亮の一周忌が近くなった。かねてから思い立っていた追憶の記を、このしおに書いておきたいと思う。
亮は私の長姉の四人の男の子の第二番目である。長男は九年前に病死し、四男はそれよりずっと前、まだ中学生の時代に夭死した。昨年また亮が死んだので、残るはただ三男の順だけである。順はとくにいでて他家を継いでいる。それで家に残るは六十を越えた彼らの母と、長男の残した四人の子供と、そして亮の寡婦とである。さびしい人ばかりである。
亮の家の祖先は徳川以前に長曾我部氏の臣であって、のち山内氏に仕えた、いわゆる郷士であった。曾祖父は剣道の師範のような事をやっていて、そのころはかなり家運が隆盛であったらしい。竹刀が長持ちに幾杯とかあったというような事を亮の祖母から聞いた事がある。
亮の父すなわち私の姉の夫は、同時にまた私や姉の従兄に当たっている。少年時代には藩兵として東京に出ていたが、後に南画を川村雨谷に学んで春田と号した。私が物心ついてからの春田は、ほとんどいつ行っても絵をかいているか書を習っていた。かきながら楊枝を縦に口の中へ立てたのをかむ癖があった。当時のいわゆる文人墨客の群れがしばしばその家に会しては酒をのんで寄せがきをやっていたりした。一方ではまた当時の自由党員として地方政客の間にも往来し、後には県農会の会頭とか、副会頭とか、そういう公務にもたずさわっていたようであるが、そういう方面の春田居士は私の頭にほとんど残っていない。
わくに張った絵絹の上に山水や花鳥を描いているのを、子供の私はよくそばで見ていた。長い間見ていても、ほとんど口をきくという事はなかった。しかし、さも楽しそうに筆を動かしては楊枝をかんでながめているのを、そばで黙って見ているのがなんとなく気持ちがよかった。そこにはいつものどかな春永の空気があった。
私のみならず、家内じゅうのだれともめったに口をきいている事はまれなようであったが、ただ夕飯の膳にきまって添えられた数合の酒に酔って来ると、まるで別人のように気軽く物を言った。四人の子供や私などを相手にしていろいろの昔話をした。若い時分に東京で習ったとかいう講釈師の口まねをしたりして皆を笑わせた。藩兵になって日比谷の藩公邸の長屋にいた時分の話なども、なんべん同じ事を聞かされても、そのたびに新しいおもしろみとおかしみを感じさせた。それで子供らは、そういういくつかの取っておきの話の中から、あれをこれをと注文して話させては笑いこけるのであった。夏になると裏の畑に縁台を持ち出して、そこで夜ふけるまで子供を肴にして酒をのんでいた。どうかすると、そこで酔い倒れてしまったのを、おおぜいで寝間までかつぎ込んだものである。どうかするときげんのよくない時もあって、そういう時は子供らは近づいてはいけない事になっていた。
春田は十二三年前に五十余歳で喉頭癌のためにたおれた。私の見た義兄は、珍しく透明な、いい頭をもっていて、世態人情の奥の底を見透していた人のように思われる。それでいてほとんど俗世の何事も知らないような飄逸なふうがあった。
郷里の親戚や知人の家へ行けば、今でも春田のかいた四君子や山水の絵の襖や屏風が見られる。私はそれを見るたびに、楊枝をかみながら絵絹に対している春田居士を思い浮かべる。その幻像の周囲にはいつものどかな春の光がある。
亮の生まれた時の事を私は夢のように覚えている。当時亮の家には腸チブスがはいって来て彼の兄や祖母や叔父が相次いで床についていたので、彼の母はその生家、すなわち私の家に来て産褥についた。姉の寝ていた枕もとのすすけた襖に、巌と竹を描いた墨絵の張りつけてあった事だけが、今でもはっきり頭に残っている。
少年時代の亮について覚えている事はきわめてわずかである。舌のさきを奥歯にやって、それをかみながら一種の音を立てる癖があった事を思い出す。これが父の楊枝をかむ癖と何か関係があったかどうかはわからない。それから何かのおりに、竹の切れはしで、木瓜の木をやたらにたたきながら、同じ言葉を繰り返し繰り返しどなっていた姿を思い出す。その時の妙に仙骨を帯びた顔をありあり見るように思うが、これはあるいは私の錯覚であるかもしれない。またある時はのらねこを退治するのだと言って、槍かあるいは槍といっしょに長押にかかっていた袖がらみのようなものかを持ち出して意気込んでいたが、ねこの鳴き声を聞くと同時にそれを投げ出して座敷にかけ上がったというような逸話もあった。
三人の兄弟のだれと思い比べてみても、どこか世間をはなれたような飄逸なところのある点でいちばん父の春田居士の風貌を伝えていたのではないかと私には思われる。
幻燈というものがまだ珍しいものであったころ、亮がガラス板にかいた絵を、そのまま紙の小さなスクリーンに映写し、友だちを集めて幻燈会をやった事もあった。つまらないような事ではあるが、そういうふうの一種のオリジナリティもない事はなかった。
たしか右の眉尻の上に真紅な血ぼくろのようなものがあって、それを傷つけると血が止めどもなく流れ出た。そんな思い出が、どういうものか、私にはまたなくなつかしいものである。
亮の存在が、私の頭の中で著しく鮮明になって来たのは、私が国の中学校を出て高等学校に入学し、年々の暑中休暇に帰省した時分からである。
片田舎の中学生で、さきざき高等学校から大学に進もうという志望をいだいているものにとっては、暑中休暇に帰省している先輩の言動はかなり影響のあるものである。そういうような影響もあるいはあったろうが、暑中休暇の間はほとんど毎日のように私のうちに往来した。当時どんな事が二人の話題に上ったかは思い出せないが、いずれ人生とか、運命とか、あるいは文学とか、芸術とか、そういう種類の事がおもなものであったらしい。当時若々しい希望に満ちて理想のほか何物も眼中になかった叔父と、そろそろ家庭以外の世界に目をあけかかった感受性に富んだ甥との間には、夢のような美しい空想の国が広がっていた事であろう。
つまりどこか気が合っていたものと見える。南国の炎天に写生帳をさげて、よくいっしょに水彩画をかきに出かけたりした。自転車の稽古をして、少し乗れるようになってからいっしょに市外へ遠乗りに行って、帰りに亮が落ちて前歯を一本折った事もあった。
そのころの亮の写生帳が保存されているのを今取り寄せて見ると、何一つ思い出の種でないものはない。第一ページには十七字集と題して、幼稚な、しかし美しい夢に満ちた俳句が、紫鉛筆や普通の鉛筆でかき並べてあって、その終わりの余白には当時はやった不折流のカットがかいてある。また自刻の印章――ボート形の内に竪琴と星を刻したの――が押してある。自分の家の門や庭の芭蕉などの精密な写生があるかと思うと、裏田んぼの印象風景などもある。「くいし(山名)へ行くにはどっちですか」「神社」「アツマコート」「小女山道」「昼飯」「牛を追う翁」「みかん」「いこいつつ水の流れをながめおれば、せきれい鳴いて日暮れんとす」など、とり止めもない遠足の途中のいたずら書きらしいものもある。
亮のかいた絵に私が題句をかいたり、亮の句に私が生意気な評のようなものをかいたりしたのもある。私はそのころ熊本で夏目先生に句を見てもらっていた。そして帰省すると甥に句を作らせて自分が先生のつもりでいたものらしい。とにかくそのころの亮と私の生活はない交ぜたもののようになっていた事がこの帳面を見てもよくわかる。
裏坪や台所などのスケッチを見ると、当時のB家のさまがいろいろ思い出されて、そのころからわずかに二十年の間に相次いでなくなった五人の親しい人々の面影を、ついそこらに見るような気がする。
私が大学へ移ったのと入り代わりぐらいに、亮は熊本の高等学校へはいった。同じ写生帳の後半にはそこの寄宿舎や、日奈久温泉、三角港、小天の湯などの小景がある。日奈久の温泉宿で川上眉山著「鳰の浮巣」というのを読んだ事などがスケッチの絵からわかる。浴場の絵には女の裸体がある。また紋付きの羽織で、書机に向かって鉢巻きをしている絵の上に「アーウルサイ、モー落第してもかまん、遊ぶ遊ぶ」とかいたものもある。
亮が後年までほとんど唯一の親友として許し合っていたM氏との交遊の跡も同じ帳面の絵からわかる。
中学時代からいっしょであったのが、高校の入学試験でM氏は通過し、亮は一年おくれた。その時M氏に贈った句に「登る露散る露秋の別れかな」というのがある。
高等学校では私もよく食った凱旋饅頭を五十も食って、あとでビットル散をなめたりしていたらしい。
大学は農科へ入学して、農芸化学を修めていたが、そのうちにはげしい神経衰弱にかかって学校を休学した。それきりどうしても再び出ようとは言わなかったのを、私が留学から帰った時に無理にすすめて出る事にはなったが、それでもやはり学校は欠席がちであった。
そのころは私はもう青年ではなかった。空想から現実の世界へ踏み込んで、功名心にかられて懸命に努力し、あくせくしていた。そうして亮の学校をなまける心持ちには共鳴し難くなっていた。私の目から見るとただ自分の心の中へ中へと引っ込んで行く亮を、どうでも引き立てて外側へ向け直してやる事が自分の務めのように思っていたので、機会あるごとに口をすくして説法のような事を聞かせた。
その当時の亮の日記のようなものを見ていると、こんな一節がある。
「明治四十四年十一月二十八日――昨日青山の宿から本郷の下宿へ移った。朝押し入れから蒲団や行李を引き出して荷造りをしている間にも、宿を移ったとて私はどうなるだろうと思う。叔父さんや弟は、宿でも変えて気分を新たにしたら学校へ行けるような心持ちになるだろうという。私は学校のほうへ一歩も向かう勇気はもうない。いやだいやだと思う。室いっぱいに取り散らした荷物を見るとやはり国へ帰りたい念が強く起こる。今宿へ払う金が十円ばかりある。これで、きょう思い切って帰ろうとしきりに思う。しかし国へ帰っても自分のうちへ帰るのではない――兄と嫂の家――苦しい事は同じだ。私は自分をどうする事もできない。しかし私はこうしていても、ついには田舎で貧しくとも静かに生活するという、私が自分を省みてのただ一つの望みが満たさるる時が来る事はないように思われる。この望みが、もう全く活力のない私を自分に捨てかねる原因になっている。こんな望みもなくなってほしい。前途が全く暗くなってしまったら、とこんな事を思ってポカンとしていると、弟が来てくれた。そしてただもうなんという事なしに移ってしまった。」
「夜弟と叔父さん所へ行く。こいつはもうだめだと思いながら、そのものに対する責任は尽くして行くといったような態度や弱き者に対する軽侮の笑いに対しては、生きている私は屈辱を感ぜずにはいられなかった。」
私はここまで読んだ時に、当時の自分のどこかに知らぬ間に潜んでいた弱点を見抜かれたような気がして冷や汗が流れた。
その次にまたこんな事がかいてある。
「自分を発展しなくてはやまない活力、これが人生を楽しむ要素である。」
亮がどうしてこうはげしい神経衰弱にかかったかは私にはよくわからない。一つはそのころひどく胃が悪くて絶えず痛んでいたという事が日記の中にも至るところに見いだされ、またいつであったか一度は潰瘍の出血らしいものがあったという話を聞いているから、この病気のためもあったに相違ない。実際その前から胃弱のためにやせこけて、人からは肺病と思われていた。
この記事より二年前明治四十二年十一月を起点とした「どうなりゆくか」と題した彼の日記の最初のページからもうこの胃痛の記事が出て来る。そして学校の不愉快、人に対する不平、自己に対する不満、そういう感情の叙述と胃の痛みの記事とが交錯して出てくる。
しかしこの消化器病のほかに亮を悩ましていた原因もいろいろないではなかった。それは、第一には父の春田が当時不治の病気にかかっていた事である。私は海外へ出ていてほとんど何事も知らずにいたが、日記を見るとそれに関する亮の煩悶のようなものがいくらかうかがわれる。四十二年十一月七日のには、
「……近ごろ身内のものから手紙が来ると、父の病気が悪くなったのかとなんだか恐ろしい。……父の病気に対して、私の心持ちは、ただなんだか恐ろしいというにとどまる。それでいつも考えまい考えまいと努め、またそうしていられる。見舞いの手紙も一度も出した事はない。不孝の子だ。……」
「弟と通りを散歩しながら、いつになく、自分の感情の美しからざる事などを投げ出すように話した。おれは自分をあわれむというほかに何も考えない。こんな事を言った。そして弟の前に自分を踏みつけた時に少し心の安まるような心持ちがした。しかしこの絶望の声に対して少しの同情を期待したというような弱い心持ちもあったようだ。……自分は自分の生命を左右するような大事は、恐れて忘れよう忘れようとつとめる。そして日々 trifles によって苦しめられている。」
「高等学校の校医の○○も、○○という体操教師も『君のにいさんはとても高等学校もよう卒業しまいと思っていたが、大学へ行くようになったから、存外かまわないものだ』と言ったと弟が話した。それを聞いてなんだか一種自分というものに対する責任が多少軽くなったような安心を覚えた。」
第二第三の原因らしいものも考えられない事はないが、それらはここには書かない。
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