一
「おおかた古を考うる事、さらに一人二人の力もてことごとく明らめ尽くすべくもあらず。またよき人の説ならんからに多くの中には誤りもなどかなからん。必ずわろき事もまじらではえあらず。そのおのが心には、今は古の心ことごとく明らかなり、これをおきてはあるべくもあらずと思い定めたることも、思いのほかにまた人の異なるよき考えもいで来るわざなり。あまたの手を経るまにまに、さきざきの考えの上をなおよく考えきわむるからに、次々にくわしくなりもて行くわざなれば、師の説なりとて必ずなずみ守るべきにもあらず。よきあしきをいわず、ひたぶるに古きを守るは、学問の道には、いうかいなきわざなり。」(本居宣長『玉かつま』)
この初めの「古を考うる事」というのを「物理学上のいかなる問題にても」と改めて、もう一ぺんはじめから読み返してみるとおもしろい。この宣長の言葉をかみしめる事をすべての科学の研究者にすすめたい。これを味わってみれば、自分一人である問題を解決しようとして一生何も貢献せずに終わり、あるいは恥をかく事もなく、めいめいの分に応じた仕事を楽しむ事ができそうである。
二
「今日本にあらゆる種類の全く無用な団体を作ろうとする熱、一種の狂熱がある……文学芸術の研究は決してかかる協会に伴なうものではない。文学芸術の研究は個人の努力と、それから独創的思索にたよるものだ。有名な書物を書き有名な絵をかいた偉大な日本人は、自分らを助ける協会などを要しなかった。彼らは孤独で労作したのだ。……日本の会合は時間の有害な浪費であると自分は思うと言った。……研究をさらに進めるため洋行する日本の青年学者を思ってみよ。……ところで日本へ帰って来ると、仕事をせよと奨励されずに、会合に出て宴会に出席して、雑誌を発刊して、演説をして、無報酬の講義をして、原稿を訂正して、仕事を妨げることに想像される有りとあらゆることをして、その時間を浪費せよと頼まれる。……そしてできるだけ早く疲労してしまうのが落ちだ。……」(小泉八雲の手紙。野口米次郎、『小泉八雲伝』より)
科学の研究には設備と費用がかかるから、どうも孤独ではできない。しかしこのヘルンのつむじ曲がりの言葉の中には味わうべき何かはある。彼の言葉を少しばかり参考すると日本の科学はもう少し進みはしないか。
三
「私は言わば偶然にセリストになった。事によっては、ヴァイオリニストにもまたトロンボニストにもなったかもしれない。音楽が第一に来るもので特別な楽器ではない。しかし自分のメディアムとしてある特別な楽器を選んだ以上はできるだけ完全にそれを使用しなければならない。……私はあらゆるものから学んだ、ヴァイオリニストからも、唱歌者からも、器楽者からも。私の聞いたすべての音楽は私のセロに発想の上に新しい道を開いた。私は名手から学ぶと同様に下手からも学んだ。それはどうしてはいけないかを学んだのである。私は私の生徒からも多くを学んだ。」(パブロ・カザルスの言葉。マルテンスの『ストリングマスタリー』より拙訳)
スペシアリストのほんとうの意義、その心得を説き尽くしたものと思う。スペシアリズムは結局コンヴェンションであって理想ではない。われわれはよくそれを忘れる。そして自分の専門外の事に興味を失いやすい。セリストもピアニストも目ざすところは音楽であるように、われわれ物理学者も専門のいかんによらず目ざすところは物理であろう。
四
「京師に応挙という画人あり。生まれは丹波の笹山の者なり。京にいでて一風の画を描出す。唐画にもあらず。和風にもあらず。自己の工夫にて。新裳を出しければ。京じゅう妙手として。皆まねをして。はなはだ流行せり。今に至りてはそれも見あきてすたりぬ。また江戸は奥州のかたへ属して。気質も京人のようにはなし。唐画にも。和画にも似ぬ風はのみ込まぬ事にて。わが自身工夫したりと言いては。それは法がないと言いて。請け取らず。しかれども。画はその物の形を見て。その形に似るをよしとす。法手本とするところは。すなわちその物なりと心得たる者も無きにもあらず。……」(司馬江漢、『春波楼筆記』)
科学界にも京人と奥州人がある。ロマンチシズムとクラシシズムの両極の間に世界が回転する。
五
「物理学はエキザクトサイエンスである。」この言葉ほどひどく誤解されてそしてそのおかげでエキザクトな物理学の進歩を阻害している言葉はない。
「量的に」この言葉も同様である。
六
「中等教科書に現われた物理ほど非物理的な物理はない」こんなパラドクシカルな事もある意味では言えない事はない。なんとならば、ほんとうはよくわからない事がちゃんとわかっているかのように読まれうるから。同じような理由からこんな事も言われる。「良い書物ほど悪い書物である。」
七
A is B, A is not B. この二つの命題は両立しうる。なんとなればそれぞれの終わりに if C is D, if C is E. という文句が抜けているのが普通である。われわれはこの事を忘れて果てのない議論に時間を空費している。
八
「唐土にても墨張とて学問にあまり精を入れしゆえにつりし蚊帳が油煙にてまっ黒になりしという故事に引きくらべて文盲儒者の不性に身持ちをして人に誇るものあり。いかに学問するとても顔や手を洗うひまのなき事やはある。」(柳里恭「ひとりね」)
少し耳がいたい。
(昭和二年十二月、理学部会誌)
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