#「Nothing from nothing ever yet was born」の部分はイタリック体]
迷信から来る精神の不安を除くべき魔よけの護符はすなわち「物質不滅の方則」である、というのである。もちろん彼は彼の物質元子論から出発して、結局それから霊魂の可死を論ぜんとするのではあるが、彼のここに言うエキソルディアムは、おそらくもう少し一般化して「自然科学的世界観」をさすものと解釈しても、たぶん彼の真意を離れる恐れはあるまいと考えるのである。
現在の物理学における物質不滅則、原子の実在はだれも信ずるごとく実験によって帰納的に確かめられたものである。二千年前のルクレチウスの用いた方法はこれとはちがう。彼はただ目を眠りふところ手をして考えただけであった。それにかかわらず彼の考えが後代の学者の長い間の非常の労力の結果によって、だいたいにおいて確かめられた。これははたして偶然であろうか。私はここに物理学なるものの認識論的の意義についてきわめて重要な問題に逢着する。約言すれば物理学その他物理的科学の系統はユニークであるや否やということである。しかし私は今ここでそういう岐路に立ち入るべきではない。ただルクレチウスの筆法を紹介すればよい。
今日の科学の方法に照らして見れば、彼が「無より有は生じない」という宣言は、要するに彼の前提であり作業仮説であると見られる。もっとも、無から有ができるとすれば、ある母体からちがった子が生まれるはずだといったような議論はしているが、これらは決して証明ではあり得ない事は明らかである。さて、有から有が生じるとすれば、そこに有の種子を仮定する必要を生じて来るのであるが、この種子の考え方においてエピキュリアンはその先輩同輩に対して実に比較にならぬほど進歩している、あるいはむしろ現代の原子観に肉薄した考え方をしている。これも厳密な推理から得た結果ではなくて、結局は直観で透視したものであろう。ルクレチウスは正直な態度で Thus easier 'tis[#「Thus easier 'tis」の部分はイタリック体] to hold that many things have primal bodies in common(as we see the single letters common to many words)than aught exists without its origin. と言っている。そしてここに述べられたアルファベットが寄り集まっていろいろな語を作るように、若干の異種の原子がいろいろに結合していろいろのものを作るという彼の考えはほとんど現在の考え方と同様である。のみならずおもしろい事には現在われわれは原子の符号にアルファベットを用い、しかもまたいろいろの物質をこれら符号の組み合わせで表わすのである。これは全然ルクレチウスの直伝である。
そういう元子を人間が目で見る事ができないからといって、その実在を疑ってはいけない。たとえば、風は目に見えないけれどもあらゆる作用をするではないかと論じている。すなわち作用によって物理的実在を規定するのである。この数行を読んで私は十九世紀末に行なわれた原子の実在に関するはげしい論争を思い浮かべざるを得なかった。また物理学における「アンスロポモーフィズムからの解放」を唱えたプランク一派の主張や、また一方最近に至って、直接可測的のもの以外の実在性を否定しようとする新素量力学の先駆者らの叫びを思いくらべて、いかにこの問題が古いものであるかを知り得たのである。
目に見えぬ実在の他の例としては彼はなお、香気や湿気などをあげている。また物体の磨滅の現象からも、目に見えぬ微小部分が存するゆえんが引証されている。
元子によって自然を説明しようとするのに、第一に必要となって来るものは空間である。彼はわれわれの空間を「空虚」(void)と名づけた。「空間がなければ物は動けない」のである。彼の空間は真の空虚であってエーテルのごときものでない。この点もむしろ近代的であると言われよう。
物質原子の空間における配置と運動によってすべての物理的化学的現象を説明せんとするのが実に近代の少なくも十九世紀末までの物理学の理想であった。そうして二十世紀の初めに至るまでこの原子と空間に関するわれわれの考えはルクレチウスの考えから、本質的にはおそらく一歩も進んでいないものであった。近年に至って原子は電子とプロトーンによって置き換えられ、ごくごく最近に波動力学の出現によってこれら物質的素量に関する観念に始めて目立った変化をきたしつつある。また一方相対性理論の発展によって、いわゆる空間に属する考えもまたこの素朴な状態を離れて来たのである。しかし現在においても普通の大多数の具体的の問題は依然として昔のままの空間および原子で間に合っているのである。
さて、次に、物質は原子と空虚の混合であるという考えから物の有孔性や、比重の差違の生じる事を述べている。音響もまた原子の発散によるものと考えるから、音が壁を通過するのも壁の原子間に空隙があるからだと言って説明している。これは今の学生の答案として見れば誤謬である。しかし実際壁の元子間に空隙が少しもなく、従って完全剛体であったら、音のエネルギーは通過し得ないであろう。そういう意味ではこれもやはりほんとうである。ルクレチウスはその次に水中における魚の運動や、また物体の衝突反発の例をあげて空虚の説明に用いているが、この解説は遺憾ながら今の言葉に翻訳し難いように見える。
次には、空間と物質とが「それ自身に存在する」ただ二つのものであって、それ以外に第三のものはないという事を宣言している。その意味はすでに前述のごとく器械的力学的自然観の基礎として現代に保存されたものと同義である。これは物の作用や性質やまでも物体視せんとするストア派の学者に対する手ごわい論難として書かれたものであるらしい。そしてそれはまた今の物理の学生たちがあたかもあたりまえの事であるように教わり、またそう思ってかつて一度も疑ってみる事すらしなかった事である。これも皮肉な事である。今の学生の頭が二千年前の詩人よりも劣っているのか、それとも今の教育法が悪いのかそれはわからない。
ここで注意すべきもう一つの事は、「時間」なるものがやはりそれ自身の存在を否定されて、物性や作用などと同部類のいわゆる偶然的な、非永存的のものと見なされている事である。これも一つのおもしろい考え方である。十九世紀物理学の力学的自然観は、すべての現象を空間における質点の運動によって記載しようとした。そのために空間座標三つと時間座標一つと、この四つの変数を含む方程式をもってあらゆる自然現象の表現とした。後に相対性理論が成立してからは、時もまた空間座標と同様に見なされ取り扱われるようになったが、時というものの根本的な位地を全然奪おうとした物理学者はなかった。しかしもともと相対性理論の存在を必要とするに至った根原は、畢竟時に関する従来の考えの曖昧さに胚胎しているのではないかと考えられる。時間もそれ自身の存在を持たないと言ったルクレチウスの言葉がそこになんらかの関係をもつように思われる。「物の運動と静止を離れて時間を感ずる事はできない」という言葉も、深く深く考えてみる価値のある一つの啓示である。彼は「運動」あるいは速度加速度にともかくも確実なる物理的現象、可測的現象としての存在を許容して、時間のほうをむしろ従属的のものと考えているかのように見える。この考えははたしてそれほど価値のないものであろうか。
普通力学の問題において、運動方程式が完全に解かれた場合には、すべての質点の各位置における速度、加速度、運動量、あるいはエネルギーのごときものが、それぞれ時の函数として与えられる。逆に、たとえ常に単義的ではないまでも、この後者の数値が与えられれば、それから時間がこれらの函数として与えられうるのである。またおもしろい事には可逆的週期運動の場合にはかくして得られる「時」は単義的に決定されない。しかして実際そういう運動のみの世界には物理学的に非可逆の時は存在しないのである。そこで私は一つの夢のようなものを考えさせられる。われわれは時の代わりに或る何かのエネルギーあるいは「作用」のごとき量を基本的のものとしてこれを空間と対立させる事によって、新しき力学的系統を立て直す事は不可能であろうか。そうする事によっていろいろの現代の物理学当面の困難が解決されうる見込みはないものであろうか。少なくもルクレチウスの言葉はこういう問題を示唆するもののように思われる。
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