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比較言語学における統計的研究法の可能性について(ひかくげんごがくにおけるとうけいてきけんきゅうほうのかのうせいについて)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-4 6:04:57  点击:  切换到繁體中文

言語の不思議は早くから自分の頭の中にかなり根深い疑問の種を植え付けていたもののようである。六七歳のころ、始めて従兄いとこから英語の手ほどきを教えられた時に、最初に出会ったセンテンスは、たしか「さるが手を持つ」というのであった。その時、まず冠詞というものの「存在理由」がはなはだしく不可解なものに思われた。The(当時かなで書くとおりにジーと発音していた)が、至るところ文章の始めごとに繰り返されて出現する事が奇妙に強い印象を与えた事を記憶する。自分の手のことを「持つ」というのもおかしかったが、これが「手を」の前に来る事がはなはだしく不思議であった。
 今になって考えてみると、このジー、ジーという音の繰り返しは、当時の幼い頭の中に、まだ夢にも知らなかった、遠い遠い所にある、一つの別な珍しい世界からのかすかなおとずれのように響いたのかもしれない。それはとにかく、当時に感じた漠然ばくぜんたる不思議の感じは、年を経て外国語に対する知識の増すとともに、次第に増しはしても、決して減りはしなかった。ただそれが次第に具体的な疑問の形をとって意識されて来たのである。しかし四十余年前に漠然と感ぜられた疑問は今日に至っても依然たる不可解の疑問である。そして少しばかり言語に関する学者の所説などを読んでみても、なかなか簡単にこの疑問の答解は得られそうもないように思われた。
 英語やドイツ語とだんだんに教わるうちに、しばしば日本語とよく似た音をもった同義の語に出会う事がある。これは偶然であろうとは思っても、そのことごとくが偶然の暗合であるという事を証明する事もかなりにむつかしそうに思われた。
 自分のまだ学生時代に、ある学者が、日本の神話の舞台をギリシア近辺へ持って行こうとする大胆な説を公にして問題になった事がある。自分は直接にその所説の全部を読んだわけではなかったが、その説の一部をどこかで瞥見べっけんして、いろいろその所説に対する疑いを起こした事もあった。しかし単に説の奇矯ききょうであり、常識的に考えてありそうもないというだけの理由から、この説を初めから問題ともしないでいたずらに嘲笑ちょうしょうの的にしようとする人のみ多い事にも疑いをいだかないわけには行かなかった。少なくも東欧の一部と極東日本との間に万一存在したかもしれないなんらかの古い関係の可能性という事までも、なんの考察もなしに否定せんとする人のあまりに多いのに驚いた。もちろん当時これに関する言語学者間の意見がいかなるものであったか自分は知らない。ここで自分のいうのは、言語学者でない一般有識階級と称するものについてである。とにかくギリシア古代と日本古代との間になんらの交渉もなかったという事を科学的に証明する事をはたしてだれがあえてしうるであろうと疑ったこともある。
 十年ほど前に少しばかりロシア語の初歩を学んだ事もあった。それがために「言語の不思議」に対する自分の好奇心と疑問とは、むしろ急に大きな高い階段を一つ駆け上がったような気がした。そして、一方で新しい不思議が多量に加わると同時に、他方ではこの新しい不思議が、かえって古い不思議のなぞを解くかぎとなりうる可能性を暗示するようにも見えた。それは単に語彙ごい中のあるもののみならず、その文法や措辞法に、東西を結びつける連鎖のようなものを認める、と思ったからである。
 最近に至って「言語」に対する自分の好奇心を急激な加速度で増長せしめるに至った経路はあるいは一部の読者に興味があるかもしれないし、また自分が本分を忘れて、他人の門戸をうかがうような不倫をあえてするに至った事の申し訳にもいくぶんはなるかもしれないから一つの懺悔話ざんげばなしとしてここにしるしてみよう。
 地球物理学上の近年の問題となっている陸塊の水平移動に関する学説、俗に大陸漂移論と称するものから見た日本陸地の成立、変化、ならびにこれに連関して問題となるべき陸地の昇降、地震、火山現象等を追究するに当たって、しばしば古い過去における水陸分布の状態と現在のそれとの異同が問題となり、その一つの参考資料としていろいろな土地の地名の意義が引き合いに出る場合がある。そこで本邦地名の問題に触れるとなれば、自然の勢いで、アイヌ語や朝鮮語による地名起原説を参照しなければならぬ事になる。そうなると問題は自然自然に推移して結局は日本語の成立問題にまでも多少は触れないわけには行かなくなるのである。
 そうかと言って、自分でこのような大問題をどうにかしようという非望を企てるわけにも行かないわけであるが、それでもただやみがたい好奇心から、余暇あるごとに少しずつ、だんだんに手近い隣接国民の語彙ごい瞥見べっけんする事になり、それが次第次第に西漸していわゆる近東から東欧方面までも、きわめて皮相的ながらのぞいて見るような行きがかりになって来たのである。
 こういう素人遊戯しろうとゆうぎ――自分では真剣なつもりであっても、専門の学者の立場から見れば結局こういうよりほかはないであろう――にふけっている一方で、かねてから、これも道楽として、心がけている日本楽器の沿革に関する考証は自然に世界各地の楽器の比較に移って行く、その途中で、遠くかけ離れた異種民族の楽器が、その楽器としての本質においてのみならず、またその名称においても、一脈の連鎖によって互いにつながっているらしく見える現象に逢着ほうちゃくして、奇異の感に打たれる事もしばしばあった。もちろん楽器の原理は物理学的に普遍なものであるから、各国に同一な楽器のあるのは当然であり、また楽器の名称が往々擬音から生ずるとすれば、類似の名称のあるのは当然であると言って、簡単に片付けて投げ出してしまえばそれまでである。しかしそれで打ち切ってしまうのは少し危険であると思わせる理由がいろいろ他の方面から供給されるようである。
 少し唐突ではあるが地球上における蚯蚓みみずの分布を調べた学者の研究の結果によると、ある種の蚯蚓は、東は日本から海を越えて大陸に、欧亜大陸を横断して西はスペインの果てまで広がり、さらに驚くべき事には大西洋を渡って北米合衆国の東部にまでも分布されているのである。大陸移動説を唱えたウェーゲナーは、この事実をもってヨーロッパと北米大陸とが往昔連結していたという自説の証拠の一つとしてこれを引用しているくらいである。それはとにかく、あの運動遅鈍なみみずでさえ、同じ種族と考えられるものが、「現時の大洋」を越えてまでも広がっているという事実を一方に置いて考えてみる。もちろんこの蚯蚓の先祖と人間の先祖とどちらが古いかというような問題はあってもそれは別として、この事実はともかくも、過去の世界じゅうの人間の間の相互の交渉は、普通想像されているよりも、想像されうるであろうよりも、もう少し自由なものではなかったかという疑いを喚起させるには充分であろうと思う。
 世界じゅうの人間の元祖が一つであろうという事は単に確率論的の考察からもいちばん考えやすい事であるが、今ここで軽々しくそういう大問題に触れようとは思わない。ただ少なくも動物学上から見て同種な Homo Sapiens としての人間の世界の一部において任意の時代に発生した文化の産物のすべてのものが、時とともに拡散して行くのは、ちょうど水の中にたらした一滴のアルコホルの拡散して行く過程と、どこか類似したものであろう、という想像は、理論上それほど無稽むけいなものではあるまいと思われる。
 昔の詩人ルクレチウスは、物質の原子はちょうどアルファベットのようなもので、種々な言語が有限なアルファベットの組み合わせによって生ずるごとく、各種の物質がこれら原子の各種の組み合わせによって生ずると書き残したが、この考えは近世になって化学式というものによっていくらか科学的に実現された。今この考えを逆に持って行くとこんな考えも起こし得られる。すなわち、まず、言語、国語という一つの体系は若干の語根元素から組成されていると仮定する。次には、この元素が化合して種々の言語や文章が組成されているが、これらの間にはその化合分解の平衡に関するきわめて複雑な方則のようなものがあると想像する。なおこれらの元素は必ずしも不変なものではなくて、たとえば放射性ラディオアクティヴ物質のごとく、時とともに自然スポンテニアス崩壊ディスインテグレート変遷トランスミュートする可能性を持つものと想像する。それでかりに地球歴史のある一定の時期において、ある特別の地点において、特殊の国語が急に発生したと仮定すると、それはちょうど水中にアルコホルの一滴を投じたと同様に四方に向かって拡散ディフュージョンを始めるであろうと仮想される。すなわちその国語の語根のある一つだけを取って考えると、それはアルコホルの一分子のように、不規則にあちらこちらと人から人を伝わって、迂曲うきょくした径路を取りながらも、ともかくも、統計的には、その出発点から次第に遠く離れて行くであろう。もっとも、この際問題を複雑にするのは、物質分子の場合と異なり、言語の一分子は独立の存在として彷徨ほうこうするのでなく、その周囲に絶えず影響を与え、自分と同一なものを発生させて行く点にある。しかし一つの分子の通過したくらいでは、おそらくその径路への影響は短時間に消滅してしまうであろうと考え、ただ同種の分子が種々の径路を通ってある地域に到着し、ある時点におけるその密度が相当の大きさに達した場合にのみ、その地点の国語に固定的の影響を与えるであろうという、少し無理であるが、またややもっともらしい仮定を許容すれば、問題はある度までは、やはり物質分子の拡散に類したものとなるのである。
 かくのごとき仮定のもとに、ある分子が時間tにおいて、距離rと、それより dr だけ大きい距離との間の地帯に達するプロバビリティは

W(r, t)dr = 1/4πDt[#「1/4πDt」は分数]e-r2/4Dt[#「2」は上付き小文字、「r2/4Dt」は分数、「-r2/4Dt」は「e」の上付き]dr
であり、中心から同時に出発した分子総数がNであれば、この時点にこの地帯に来るものの数は NW(r, t)dr である。しかしこれらの分子が放射物質のように自然崩壊をするものとすれば、この数はtについて指数函数的しすうかんすうてきに減じるので
Ne-λt[#「-λt」は「e」の上付き]W(r)dr
であるとすべきであろう。さすれば距離rにおける密度は、これを 2πrdr で除したもので、これをσとすれば
σ(r, t) = N/8π2Drt[#「2」は上付き小文字、「N/8π2Drt」は分数]e-(r2/4Dt[#「2」は上付き小文字、「r2/4Dt」は分数]+λt)[#「-(r2/4Dt+λt)」は「e」の上付き]

で与えられる。
 もし中心から不断に供給が続けられていれば、これを時間tに対して積分する事になるであろう。また中心が空間的に分布されて存在すれば、さらに空間的の積分が必要になる事はもちろんである。
 このような考えを実際の場合に応用して具体的の数量的計算をする事は、今のところ、不可能であり、またしいてこれを遂行しても、その価値は疑わしいものである。しかし、ただ、以上の考察の中に含まれた根本の考えがいくぶんでも実際の問題に触れたところがあるとすれば、右にあげた数式によって代表された理想的過程の内容とその結果とは、またいくぶんか実際の言語の拡散過程、ならびに時間的空間的分布の片影を彷彿ほうふつさせるくらいのものはあるであろうと思われる。
 もしもこの考えがいくらか穏当である事を許容するとすれば、そこからいろいろな、消極的ではあるが、だいじな事がらが想定される。すなわちまず世界じゅうで互いに遠く隔たった二つの地点に互いに類似した言語が存在し、その中間にはその連鎖らしいものが見つからない場合があっても、それだけでは、それが必ず偶然の暗合であるとは断定されなくなる。またある甲地方の古い昔の言語が今でも存し、あるいは今はその地に消滅していて、その隣国民乙の間に現存しているという場合においても、それだけでその語が甲から乙に移入されたものだと推定する事はできなくなる。なんとならばそれはかつて甲から乙に移った事があったとしても、それが甲と前後して乙でも死滅し、ずっとあとで丙から乙に移ったかもしれないからである。そのほか分子論的拡散論において言われるようないろいろの事は言われるが、これを要するに、一つ一つの言語の分子を比べるだけでは、それだけでは歴史的の前後は決定し難いという消極的な結果になるのである。これはちょうど水中のアルコホル分子を一つ一つ捕える事ができたにしてもわれわれは到底その一つ一つの径路を判定し難いと同様である。
 しかし前の考察から一条の活路が示唆される。それは、約言すれば、同系言語の「統計的密度」の「勾配こうばい」(gradient)によって、その系の言語の拡散方向を推定するという方法である。
 前の算式によって示さるるごとき理想的の場合においては、一般に同種分子の密度の勾配は、ともかくも中心に対して放射的である。これはもちろん計算を待たずとも明白な事である。それでもしかりにアジア大陸のある地点からある種の分子が四方に拡散したとすれば、その系統あるいは同色の言語要素の密度は多少同心円形分布の形跡を生じてもよいわけである。たとえこの要素の等密度線がどのように変形しようとも、少なくも、その密度の傾度最大方向のトラジェクトリーを追跡して行けば、ついにはその源に到着、あるいは少なくも近づく事ができそうである。
 ただ第一に問題となるのは、いかなる標準によってそのいわゆる同系要素なるものを識別しうるかという事である。これはもちろん難問題である。しかし幸いにして従来の言語学者の努力の結果は、この方法を漸進近似法(Method of successive approximation)によって進めんとする際にまず試みとして置かるべき第一近似の資料を豊富に供給してくれるのである。
 この識別法を仮定すれば、次は密度の統計的計算が問題になる。前記の理想的の場合の「密度」が直接いかなる数に相応するかはこれもむつかしい問題であるが、少なくもその一つの計量メジュアーとして、それそれの地方の国語中における、問題の語系要素の百分率を取ってみる事も一つの穏当な試験的方法であろうと考えられる。そしてこれは必ずしも不可能な事とは考えられない。
 もちろん語根は言語のすべてではない、語辞構成や措辞法もまた言語の要素として重要である。これらをいかにして「分子」に分析するかはかなりむつかしい問題ではあるが、少なくも原理の上からはそれも不可能な事とは思われないのである。
 以上のような漠然ばくぜんたる想像――もちろんこれは今のところただ一つの想像に過ぎない――に刺激されて、まず手近なマライ語の語彙ごいに目を通す事を試みた。そうしてこの国語と邦語との類似のはなはだしいのに驚かされた。自然現象や動植物の名称などはそれほどでもないが、形容詞と動詞において特に著しい類似のあるらしい事を感じた。おもしろい事には、今日わが国一般に行なわれているきわめて卑俗な言語や、日本各地の方言と肖似する現行マライ語も少なくない。また試みに古事記をひもといて古い日本語を当たってみると、たとえばその中の歌詞――最も古い語の保存されているらしい――に現われたむつかしい語彙などが、かなりにもっともらしく、都合よくマライ語で説明され、また古代神名や人名などにも、少なくも見かけの上でもっともらしく付会されるものが存外多いのに驚かされた。滑稽こっけいな例をあげれば稗田阿礼ひえだのあれの名が「博覧強記の人」の意味にこじつけられたりした。また他の方面で最も自分の周囲の人々を愉快がらせたのは、かの大江山おおえやまの「酒顛童子しゅてんどうじ」が「恐ろしき悪魔」と訳されたりするのであった。これほど関係の深いようにわれわれ素人しろうとにさえ思われるものが、何ゆえに今日まで言語学者によって高唱されなかったかが不思議であるように思われた。現にある学者の書には、明らかにマライと邦語の関係はたいしたものでないと書いてある。一方朝鮮語やウラルアルタイ、チャムモンクメール、オセアニック等の語系との関係についての論文は往々われわれの目にも入ったが、正面からマライとの関係を論じて、そうしてそれが一般学界ひいては世人の注意をひくほどに至ったもののあった事は寡聞にしてまだ知らなかったのである。
 朝鮮語との語彙ごいの近似は、何人もいだくべき予期に反して案外に少ないもののようである。ウラルアルタイックとも、少なくも語彙の点ではそれほどでない事も論ぜられているようである。しかしマライはこの点についてはおそらく前二者に劣る事はなさそうに思われたのである。
 その後に Van Hinloopen Labberton が一九二五年のアジア協会学報に載せた論文を読んで、自分の素人流しろうとりゅうの対比がそれほど乱暴なものでなかった事を知ると同時に、外国の学者の間ではこれがかなり前から問題になっている事を知るに至った。また、Whymant という人の「日本語及び日本人の南洋起原説」というのにも出くわした。そしてその中で日本人というものがはなはだしく低能な幼稚なものとして取り扱われているのに不快を感じると同時にその説がそれほどの名論とも思われないのを奇妙に思ったりした。
 マライを手始めに、アイヌや、蒙古もうこ、シナ、台湾たいわんなどと当たってみると、もちろんかなり関係のありそうな形跡は見えるが常識的に予期されるほどに密接とも思われないのをかえって不思議に思った。それから、ビルマや、タミール、シンガリースなどから、漸次西に向かって、ペルシア、アラビア、トルコ、エジプトへんをあさってみると、やはりいくらかの関係らしいものが認められると思った。ハンガリーやセルボクロアチアンからフィンランドまで行ってみても同様である。
 しかしだんだんにこの調子であさって行くと、おしまいにはギリシア、ラテンはもちろん現在行なわれている西欧諸国の語にもやはり同程度の類似が認められる。またかけ離れたアフリカへんやアイスランドまでも網の目を広げられる事になってしまうのである。
 具体的の例はこの序論においては省略するつもりであるが、ただ自分の意味を明らかにするために、試みに若干の例をあげると、たとえば、最も縁の遠そうな英語ですらも、しいてこじつけようと思えばかなりにこじつけられない事はない。すなわち
[#ここから表組]
beat butu
laugh walahu
flat filattai
hollow hola
new nii
fat futo
easy yasasi
clean kilei
ill walui
rough araki
hard katai
angry ikari
anchor ikari
tray tarai
soot susu
mattress musiro
etc. etc.
[#ここで表組終わり]
 この程度のもの、またもっと駄洒落だじゃれらしいものなら、まだいくらでもありそうである。これらでも、歴史も何も考えずに、子音転訛てんかや同化や、字位転換や、最終子音消失やでなんとかかとか理屈をつければつくであろうし、また中には実際に因果の連鎖のあるものもあるであろう。
 もっと思い切って、たとえばアフリカへ飛んで Chikaranga の語彙ごいを当たると、ちょっと当たっただけで
[#ここから表組]
象 zhou
魚 hove[#「v」は下線(_)付き、181-表組2行目]
鳥 shiri
咽喉 huro

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