郷里の家を貸してあるT氏からはがきが来た。平生あまり文通をしていないこの人から珍しい書信なので、どんな用かと思って読んでみると、
郷里の画家の藤田という人が、筆者の旧宅すなわち現在T氏の住んでいる屋敷の庭の紅葉を写生した油絵が他の一点とともに目下上野で開催中の国展に出品されているはずだから、暇があったら一度見に行ったらどうか。
という親切な知らせであった。さっそく出かけて行って見たら、たいして捜すまでもなくすぐに第二室でその絵に出くわした。これだとわかった時にはちょっと不思議な気がした。それはたとえば何十年も会わなかった少年時代の友だちにでも引き合わされるようなものであった。
「秋庭」という題で相当な大幅である。ほとんど一面に朱と黄の色彩が横溢して見るもまぶしいくらいなので、一見しただけではすぐにこれが自分の昔なじみの庭だということがのみ込めなかった。しかし、少し見ているうちに、まず一番に目についたのは、画面の中央の下方にある一枚の長方形の飛び石であった。
この石は、もとどこかの石橋に使ってあったものを父が掘り出して来て、そうして、この位置にすえたものである。それは自分が物ごころついてから後のことであった。この石の中ほどにたしか少しくぼんだところがあって、それによく雨水や打ち水がたまって空の光を照り返していたような記憶がある。しかし、ことによるとそれは、この石の隣にある片麻岩の飛び石だったかもしれない。それほどにもう自分の記憶がうすれているのはわびしいことである。
この絵でも、この長方形の飛び石の上に盆栽が一つと水盤が一つと並べておいてあるのがすっかり昔のままであるような気がするが、しかしこの盆栽も水盤も昔のものがそのまま残っているはずはない。それだのに不思議な錯覚でそれが二十年も昔と寸分ちがわないような気がするのである。
この飛び石のすぐわきに、もとは細長い楠の木が一本あった。それはどこかの山から取って来た熊笹だか藪柑子だかといっしょに偶然くっついて運ばれて来た小さな芽ばえがだんだんに自然に生長したものである。はじめはほんの一二寸であったものが、一二尺になり、四五尺になり、後にはとうとう座敷のひさしよりも高くなってしまった。庭の平坦な部分のまん中にそれが旗ざおのように立っているのがどうも少し唐突なように思われたが、しかし植物をまるで動物と同じように思って愛護した父は、それを切ることはもちろん移植しようともしなかったのであった。しかし父の死後に家族全部が東京へ引き移り、旧宅を人に貸すようになってからいつのまにかこの楠は切られてしまった。それでこの「秋庭」の画面にはそれが見えないのは当然である。しかしそれが妙に物足りなくもさびしくも思われるのであった。
次に目についたのは画面の右のはずれにある石燈籠である。夏の夕方には、きまって打ち水のあまりがこの石燈籠の笠に注ぎかけられた。石にさびをつけるためだという話であった。それからまた低気圧が来て風が激しくなりそうだと夜中でもかまわず父は合羽を着て下男と二人で、この石燈籠のわきにあった数本の大きな梧桐を細引きで縛り合わせた。それは木が揺れてこの石燈籠を倒すのを恐れたからである。この梧桐は画面の外にあるか、それとももうとうの昔になくなっているかもしれない。
画面の左上のほうに枝の曲がりくねった闊葉樹がある。この枝ぶりを見ていると古い記憶がはっきりとよみがえって来て、それが槲の木だとわかる。ちょうど今ごろ五月の節句のかしわ餅をつくるのにこの葉を採って来てそうしてきれいに洗い上げたのを笊にいっぱい入れ、それを一枚一枚取っては餅を包んだことをかなりリアルに思い出すことができる。餡入りの餅のほかにいろいろの形をした素焼きの型に詰め込んだ米の粉のペーストをやはり槲の葉にのせて、それをふかしたのの上にくちなしを溶かした黄絵の具で染めたものである。
正面の築山の頂上には自分の幼少のころは丹波栗の大木があったが、自分の生長するにつれて反比例にこの木は老衰し枯死して行った。この絵で見ると築山の植え込みではつつじだけ昔のがそのまま残っているらしい。しかし絵の主題になっている紅葉は自分にとってはむしろ非常に珍しいものである。
たぶん自分の中学時代、それもよほど後のほうかと思うころに、父が東京の友人に頼んで「大杯」という種類の楓の苗木をたくさんに取り寄せ、それを邸内のあちこちに植えつけた。自分が高等学校入学とともに郷里を離れ、そうして夏休みに帰省して見るたびに、目立ってそれが大きくなっているのであった。しかし肝心のもみじ時にはいつでも国にいないので、ついぞ一度もその霜に飽きた盛りの色を見る機会はなかったのである。大学の二年から三年にあがった夏休みの帰省中に病を得て一年間休学したが、その期間にもずっと須崎の浜へ転地していたために紅葉の盛りは見そこなった。冬初めに偶然ちょっと帰宅したときに、もうほとんど散ってしまったあとに、わずかに散り残って暗紅色に縮み上がった紅葉が、庭の木立ちを点綴しているのを見て、それでもやっぱり美しいと思ったことがあった。それっきり、ついぞ一度も自分の庭の紅葉というものを見たことがなかったのである。それをかれこれ三十年後の今日思いもかけぬ東京の上野の美術館の壁面にかかった額縁の中に見いだしたわけである。
生まれる前に別れたわが子に三十年後にはじめてめぐり会った人があったとしたら、どんな心持ちがするものか、それは想像はできないが、それといくらか似たものではないかと思われるような不思議な心持ちをいだいてこの絵の前に立ち尽くすのであった。
次男が生まれて四十日目に西洋へ留学に出かけ、二年半の後に帰省したときのことである。船が桟橋へ着いたら家族や親類がおおぜい迎えに来ていた。姉が見知らぬ子供をおぶっているから、これはだれかと聞いたらみんなが笑いだした。それが紛れもない自分の子供であったのである。それがそうだと聞かされると同時に三年前の赤ん坊の顔と東京の原町の生活が実に電光のように脳裏にひらめいたのであった。
この絵に対する今の自分の心持ちがやはりいくらかこれに似ている。はじめ見た瞬間にはアイデンチファイすることのできなかった昔のわが家の庭が次第次第に、狂っていたレンズの焦点の合ってくるように歴然と眼前に出現してくるのである。
このただ一枚の飛び石の面にだけでも、ほとんど数え切れない喜怒哀楽さまざまの追憶の場面を映し出すことができる。夏休みに帰省している間は毎晩のように座敷の縁側に腰をかけて、蒸し暑い夕なぎの夜の茂みから襲ってくる蚊を団扇で追いながら、両親を相手にいろいろの話をした。そのときにいつも目の前の夕やみの庭のまん中に薄白く見えていたのがこの長方形の花崗岩の飛び石であった。
ことにありあり思い出されるのは同じ縁側に黙って腰をかけていた、当時はまだうら若い浴衣姿の、今はとくの昔になき妻の事どもである。
飛び石のそばに突兀としてそびえた楠の木のこずえに雨気を帯びた大きな星が一ついつもいつもかかっていたような気がするが、それも全くもう夢のような記憶である。そのころのそうした記憶と切っても切れないように結びついているわが父も母も妻も下女も下男も、みんなもう、一人もこの世には残っていないのである。
国展の会場をざっとひと回りして帰りに、もう一ぺんこの「秋庭」の絵の前に立って「若き日の追憶」に暇請いをした。会場を出るとさわやかな初夏の風が上野の森の若葉を渡って、今さらのように生きていることの喜びをしみじみと人の胸に吹き込むように思われた。去年の若葉がことしの若葉によみがえるように一人の人間の過去はその人の追憶の中にはいつまでも昔のままによみがえって来るのである。しかし自分が死ねば自分の過去も死ぬと同時に全世界の若葉も紅葉も、もう自分には帰って来ない。それでもまだしばらくの間は生き残った肉親の人々の追憶の中にかすかな残像のようになって明滅するかもしれない。死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術は半分以上なくなるかもしれない。自分にしても恥さらしの随筆などは書かないかもしれない。
こんなよしなしごとを考えながら、ぶらぶらと山下のほうへおりて行くのであった。
(昭和九年六月、心境)
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