現代では書籍というものは見ようによっては一つの商品である。それは岐阜提灯や絹ハンケチが商品であると同じような意味において商品である。その一つの証拠にはどこのデパートメント・ストアーでもちゃんと書籍部というのが設けられている。そうして大部分はよく売れそうな書物を並べてあるであろうが、中にはまたおそらくめったには売れそうもない立派な書籍も陳列されている。それはちょうど手ぬぐい浴衣もあればつづれ錦の丸帯もあると同様なわけであって、各種階級の購買者の需要を満足するようにそれぞれの生産者によって企図され製作されて出現し陳列されているに相違ない。
商品として見た書籍はいかなる種類の商品に属するか。米、味噌、茶わん、箸、飯櫃のような、われわれの生命の維持に必需な材料器具でもない。衣服や住居の成立に欠くべからざる品物ともちがう。それかといって棺桶や位牌のごとく生活の決算時の入用でもない。まずなければないでも生きて行くだけにはさしつかえはないもののうちに数えてもいいように思われる。実際今でも世界じゅうには生涯一冊の書物も所有せず、一行の文章も読んだことのない人間は、かなりたくさんに棲息していることであろう。こういうふうに考えてみると、書物という商品は、岐阜提灯や絹ハンケチや香水や白粉のようなものと同じ部類に属する商品であるように思われて来るのである。
毎朝起きて顔を洗ってから新聞を見る。まず第一ページにおいてわれわれの目に大きく写るものが何であるかと思うと、それは新刊書籍、雑誌の広告である。世界じゅうの大きな出来事、日本国内の重要な現象、そういうもののニュースを見るよりも前にまずこの商品の広告が自然にわれわれの眼前に現われて来るのである。
自分の知る範囲での外国の新聞で、こういう第一ページをもったものは思い出すことができない。日本にオリジナルな現象ではないかという気がする。このような特異の現象の生ずるにはそれだけの特異な理由がなければならない。また、こうなるまでには、こうなって来た歴史があるであろうが、それは自分にはわからない。
しかしこの現象から、日本人は世界じゅうで最もはなはだしく書籍を尊重し愛好する国民であるということを推論することはできない。なんとなれば、この現象からむしろ反対の結論に近いものを抽出することも不可能ではないからである。すなわち、もしもすべての人が絶対必要として争って購買するものならば何も高い広告料を払って大新聞の第一ページの大半を占有する必要は少しもないであろう。反対に広告などはいっさいせずに秘密にしておいても、人々はそれからそれと聞き伝えて、どうかして一本を手に入れたいと思う人がおのずから門前に市をなすことあたかも職業紹介所の門前のごとくなるであろう。
商品の新聞広告で最も広大な面積を占有するものは書籍と化粧品と売薬である。この簡単明瞭なる一つの事実は何を意味するか。これはこの三つのものが、商品としての本質上ある共通な性質をもっていることを示すものと考えられる。
その第一の共通点は、内容類似の品が多数であって、従って市場における競争のはげしいということである。もしもそれらのある商品の内容が他の類品に比べて著しく優秀であって、そうして、その優秀なことが顧客に一目ですぐわかるのであったら、広告の意義と効能は消滅するであろう。しかるに化粧品や売薬の類は実際使いくらべてみた当人にも優劣の確かな認識はできない。評判のいいほうがなんとなくいいように思われるくらいのものである。書籍の場合はまさかにそれほどではないとしても、大多数の読書界の各員が最高の批判能力をもっていない限り、やはり評判の高いほうを選む。そうして評判は広告と宣伝によって高まるとすれば、書籍の生産者が売薬化粧品商と同一の手段を選ぶのは当然のことであって、これをとがめるのは無理であろう。ただ現在日本で特にこの現象の目立つのは、思うにそれぞれの方面において書籍の価値批評をする権威あり信用ある機関が欠乏しているためか、あるいはそういうものがあっても、多数の人がそれに重きを置かずして、かえってやはり新聞広告の坪数で価値を判断するような習慣に養成され、そうしてあえてみずから疑ってみる暇がないためであるかもしれない。
化粧品や売薬と、商品として見た書籍とを比較する場合に一つの大きな差別の目標となるのは、古本屋というものに対する古化粧品屋、古売薬屋の存在しないことである。神田の夜店を一晩じゅう捜してもたぶん明治年間に流行した化粧品売薬を求めることはできないであろう。しかし書籍ならば大概のものは有数な古書籍店に頼んでおけばどこかで掘り出して来てもらえるようである。
それにしても神保町の夜の露店の照明の下に背を並べている円本などを見る感じはまずバナナや靴下のはたき売りと実質的にもそうたいした変わりはない。むしろバナナのほうは景気がいいが、書物のほうはさびしい。
「二人行脚」の著者故日下部四郎太博士がまだ大学院学生で岩石の弾性を研究していたころのことである。一日氏の机上においてある紙片を見ると英語で座右の銘とでもいったような金言の類が数行書いてあった。その冒頭の一句が「少なく読み、多く考えよ」というのであった。他の文句は忘れてしまったが、その当時の自分の心境にこの文句だけが適応したと見えて今でもはっきり記憶に残っている。今から考えてみると日下部博士のようなオリジナルな頭脳をもった人には、多く読み少なく考えるという事はたといしようと思ってもできない相談であったかもしれない。書物を開いて、ものの半ページも読んで行くうちに、いろいろの疑問や思いつきが雲のごとくむらがりわき起こって、そのほうの始末に興味を吸収されてしまうような場合が多かったのではないかと想像される。
こういう種類の頭脳に対しては書籍は一種の点火器のような役目をつとめるだけの場合が多いようである。大きな炎をあげて燃え上がるべき燃料は始めから内在しているのである。これに反してたとえば昔の漢学の先生のうちのある型の人々の頭はいわば鉄筋コンクリートでできた明き倉庫のようなものであったかもしれない。そうしてその中に集積される材料にはことごとく防火剤が施されていたもののようである。
いずれにしても無批判的な多読が人間の頭を空虚にするのは周知の事実である。書物のなかったあるいは少なかった時代の人間のほうがはるかに利口であったような気もするが、これは疑問として保留するとして、書物の珍しかった時代の人間が書物によって得られた幸福の分量なり強度なりが現代のわれわれのそれよりも多大であったことは確かであろう。蘭学の先駆者たちがたった一語の意味を判読し発見するまでに費やした辛苦とそれを発見したときの愉悦とは今から見れば滑稽にも見えるであろうが、また一面には実にうらやましい三昧の境地でもあった。それに比べて、求める心のないうちから嘴を引き明けて英語、ドイツ語と咽喉仏を押し倒すように詰め込まれる今の学童は実にしあわせなものであり、また考えようではみじめなものでもある。
子供の時分にやっとの思いで手にすることのできた雑誌は「日本の少年」であった。毎月一回これが東京から郵送されて田舎に着くころになると、郵便屋の声を聞くたびに玄関へ飛び出して行ったものである。甥の家では「文庫」と「少国民」をとっていたのでこれで当時の少青年雑誌は全部見られたようなものである。そうして夜は皆で集まって読んだものの話しくらをするのであった。明治二十年代の田舎の冬の夜はかくしてグリムやアンデルセンでにぎやかにふけて行ったのである。「しり取り」や「化け物カルタ」や「ヤマチチの話」の中に、こういう異国の珍しく美しい物語が次第に入り込んで雑居して行った径路は文化史的の興味があるであろう。今書店の店頭に立っておびただしい少年少女の雑誌を見渡し、あのなまなましい色刷りの表紙をながめる時に今の少年少女をうらやましく思うよりもかえってより多くかわいそうに思うことがある。
生まれて初めて自分が教わったと思われる書物は、昔の小学読本であって、その最初の文句が「神は天地の主宰にして人は万物の霊なり」というのであった。たぶん、外国の読本の直訳に相違ないのであるが、今考えてみるとその時代としては恐ろしい危険思想を包有した文句であった。先生が一句ずつ読んで聞かせると、生徒はすぐ声をそろえてそれを繰り返したものであるが、意味などはどうでもよかったようである。その読本にあったことで今でも覚えているのは、あひるの卵をかえした牝鶏が、その養い子のひよっこの「水におぼれんことを恐れて」鳴き立てる話と、他郷に流寓して故郷に帰って見ると家がすっかり焼けて灰ばかりになっていた話ぐらいなものである。そうしてこの牝鶏と帰郷者との二つの悪夢はその後何十年の自分の生活に付きまとって、今でも自分を脅かすのである。そのころ福沢翁の著わした「世界国づくし」という和装木版刷りの書物があった。全体が七五調の歌謡体になっているので暗記しやすかった。そのさし絵の木版画に現われた西洋風景はおそらく自分の幼い頭にエキゾチズムの最初の種子を植え付けたものであったらしい。テヘラン、イスパハンといったようないわゆる近東の天地がその時分から自分の好奇心をそそった、その惰性が今日まで消えないで残っているのは恐ろしいものである。「団々珍聞」という「ポンチ」のまねをしたもののあったのもそのころである。月給鳥という鳥の漫画には「この鳥はモネーモネーと鳴く」としたのがあったのを覚えている。官権党対自由党の時代であったのである。今のブル対プロに当たるであろう。歴史は繰り返すのである。
「諸学須知」「物理階梯」などが科学への最初の興味を注入してくれた。「地理初歩」という薄っぺらな本を夜学で教わった。その夜学というのが当時盛んであった政社の一つであったので、時々そういう社の示威運動のようなものが行なわれ、おおぜいで提灯をつけて夜の町を駆けまわり、また時々は南磧で繩奪い旗奪いの競技が行なわれた。ある時はある社の若者が申し合わせて一同頭をクリクリ坊主にそり落として市中を練り歩いたこともあった。
宅の長屋に重兵衛さんの家族がいてその長男の楠さんというのが裁判所の書記をつとめていた。その人から英語を教わった。ウィルソンかだれかの読本を教わっていたが、楠さんはたぶん奨励の目的で将来の教案を立てて見せてくれた。パーレー万国史、クヮッケンボス文典などという書名を連ねた紙片に過ぎなかったが、それが恐ろしく幼い野心を燃え立たせた。いよいよパーレーを買いに行ったとき本屋の番頭に「たいそうお進みでございますねえ」といわれてひどくうれしがったものである。その時の幼稚な虚栄心の満足が自分の将来の道を決定するいろいろな因子の中の一つになったかもしれないという気がする。この楠さんはまたゲーテの「狐の裁判」の翻訳書を貸してくれた人である。「漢楚軍談」「三国志」「真田三代記」の愛読者であったところの明治二十年ごろの田舎の子供にこのライネケフックスのおとぎ話はけだし天啓の稲妻であった。可能の世界の限界が急に膨張して爆発してしまったようなものであったに相違ない。
やはりそのころ近所の年上の青年に仏語を教わろうとしたことがある。「レクチュール」という読本のいちばん初めの二三行を教わったが、父から抗議が出てやめてしまった。英語がまだ初歩なのに仏語をちゃんぽんに教わっては不利益だという理由であったが、実際はその教師となるべき青年が近隣で不良の二字をかぶらせた青年であるがためだということが後にわかって来た。思うにかれは当時の新思想の持ち主であったのである。それから十年の後高等学校在学中に熊本の通町の古本屋で仏語読本に鉛筆ですきまなしにかなの書き入れをしたのを見つけて来て独習をはじめた。抑圧された願望がめざめたのである。子供に勉強させるには片端から読み物に干渉して良書をなるべく見せないようにするのも一つの方法であるかもしれない。そうして読んでいけないと思う種類の書物を山積して毎日の日課として何十ページずつか読むように命令するのも一法であるかもしれない。
楠さんも、この不良と目された不幸な青年も夭死してとくの昔になくなったが、自分の思い出の中には二人の使徒のように頭上に光環をいただいて相並んで立っているのである。この二人は自分の幼い心に翼を取りつけてくれた恩人であった。
楠さんの弟の亀さんはハゴを仕掛けて鳥を捕えたり、いろいろの方法でうなぎを取ったりすることの天才であった。この亀さんから自分は自然界の神秘についていかなる書物にも書いてない多くのものを学ぶことができた。
中学時代の初期には「椿説弓張月」や「八犬伝」などを読んだ。田舎の親戚へ泊まっている間に「梅暦」をところどころ拾い読みした記憶がある。これらの読み物は自分の五体の細胞の一つずつに潜在していた伝統的日本人をよびさまし明るみへ引き出すに有効であった。「絵本西遊記」を読んだのもそのころであったが、これはファンタジーの世界と超自然の力への憧憬を挑発するものであった。そういう意味ではそのころに見た松旭斎天一の西洋奇術もまた同様な効果があったかもしれないのである。ジュール・ヴェルヌの「海底旅行」はこれに反して現実の世界における自然力の利用がいかに驚くべき可能性をもっているかを暗示するものであった。それから四十年後の近ごろになって新聞で潜航艇ノーチラスの北極探検に関する記事を読み、パラマウント発声映画ニュースでその出発の光景を見ることになったわけである。この「海底旅行」や「空中旅行」「金星旅行」のようなものが自分の少年時代における科学への興味を刺激するに若干の効果があったかもしれない。
洪水のように押し込んで来る西洋文学の波頭はまずいろいろなおとぎ話の翻訳として少年の世界に現われた。おとなの読み物では民友社のたしか「国民小説」と名づけるシリースにいろいろの翻訳物が交じっていた。矢野竜渓の「経国美談」を読まない中学生は幅がきかなかった。「佳人の奇遇」の第一ページを暗唱しているものの中に自分もいたわけである。
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