人間文化の進歩の道程において発明され創作されたいろいろの作品の中でも「化け物」などは最もすぐれた傑作と言わなければなるまい。化け物もやはり人間と自然の接触から生まれた正嫡子であって、その出入する世界は一面には宗教の世界であり、また一面には科学の世界である。同時にまた芸術の世界ででもある。
いかなる宗教でもその教典の中に「化け物」の活躍しないものはあるまい。化け物なしにはおそらく宗教なるものは成立しないであろう。もっとも時代の推移に応じて化け物の表象は変化するであろうが、その心的内容においては永久に同一であるべきだと思われる。
昔の人は多くの自然界の不可解な現象を化け物の所業として説明した。やはり一種の作業仮説である。雷電の現象は虎の皮の褌を着けた鬼の悪ふざけとして説明されたが、今日では空中電気と称する怪物の活動だと言われている。空中電気というとわかったような顔をする人は多いがしかし雨滴の生成分裂によっていかに電気の分離蓄積が起こり、いかにして放電が起こるかは専門家にもまだよくはわからない。今年のグラスゴーの科学者の大会でシンプソンとウィルソンと二人の学者が大議論をやったそうであるが、これはまさにこの化け物の正体に関する問題についてであった。結局はただ昔の化け物が名前と姿を変えただけの事である。
自然界の不思議さは原始人類にとっても、二十世紀の科学者にとっても同じくらいに不思議である。その不思議を昔われらの先祖が化け物へ帰納したのを、今の科学者は分子原子電子へ持って行くだけの事である。昔の人でもおそらく当時彼らの身辺の石器土器を「見る」と同じ意味で化け物を見たものはあるまい。それと同じようにいかなる科学者でもまだ天秤や試験管を「見る」ように原子や電子を見た人はないのである。それで、もし昔の化け物が実在でないとすれば今の電子や原子も実在ではなくて結局一種の化け物であると言われる。原子電子の存在を仮定する事によって物理界の現象が遺憾なく説明し得られるからこれらが物理的実在であると主張するならば、雷神の存在を仮定する事によって雷電風雨の現象を説明するのとどこがちがうかという疑問が出るであろう。もっとも、これには明らかな相違の点がある事はここで改まって言うまでもないが、しかしまた共通なところもかなりにある事は争われない。ともかくもこの二つのものの比較はわれわれの科学なるものの本質に関する省察の一つの方面を示唆する。
雷電の怪物が分解して一半は科学のほうへ入り一半は宗教のほうへ走って行った。すべての怪異も同様である。前者は集積し凝縮し電子となりプロトーンとなり、後者は一つにかたまり合って全能の神様になり天地の大道となった。そうして両者ともに人間の創作であり芸術である。流派がちがうだけである。
それゆえに化け物の歴史は人間文化の一面の歴史であり、時と場所との環境の変化がこれに如実に反映している。 鎌倉時代の化け物と江戸時代の化け物を比較し、江戸の化け物とロンドンの化け物を比較してみればこの事はよくわかる。
前年だれか八頭の大蛇とヒドラのお化けとを比較した人があった。近ごろにはインドのヴィシヌとギリシアのポセイドンの関係を論じている学者もある。またガニミード神話の反映をガンダラのある彫刻に求めたある学者の考えでは、鷲がガルダに化けた事になっている。そしておもしろい事にはその彫刻に現わされたガルダの顔かたちが、わが国の天狗大和尚の顔によほど似たところがあり、また一方ではジャヴァのある魔神によく似ている。またわれわれの子供の時からおなじみの「赤鬼」の顔がジャヴァ、インド、東トルキスタンからギリシアへかけて、いろいろの名前と表情とをもって横行している。また大江山の酒顛童子の話とよく似た話がシナにもあるそうであるが、またこの話はユリシースのサイクロップス退治の話とよほど似たところがある。のみならずこのシュテンドウシがアラビアから来たマレイ語で「恐ろしき悪魔」という意味の言葉に似ており、もう一つ脱線すると源頼光の音読がヘラクレースとどこか似通ってたり、もちろん暗合として一笑に付すればそれまでであるが、さればと言って暗合であるという科学的証明もむつかしいような事例はいくらでもある。ともかくも世界じゅうの化け物たちの系図調べをする事によって古代民族間の交渉を探知する一つの手掛かりとなりうる事はむしろ既知の事実である。そうして言論や文字や美術品を手掛かりとするこれと同様な研究よりもいっそう有力でありうる見込みがある。なぜかと言えば各民族の化け物にはその民族の宗教と科学と芸術とが総合されているからである。
しかし不幸にして科学が進歩するとともに科学というものの真価が誤解され、買いかぶられた結果として、化け物に対する世人の興味が不正当に希薄になった、今どき本気になって化け物の研究でも始めようという人はかなり気が引けるであろうと思う時代の形勢である。
全くこのごろは化け物どもがあまりにいなくなり過ぎた感がある。今の子供らがおとぎ話の中の化け物に対する感じはほとんどただ空想的な滑稽味あるいは怪奇味だけであって、われわれの子供時代に感じさせられたように頭の頂上から足の爪先まで突き抜けるような鋭い神秘の感じはなくなったらしく見える。これはいったいどちらが子供らにとって幸福であるか、どちらが子供らの教育上有利であるか、これも存外多くの学校の先生の信ずるごとくに簡単な問題ではないかもしれない。西洋のおとぎ話に「ゾッとする」とはどんな事か知りたいというばか者があってわざわざ化け物屋敷へ探険に出かける話があるが、あの話を聞いてあの豪傑をうらやましいと感ずべきか、あるいはかわいそうと感ずべきか、これも疑問である。ともかくも「ゾッとする事」を知らないような豪傑が、かりに科学者になったとしたら、まずあまりたいした仕事はできそうにも思われない。
しあわせな事にわれわれの少年時代の田舎にはまだまだ化け物がたくさんに生き残っていて、そしてそのおかげでわれわれは充分な「化け物教育」を受ける事ができたのである。郷里の家の長屋に重兵衛さんという老人がいて、毎晩晩酌の肴に近所の子供らを膳の向かいにすわらせて、生のにんにくをぼりぼりかじりながらうまそうに熱い杯をなめては数限りもない化け物の話をして聞かせた。思うにこの老人は一千一夜物語の著者のごとき創作的天才であったらしい。そうして伝説の化け物新作の化け物どもを随意に眼前におどらせた。われわれの臆病なる小さな心臓は老人の意のままに高く低く鼓動した。夜ふけて帰るおのおのの家路には木の陰、川の岸、路地の奥の至るところにさまざまな化け物の幻影が待ち伏せて動いていた。化け物は実際に当時のわれわれの世界にのびのびと生活していたのである。中学時代になってもまだわれわれと化け物との交渉は続いていた。友人で禿のNというのが化け物の創作家として衆にひいでていた。彼は近所のあらゆる曲がり角や芝地や、橋のたもとや、大樹のこずえやに一つずつきわめて格好な妖怪を創造して配置した。たとえば「三角芝の足舐り」とか「T橋のたもとの腕真砂」などという類である。前者は川沿いのある芝地を空風の吹く夜中に通っていると、何者かが来て不意にべろりと足をなめる、すると急に発熱して三日のうちに死ぬかもしれないという。後者は、城山のふもとの橋のたもとに人の腕が真砂のように一面に散布していて、通行人の裾を引き止め足をつかんで歩かせない、これに会うとたいていはその場で死ぬというのである。もちろんもう「中学教育」を受けているそのころのわれわれはだれもそれらの化け物をわれわれの五官に触れうべき物理的実在としては信じなかった。それにかかわらずこの創作家Nの芸術的に描き出した立派な妖怪の「詩」はわれわれのうら若い頭に何かしら神秘な雰囲気のようなものを吹き込んだ、あるいは神秘な存在、不可思議な世界への憧憬に似たものを鼓吹したように思われる。 日常茶飯の世界のかなたに、常識では測り知り難い世界がありはしないかと思う事だけでも、その心は知らず知らず自然の表面の諸相の奥に隠れたある物への省察へ導かれるのである。
このような化け物教育は、少年時代のわれわれの科学知識に対する興味を阻害しなかったのみならず、かえってむしろますますそれを鼓舞したようにも思われる。これは一見奇妙なようではあるが、よく考えてみるとむしろ当然な事でもある。皮肉なようであるがわれわれにほんとうの科学教育を与えたものは、数々の立派な中等教科書よりは、むしろ長屋の重兵衛さんと友人のNであったかもしれない。これは必ずしも無用の変痴奇論ではない。
不幸にして科学の中等教科書は往々にしてそれ自身の本来の目的を裏切って被教育者の中に芽ばえつつある科学者の胚芽を殺す場合がありはしないかと思われる。実は非常に不可思議で、だれにもほんとうにはわからない事をきわめてわかり切った平凡な事のようにあまりに簡単に説明して、それでそれ以上にはなんの疑問もないかのようにすっかり安心させてしまうような傾きがありはしないか。そういう科学教育が普遍となりすべての生徒がそれをそのまま素直に受け入れたとしたら、世界の科学はおそらくそれきり進歩を止めてしまうに相違ない。
通俗科学などと称するものがやはり同様である。「科学ファン」を喜ばすだけであって、ほんとうの科学者を培養するものとしては、どれだけの効果がはたしてその弊害を償いうるか問題である。特にそれが科学者としての体験を持たないほんとうのジャーナリストの手によって行なわれる場合にはなおさらの考えものである。
こういう皮相的科学教育が普及した結果として、あらゆる化け物どもは箱根はもちろん日本の国境から追放された。あらゆる化け物に関する貴重な「事実」をすべて迷信という言葉で抹殺する事がすなわち科学の目的であり手がらででもあるかのような誤解を生ずるようになった。これこそ「科学に対する迷信」でなくて何であろう。科学の目的は実に化け物を捜し出す事なのである。この世界がいかに多くの化け物によって満たされているかを教える事である。
昔の化け物は昔の人にはちゃんとした事実であったのである。一世紀以前の科学者に事実であった事がらが今では事実でなくなった例はいくらもある。たとえば電気や光熱や物質に関するわれわれの考えでも昔と今とはまるで変わったと言ってもよい。しかし昔の学者の信じた事実は昔の学者にはやはり事実であったのである。神鳴りの正体を鬼だと思った先祖を笑う科学者が、百年後の科学者に同じように笑われないとだれが保証しうるであろう。
古人の書き残した多くの化け物の記録は、昔の人に不思議と思われた事実の記録と見る事ができる。今日の意味での科学的事実では到底有り得ない事はもちろんであるが、しかしそれらの記録の中から今日の科学的事実を掘り出しうる見込みのある事はたしかである。
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