ペンクの講義は平明でしかも興味あり示唆に富んだ立派な講義であると思われた。聴講者には外国人も多かったが外国人同士はやはり自然に近付きになりやすかった。英国人のオージルヴィ君や、ルーマニアのギリッチ君などとよく教室入口の廊下で立話をした。後者は今ベルグラードの観測所に居るが前者の消息は分らない。ドイツ学生の中にはずいぶん不真面目らしい茶目や怠け者も居て一体に何となく浮世臭い匂がこの教室全体に漂っているのを感じた。自分は幸いにここでも図書室を自由に開放してもらって、読書したりノートを取ったり、また河のメアンダーに関する小さな「仕事」をさせてもらったりした。ドイツの学者のアルバイテンという言葉の意味がここに一年半通って同学者のやり方を見聞している間に自ずから会得出来たような気がした。一に根気二に根気で集輯した素材を煉瓦のように積んで行くのである。
探険家シャックルトンがベルリンへ来たときペンクの私邸に招かれ、その時自分も御相伴に呼ばれて行った。見知らぬ令夫人を卓に導く役を云い付かって当惑した。その席でペンクは、本日某無名氏よりシャックルトン氏の探険費として何万マルクとかの寄附があったと吹聴した。その無名氏なるものがカイザー・ウィルヘルム二世であることが誰にも想像されるようにペンク一流の婉曲なる修辞法を用いて一座の興味を煽り立てた。
ペンクは名実共にゲハイムラートであって、時々カイザーから呼立てられてドイツの領土国策の枢機に参与していたようである。今日はカイザーに呼ばれているからと云ったような言葉を何遍も聞いたような記憶がある。
いつか海洋博物館での通俗講演会でペンクが青島の話をしたとき、かの地がいかに地の利に富むかということを力説し、ここを占有しているドイツは東洋の咽喉を扼しているようなものだという意味を婉曲に匂わせながら聴衆の中に交じっている日本留学生の自分の顔を見てにこにこした。後年欧洲大戦の結果として青島がドイツの手を離れたときに何となくその時の講義が思い出された。
海洋博物館の前を西へ高架線に沿うて行くと停車場の前をぬけてスプレーの河岸へ出る。河岸に沿うて二、三町先のマルシャル橋の南詰の角に物理教室がある。ここで聴いたキービッツという若いプリバート・ドチェントの空中電気の講義は始め十人くらいの聴講者がだんだん減ってとうとう二、三人になってしまった、そのせいか数時間でおしまいになった。物理学輪講会はルーベンスが座長であったがプランクもほとんどいつも欠かさず出席してこの集会の光彩を添えていた。老人株ではカナル線の発見者ゴールトシュタインや、ワールブルヒなどがおり、若手ではゲールケ、プリングスハイム、ポールなどもいた。日本人では自分の外に九州大学の桑木さんもある期間出席されたように思う。
鼻眼鏡でぬうっと澄ましていて、そうして何でも実によく知っているルーベンスの傍に、無邪気で気軽く明るいプランクがいて、よくわれわれでも知っているような実験的の事実を知らないで質問する、若い連中が得意になってそれを説明するのを感心して謹聴していた。純真な性格にもよるであろうが、しかし一方で誰にも負けないだけの長所をもち、そうしてそれを自覚している人でなければこれほど無邪気にはなれまいと思ったことであった。後年アインシュタインに対する反ユダヤ人運動でひどく器量を悪くしたゲールケはやはり一座の中でいちばん世間人らしいところがあった。若くて禿頭の大坊主で、いつも大きな葉巻を銜えて呑気そうに反りかえって黙っていたのはプリングスハイムであった。イグナトフスキーとかいうポーランド人らしい黒髪黒髯の若い学者が、いつか何かのディスクシオンでひどく興奮して今にも相手につかみかかるかと思われてはらはらしたことがあった。ワールブルヒは腎臓でもわるいかと思われるように顔色が悪く肥大していて一向に元気がなかったが、ゴールトシュタインは高年にかかわらず顔色も若々しく明るい上品な感じのする人であった。プランクはこの人に対していつもわざとらしからぬ敬意を表しているように見受けられた。
物理の輪講会にはやはりまた特別の雰囲気があるのを面白いと思った。自分の出席した四つのコロキウムのそれぞれの雰囲気は学科の性質から来る特徴もあるにはあるであろうが結局はその集会を統率する中心人物の人柄そのものによって濃厚に色づけられているのであった。
次の冬学期には上記の先生方の外に、ヘルメルトの「地球の形」やオイゲン・マイヤーの「航空に関する応用力学」などを聴いた。ヘルメルトは赭ら顔で眼をしょぼしょぼさせた何となく田舎爺のような感じのする、しかしどこかなかなか喰えないような気のする先生であったが、しかしやはり一とかどのえらい学者のように思われた。マイヤーの講義はザクセン訛りがひどく「小さい」をグライン「戦争」をグリークという調子で、どうも分りにくくて困った。
ネルンストの「物理化学」もひやかしに一、二度聴いたことがあったが、西洋人にしては脊の低いずんぐりした体格で、それが高い聴講席をふり仰ぎながら活溌に手を振り身体を動かし頸を曲げてゼスチュアの賑やかな講義をして見せた。ポアンカレのいわゆるゲオメーター型の学者と思われた。聴講者はいつも教場に溢れていた。
講義や輪講の外に色々の見学があった。ヘルマン教授の許にいた連中とリンデンベルクの高層気象台へ行ったときはベルゾン博士が案内の労をとった。この人はジューリングと一緒に気球で成層圏の根元に近づき一時失神しながらも無事に着陸したという経験をもっていて、搭乗気球としての最高のレコードの保持者であった。鉄道幹線から分れた田舎廻りの支線、いわゆるクラインバーンの汽車の呑気なのに驚いたのはこの時である。東京の市電よりのろいくらいの速度で蛇のようにうねった線路を汽笛の代りにチャン/\/\と絶えずベルを鳴らして進むのである。ポンチ絵のクラインバーンにはきっと豚や家鶏が鉄路の上に遊んでいるように描いてある、その通りである。ゲハイムラート以下皆往復共に四等客車に収まって行った。客車の中は白塗りのがらんどうで、ただ片側の壁に幅の狭い棚のような腰掛があるだけである。乗合わせた農夫農婦などは銘々の大きな荷物に腰かけているからいいが、手ぶらの教授方以下いずれも立ったままでゆられながら、しきりに大気の物理を論じ合っていた。
地理学教室ではペンクや助手のベーアマンが引率して近郊の地質地理見学に出掛けた。ペンクの足の早いのとベーアマンの口の早いのとに悩まされたが、ずいぶん色々とためにはなった。
学生の有志の見学団で毎週のようにいろいろの見学参加募集をする。その広告が大学の玄関に貼り出される。当時は世界第一であったナウエンの無線電信発信所を見物したのもこの見学団の一員としてであった。テレフンケン・システムの大きな蛇のようなスパークがキュンキュンと音を立ててひらめいては消えるのを見た。同じ団体にはいってヘッベルの劇場の楽屋見学をしたときは、奈落へ入り込んでモーターで廻わす廻り舞台を下から仰いだり、風の音を出す器械を操縦させてもらったりした。音を出すのは器械だが、音を風音らしくするのはやはり人間の芸術らしいと思われた。
三学期一年半のベルリン大学通いは長いようでもありまた短いようでもあった。たいそう利口になったようでもありまた馬鹿になったようにも思われた。引上げてゲッチンゲンへ移るときはさすがに名残惜しい気がするのであった。
マルシャル橋や王宮橋から毎日のように眺め見下ろしたスプレーの濁り水に浮ぶ波紋を後年映画「ベルリン」の一場面で見せられたときには、往年の記憶が実になまなましく甦って来るのを感じたのであった。
(昭和十年五月『輻射』)
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