十二
四五年会わなかった知人に偶然銀座でめぐり会った。それからすぐ帰宅して見るとその同じ人からはがきが来ていた。町名番地が変わったからという活版刷りの通知状であったが、とにかく年賀状以外にこの人の書信に接したことはやはり四五年来一度もなかったはずである。
そのはがきを出したのは銀座で会う以前であったということは到着の時刻からも消印からも確実に証明された。
この偶然な二つの出来事の合致が起こるという確率は正確には計算しにくいが、とにかく千分の一とか二千分の一とかいう小数である。しかしそういうめったに起こりそうもないことが実際に起こることがあるというのが、確率論のまさしく教えるところである。してみるとこれは不思議でもなんでもないとも言われる。しかしまた、それだから不思議だとも言われる。要は不思議という言葉の定義次第である。
十三
「陸の竜宮」と呼ばれる日本劇場が経営困難で閉鎖されるということが新聞で報ぜられた。翌日この劇場前を通ったら、なるほど、すべての入り口が閉鎖され平生のにぎやかな粧飾が全部取り払われて、そうして中央の入り口の前に「場内改築並びに整理のために臨時休業」という立て札が立っている。
近傍一帯が急にさびれて見えた。隣の東京朝日新聞社の建物がなんだかさびしそうな顔をして立っているように思われるのであった。
建物にもやっぱり顔があるのである。
十四
マルキシズムの立場から科学を論じ、科学者の任務に対していろいろな注文をつける人がある。その人たちとしては一応もっともな議論ではあろうが、ただの科学者から見るとごくごく狭い自分勝手な視角から見た管見的科学論としか思われない。
科学者の科学研究欲には理屈を超越した本能的なものがあるように自分には思われる。
蜜蜂が蜜を集めている。一つ一つの蜜蜂にはそれぞれの哲学があるのかもしれない。しかしそんなことはどうであっても彼らが蜜を集めているという事実には変わりはないのである。そうして彼らにもわれらにも役に立つものは彼らの哲学ではなくて彼らの集めた蜜なのである。
マルキシズムその他いろいろなイズムの立場から蜜蜂に注文をつけるのは随意であるが、蜜蜂はそんな注文を超越してやっぱり同じように蜜を集めるであろう。そうして忙しい蜜蜂はおそらくそういう注文者を笑ったりそしったりする暇すらないであろうと思われる。
十五
中庭の土に埋め込んだ水甕に金魚を飼っている。Sがたんせいして世話したおかげで無事に三冬を越したのが三尾いた。毎朝廊下を通る人影を見ると三尾喙を並べてこっちを向いて餌をねだった。時おりのら猫がねらいに来るので金網のふたをかぶせてあったのがいつとなくさび朽ちて穴の明いているのをそのままにしてあった。この夏のある朝見たら三尾の一尾が横になって浮いている。よく見ると鰓の下に傷あとがあって出血しているのである。金網の破れから猫が手を入れて引っかけそこなったものと思われた。負傷した金魚はまもなく死んでしまった。ちょうどその日金魚屋が来たので死んだのの代わりに同歳のを一尾買って入れた。夜はまた猫が来るといけないからというので網の代わりに古い風呂桶のふたをかぶせておいた。翌朝あけて見るときのう買ったのと、前からいた生き残りのうちの一尾とが死んでいた。
死因がわからない。しかしたぶんこうではないかと思われた。夏じゅうは昼間に暖まった甕の水が夜間の放熱で表面から冷え、冷えた水は重くなって沈むのでいわゆる対流が起こる。そのおかげで水が表面から底まで静かにかき回され、冷却されると同時に底のほうで発生した悪いガスなどの蓄積も妨げられる。それを、木のふたで密閉したから夜間の冷却が行なわれず、対流が生ぜず、従って有害なものが底のほうに蓄積して窒息死を起こしたのではないかというのである。これが冬期だといったいの水温がずっと低いために悪いガスなどの発生も微少だから害はないであろう。これは想像である。
それにしても同じ有害な環境におかれた三尾のうちで二つは死んで一つは生き残るから妙である。
水雷艇「友鶴」の覆没の悲惨事を思い出した。
あれにもやはり人間の科学知識の欠乏が原因の一つになっていたという話である。
忘れても二度と夏の夜の金魚鉢に木のふたをしないことである。
十六
野中兼山が「椋鳥には千羽に一羽の毒がある」と教えたことを数年前にかいた随筆中に引用しておいたら、近ごろその出典について日本橋区のある女学校の先生から問い合わせの手紙が来た。しかしこの話は子供のころから父にたびたび聞かされただけで典拠については何も知らない。ただこういう話が土佐の民間に伝わっていたことだけはたしかである。
野中兼山は椋鳥が害虫駆除に有効な益鳥であることを知っていて、これを保護しようと思ったが、そういう消極的な理由では民衆に対するきき目が薄いということもよく知っていた。それでこういう方便のうそをついたものであろう。
「椋鳥は毒だ」と言っても人は承知しない。なぜと言えば、今までに椋鳥を食っても平気だったという証人がそこらにいくらもいるからである。しかし千羽に一羽、すなわち〇・一プロセントだけ中毒の蓋然率があると言えば、食って平気だったという証人が何人あっても、正確な統計をとらない限り反証はできない。それで兼山のような一国の信望の厚い人がそう言えば、普通のまじめな良民で命の惜しい人はまずまず椋鳥を食うことはなるべく控えるようになる。そこが兼山のねらいどころであったろう。
これが「百羽に一羽」というのではまずい。もし一プロセントの中毒率があるとすればその実例が一つや二つぐらいそこいらにありそうな気がするであろう。また「万羽に一羽」でもうまくない。万人に一人では恐ろしさがだいぶ希薄になる。万に一つが恐ろしくては東京の町など歩かれない。やはり「千羽に一羽」は動かしにくいのである。
こういうおどかしはしかし兼山に対する民衆の信用が厚くなければなんの効能もなくなることである。
兼山の信用があまりに厚かったためにいろいろの類似の言い伝えが、なんでもかでも兼山と結びつけられているのではないかという疑いもある。実際土佐では弘法大師と兼山との二人がそれぞれあらゆる奇蹟と機知との専売人になっているのである。
十七
野中兼山の土木工学者としての逸話を二つだけ記憶している。その一つは、わずかな高低凹凸の複雑に分布した地面の水準測量をするのに、わざと夜間を選び、助手に点火した線香を持って所定の方向に歩かせ、その火光をねらって高低を定めたと言い伝えられていることである。しかしねらうのには水準器のついた望遠鏡か、これに相当する器械が必要であろうがそれについては聞いたことがない。
もう一つは浦戸港の入り口に近いある岩礁を決して破壊してはいけない、これを取ると港口が埋没すると教えたことである。しかるに明治年間ある知事の時代に、たぶん机の上の学問しか知らないいわゆる技師の建言によってであろう、この礁が汽船の出入りの邪魔になると言ってダイナマイトで破砕されてしまった。するとたちまちどこからとなく砂が港口に押し寄せて来て始末がつかなくなった。
故工学博士広井勇氏が大学紀要に出した論文の中にこのときの知事のことを“a governor less wise than Kenzan”としてあったように記憶する。実に巧妙な措辞であると思う。この知事のような為政者は今でも捜せばいくらでも見つかりそうな気がするのである。
少なくも、むやみに扁桃腺を抜きたがる医者は今でもいくらもいるであろう。
十八
近年の統計によると警視庁管内における自殺者の数が著しく増加し、大正十一年と昭和八年とでは管内人口の増加が約六割であるのに対して自殺既遂者の数は二十割、未遂者の数は四十割に増加しているとの事である。ある新聞の社説にこの事実をあげてその原因について考察し為政当局者の反省を促している。誠に注目すべき文字である。
しかし多くの人の見るところによれば、自殺の増加の幾割かはたしかに新聞の暗示的、ないし挑発的記事の影響に因るものであろうと思われるが、右の新聞の社説にはこのことについては一言も触れてない。触れないのは当然であろうがちょっとおかしい。
「自殺の報道記事は十行を越ゆべからず」という取締規則でも設けたら、それだけでも自殺者の数が二割や三割は減るのではないかという気がする。試験的に二三年だけでもそういう規則を遂行して後に再び統計を取ってほしいものである。
十九
入水者はきっと草履や下駄をきれいに脱ぎそろえてから投身する。噴火口に飛び込むのでもリュックサックをおろしたり靴を脱いだり上着をとったりしてかかるのが多いようである。どうせ死ぬために投身するならどちらでも同じではないかという気もするが、何かしら、そうしなければならない深刻な理由があると見える。
この世の覊絆と濁穢を脱ぎ捨てるという心持ちもいくぶんあるかと思われる。また一方では捨てようとして捨て切れない現世への未練の糸の端をこれらの遺物につなぎ留めるような心持ちもあるかもしれない。
なるべく新聞に出るような死に方を選ぶ人の心持ちは、やはりこのはき物や上着を脱ぎそろえる心持ちの延長ではないかとも思われるのである。
結局はやはり「生きたい」のである。生きるための最後の手段が死だという錯覚に襲われるものと見える。自殺流行の一つの原因としては、やはり宗教の没落も数えられるかもしれない。
(昭和九年九月、中央公論)
●表記について
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