ちょうど今から二十四年前の夏休みに、ただ一度ケーベルさんに会って話をした記憶がある。ほんとうに夢のような記憶である。
それは私が大学の一年から二年に移るときの夏休みであった。その年の春から私は西片町に小さな家を借りてそこに自分の家庭というものを作った。それでいつもはきまって帰省する暑中休暇をその年はじめてどこへも行かずにずっと東京で暮らす事になった。長い休暇の所在なさを紛らす一つの仕事として私はヴァイオリンのひとり稽古をやっていた。その以前から持ってはいたが下宿住まいではとかく都合のよくないためにほとんど手に触れずにしまい込んであったのを取り出して鳴らしていたのである。もっともだれに教わるのでもなく全くの独習で、ただ教則本のようなものを相手にして、ともかくも音を出すまねをしていたに過ぎなかった。適当な教師があれば教わりたかったが、そういう方面に少しの縁故ももたなかったし、またあったにしてもめったな人からは教わりたくもなかった。それでやっぱりいろんな書物にかいてあるひき方を読んでは、ひとりでくふうしながら稽古していた。いつまでもろくな音は出なかったが、それでもそうする事自身に人知れぬ興味はあった。
適当な楽譜を得るためにはじめには銀座へんの大きな楽器店へ捜しに行ったが、そういう商店はなんとなくお役所のように気位が高いというのか横風だというのか、ともかくも自分には気が引けるようで不愉快であったから、おしまいには横浜のドーリングとかいう商会へ手紙で聞き合わしたり注文したりする事にしていた。これは全くの余談であるが、少なくもそのころ、私は音楽が好きであるにかかわらず、音楽に関係している人々からはよい印象を受けなかった。音楽家からも楽器屋の店員からも、また音楽好きの学生からも一つとしてよい印象を受けなかった。
そのころ音楽会と言えば、音楽学校の卒業式の演奏会が唯一の呼び物になったがこれは自分らには入場の自由が得られなかった。そのほかには明治音楽会というのがあって、このほうは切符を買ってはいる事ができた。半分は管弦楽を主とした洋楽で他の半分は邦楽であった。そのほかにも何かの慈善音楽会というようなものもあって、そんなおりには私にとっては全く耳新しかったいろいろのソロなどを聞く事もできた。
記憶が混雑して確かな事は言われないが、たぶんそういう種類の演奏会のどれかで私は始めてケーベルさんの顔を見、ケーベルさんのピアノの独奏を聞いたように思う。曲がどういう曲であったかそれも覚えていない。ただ覚えているのは、ケーベルさんが一曲の演奏を終わって、静かに横にからだを向けて、椅子に腰かけたままじっと耳をすまして楽器と天井の間に往復する音波の反響に聞き入っていた瞬間の姿である。聴衆は待ち兼ねていたように拍手をした。ケーベルさんが立ち上がるのも待たないで無遠慮に拍手を浴びせかけた。ケーベルさんは少しはにかんだような色を柔和な顔に浮かべて聴衆に挨拶した。
演奏していた時の様子も思い出す。少し背中を猫背に曲げて、時々仰向いたり、軽くからだを前後に動かしたりしているのがいかにも自由な心持ちでそして三昧にはいっているようなふうに見えた。他の多くの演奏者と対比した時にいっそう何かしら全くちがったいい感じがした。
まっ黒なピアノに対して童顔金髪の色彩の感じも非常に上品であったが、しかしそれよりもこの人の内側から放射する何物かがひどく私を動かした。
平たく言えば私はその時から全くケーベルさんが好きになったのであった。もっともその前からその人がらについて充分な予備知識はもっていたのであるが、一度会って話がしてみたかった。しかしなんの用もないのに無紹介で訪問するのはあまりにぶしつけだと思って控えていた。
夏休みにヴァイオリンをもてあそんでいるうちにも、私の頭の中のどこかにケーベルさんの顔が浮かんでいたものと見える。どうしたはずみであったか、とうとう私はケーベルさんに手紙を書いた。理科の一年生だが音楽の修業の事で教えていただきたい事があるから、お暇の時に面会を許してくださいというような事をかいたものらしい。
返事をもらう事ができるかどうかと危ぶんでいる間もないほどに早く返事が来た。何日の何時に来いというのであった。それがどんなに私を喜ばせ興奮させたかは言うまでもない。
約束の日に白山御殿町のケーベルさんの家を捜して植物園の裏手をうろついて歩いた。かなり暑い日で近辺の森からは蝉の声が降るように聞こえていたと思う。
若い男の西洋人が取り次ぎに出た。書斎のような所へ通されると、すぐにケーベルさんが出て来た。上着もチョッキも着ないで、ワイシャツのままで出て来た。そしていきなり大きな葉巻き煙草を出して自分にも吸いつけ私にもすすめた。
ドイツ語は少しも話せず、英語もきわめてまずかった私がどんな話をしたかほとんど全く覚えていない。ただ私がヴァイオリンを独習している事を話した時に、ケーベルさんは私のもっている楽器の値段を聞いた。それが九円のヴァイオリンである事を話したら、ケーベルさんは突然吹き出して大きな声でさもおもしろそうに笑った。私はそれがなぜそれほどにおかしい事であるかをその時には充分理解する事ができなかった。それにもかかわらず私は笑われても別に不愉快でなかった。かえっていかにも罪のない子供のような笑いにつり込まれて私もわけもなく笑ってしまったのであった。
次の室の棚の上にオルゴールのような楽器が置いてあった。それを鳴らして聞かしてくれたりした。
その時の話の結果として、ケーベルさんは私のためにある音楽家に紹介状を書いてくれた。それは結局断わられて無効になってしまった。そうして私はとうとう二十年後の今日まで、ほんとうの楽器の扱い方を知らずに過ごして来た。
しかし私がケーベルさんを尋ねた第一の動機は、今になってみると、ヴァイオリンの問題よりはやはりむしろケーベルさんに会う事であったらしく思われる。考えてみると恥ずかしい事である。その時に私は二十三歳であった。ケーベルさんもまだそう老人というほどでもなかった。
それきりで私は二度と会って話をした事はない。ただその後に一度駿河台の家へ何かの演奏会の切符をもらいに行った事がある。その時は今の深田博士が玄関へ出て来て切符を渡してくれた事を覚えている。これも恥ずかしい事である。その家の門の表札にはラファエル・フォン・コウィベルとしてあった。
全く夢のようである。
言葉がもう少し自由であったなら、そして自分がもし文科の学生ででもあったら、私はおそらく、もう少しケーベルさんに接近する機会が多かったかもしれない。
ケーベルさんがなくなった時に私は昔の事を思い出してせめて葬式にでも出たいような心持ちがした。しかしやっぱりそうしないほうがいいと思ってやめてしまった。どこへ見舞い状を出す先もないと思う事がさびしかった。
自分のような、みずから求めて世間に義理を欠いて孤独な生活を送りながら、それでいて悟りきれずに苦しんでいるあわれな人間にとっては、ケーベルさんのような人が、どこかの領事館の一室にこもったきりで読書と思索にふけっているという考えだけでもどんなに大きな慰藉であったかしれないと思う。その人がもうこの世にいないと思うのは、なんだか少しさびしい。
ケーベルさんに笑われた九円のヴァイオリンは、とうの昔にこわれてしまったが、このごろ思い出してまた昔の教則本をさらっている。それにつけて時おりはあの当時を思い出す。そうすると、きっと蝉時雨の降る植物園の森の裏手の古びたペンキ塗りの洋館がほんとうに夢のように記憶に浮かんで来る。
(大正十二年八月、思想)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。