五
上野のデパートメントストアの前を通ったら広小路側の舗道に幕を張り回して、中に人形が動いていた。周囲に往来の人だかりのするのを巡査が制していた。なんとなく直感的にその幕の中には人が死んでいそうな気がしたが、夕刊を見るとやっぱり飛び降り自殺であった。あまり珍しくないそれであった。
それから数日後にまた同じ屋上庭園から今度は少しばかり前とちがって建物の反対側へ飛んだ女があった。そうして庭園はついに閉鎖された。
また数日たって某大学の構内を通ったら壮麗な図書館の屋上に立ってただ一人玄関前の噴水池を見おろしている人がある。学生であるか巡視であるか遠いのでよくわからなかったが、少し変な気持ちがした。その後さらに数日たって後、同じ大学の中央にそびえた講堂の三階から飛んだ学生があったという夕刊記事を読んで、また変な気持ちがした。この終わりの自殺者と、前の図書館屋上の人とはおそらくなんの関係もないかもしれないが、しかし自分の頭の中では前後四人の「屋上の人」がちゃんと一つの鎖でつながれている。
臆病者の常として自分もしばしば高い所から飛びおりることを想像してみることがある。乾坤一擲という言葉はこんな場合に使ってはいけないだろうが、自分にはそういう言葉が適切に思い出される。飛びおりてしまえば自分にはその建物もその所有者も、国土も宇宙も何もかも一ぺんに永久に無くなるのだから、飛ぶ場所の適否の問題も何もないであろうが、他の人にはやっぱり世界は残存しその建物と事件の記憶は残るであろう。
また数日たって後の雪のふる日、ある婦人がその飼っていた十姉妹の四羽とも一度に死にかかったのを手のひらへのせて一生懸命火鉢で暖めていた。見ると、もう全く冷たくなってしまっている。しかし、「たとえだめでもそうしないと気がすまない」のだという。「人間が死んだらお経をあげると同じじゃありませんか」とその人はいう。
こういう唯心論者もまだ少しはいるのである。
六
ある大学講堂の前へ突き当たって右の坂道へおりようとする曲がり角に、パレットナイフのような形の芝生がある。きちょうめんにちゃんと曲がり角を曲がってあるくのと、その芝生の上を踏みにじって行くのとで、歩く距離にすれば三尺とはちがわない。しかし多くの人がその三尺の距離の歩行を節約すると見えて芝生がそこだけ踏みつぶされてかわいそうにはげている。この事を人に話したら、それは設計が悪いのだという。そんな所へ芝生をこしらえるのが間違っていると言われてなるほどそれもそうかと思った。
上野竹の台の入り口に二つ並んで噴水ができた。その周囲の芝生に立ち入るなと書いた明白な立て札はあるが、事実は子供も大供も中供もやはり芝生に立ち入って水の面をのぞかなければ気が済まないのである。これもたしかに設計が悪いと言われなければならないのがいわゆる時代の推移であろう。二十年前だったら、設計も立て札も当然自明的であって、制札を無視するのが没公徳的で悪いのであった。
自分の郷里では、今は知らず二十年も以前は、婚礼の三々九度の杯をあげている座敷へ、だれでもかまわず、ドヤドヤと上がり込んで、片手には泥だらけの下駄をぶら下げたままで、立ちはだかって花嫁や花婿の鼻の高低目じりの角度を品評した。それを制すれば門の扉の一枚ぐらい毀たれても苦情は言えなかった。これはむしろ一九三〇年を通り越していたとも考えられる。
今度法令が変わると他人の家へうっかり黙ってはいって来るものにはピストルを向けてぶっ放してもいいことになるという話である。これは芝生の場合とは逆の方向への推移である。もっともアフリカ内地へでも行けば、今でも、うっかり国境へ入り込んで視察でもしていたというだけでもすぐ拘禁され、場合によると命があぶない所もあるかもしれない。
これらの事実の関係ははなはだ錯綜していて、考えても考えても、考えが隠れん坊をして結局わからなくなるのである。時代は進むばかりであとへはもどらないはずであるが、時代の波の位相のようなものはほぼ同じことを繰り返すのかもしれない。しかしただ繰り返すだけではなくて、やはり何かしらあるものの積分だけは蓄積しているには相違ない。そうしてその積分されたものの掛け値なしの正味はと言えば結局科学の収穫だけではないかという気がする。思想や知恵などという流行物はどうもいつも一方だけへ進んでいるとは思われない。
七
妙な夢を見た。大河の岸に建った家の楼上にいる。どういうわけかはわからないが、この自分はもう数分の後には、別室に入って、自分からは希望しない自殺を決行しなければならないことになっている。その座敷というのがこっちからよく見える。大きな川に臨んだ見晴らしのいいきれいな部屋で、川向こうに見える山は郷里の記憶に親しいあの山である。だれとも知れず四五人の人々がそばにいておし黙っている。五分、三分、一分いよいよ時刻が迫ったのでずっと席を立ってその別室へはいった。その時までは死ぬことに対しては全く平気でいたのが、そこへすわった瞬間に急に死ぬのがいやになった。それはちょうど大河の堤を切り放したように、生命への欲望が一度に汎濫した。と思うと大きな恐ろしいうなり声のようなものが聞こえて目をさました。
二三日前にある友人とガリレーやブルノやデカルトの話をした。そうして、学説と生命とを天秤にかけた三人が三様の解決を論じた。その時に頭を往来した重苦しい雲のようなものの中に何かしらこういう夢を見させるものがあったかもしれない。
ブルノは学問と宗教と生命とを切り離す事ができなかった。デカルトではこれが分化されていたように見える。ガリレーはその二人の途中に立って悩んでいたのであろう。
この夢を見た夜は寝しなに続日本紀を読んだ。そうして橘奈良麻呂らの事件にひどく神経を刺激された、そのせいもいくらかあったかもしれない。臆病者はよくこんな夢を見る。
(昭和五年三月、改造)
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