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東上記(とうじょうき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-3 18:22:56  点击:  切换到繁體中文

八月二十六日床を出でて先ず欄干にる。空よく晴れて朝風やゝ肌寒く露の小萩のみだれを吹いて葉鶏頭はげいとうの色鮮やかに穂先おおかた黄ばみたる田面たのもを見渡す。薄霧うすぎり北の山の根に消えやらず、柿の実撒砂まきすなにかちりと音して宿夢しゅくむ拭うがごとくにさめたり。しばらくの別れを握手に告ぐる妻がびんおくに風ゆらぎて蚊帳かやの裾ゆら/\と秋も早や立つめり。台所に杯盤はいばんの音、戸口に見送りの人声、はや出立いでたたんと吸物の前にすわれば床の間の三宝さんぽう枳殼からたち飾りし親の情先ず有難ありがたく、この枳殼誤って足にかけたれば取りかえてよと云う人の情もうれし。盃一順。早く行て船室へ場を取りませねばと立上がれば婢僕ひぼく親戚あがかまちつどいて荷物を車夫に渡す。忘れ物はないか。御座りませぬ。そんなら皆さん御機嫌よくも云ったつもりなれどやゝ夢心地なればたしかならず。玄関を出れば人々も砂利じゃりを鳴らしてついて来る。用意の車五輌口々に何やら云えどよくは耳に入らず。から/\と引き出せば後にまた御機嫌ようの声々あまり悪からぬものなり。見返る門柳監獄の壁にかくれて流れる水に※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)れんい動く。韋駄天いだてんを叱する勢いよくまつはなけ付くれば旅立つ人見送る人人足にんそく船頭ののゝしる声々。車の音。端艇きしをはなるれば水棹みさおのしずく屋根板にはら/\と音する。ふなべりのすれあう音ようやく止んで船は中流に出でたり。水害の名残なごり棒堤ぼうづつみにしるく砂利に埋るゝあしもあわれなり。左側の水楼に坐して此方こっちを見る老人のあればきっと中風ちゅうぶうよとはよき見立てと竹村はやせば皆々笑う。新地しんち絃歌げんか聞えぬがうれしくて丸山台まで行けば小蒸汽こじょうきそう後より追越して行きぬ。
 昔の大名それの君、すれちがいし船の早さに驚いてあれは何船と問い給えば御附きの人々かしこまりて、あれはちがい船なればかく早くこそと御答え申せば、さらばそのちがい船を造れと仰せられし勿体もったいなさと父上の話に皆々またどっと笑う間に船は新田堤にかかる。並んで行く船に苅谷氏も乗り居てこれも今日の船にて熊本へ行くなりとかにてその母堂も船窓より首さしのべて挨拶する様ちと可笑おかしくなりたれど、じっとこらゆるうちさし込む朝日暑ければにや障子ぴたりとしめたり。程なく新高知丸の舷側げんそくにつけば梯子はしごの混雑例のごとし。荷物を上げ座もかまえ、まだ出帆には間もあればと岩亀亭がんきていへつけさせ昼飯したゝむ。江上油のごとく白鳥飛んでいよいよ青し。欄下の溜池に海蟹うみがにはさみ動かす様がおかしくて見ておれば人を呼ぶ汽笛の声に何となく心き立ちて端艇出させ、道中はことさら気を付けてと父上一句、さらば御無事でと子供等の声々、後に聞いて梯子駆け上ればともに水白く泡立ってあたりの景色廻り舞台のようにくる/\と廻ってハンケチ帽子をふる見送りの人々。これに応ずる乗客の数々。いつの間にか船首をめぐらせる端艇小さくなりて人の顔も分き難くなれば甲板かんぱんに長居は船暈ふなよいの元と窮屈なる船室にい込み用意の葡萄酒一杯に喉をうるおして革鞄かばん枕に横になれば甲板にまたもや汽笛の音。船は早や港を出るよと思えど窓外をのぞく元気もなし。『新小説』取り出でて読む。宙外ちゅうがいの「血桜」二、三頁読みかくれば船底にすさまじき物音して船体にわかに傾けり。皆々思わず起き上がる。港口浅せたるためキールの砂利に触るゝなるべし。あまり気味よからねば半頁程の所読んではいたれど何がかいてあったかわからざりしも後にて可笑しかりける。船の進むにつれて最早もはや気味悪き音はやんで動揺はようやく始まりて早や胸悪きをじっと腹をしめてもっぱら小説に気を取られるようにつとむればよう/\に胸静まり、さきの葡萄酒の酔心。ほっとしていつしか書中の人となりける。ボーイの昼食をすゝむる声耳に入りたれどもとより起き上がる事さえ出来ざるわれの渋茶一杯すゝる気もなく黙って読み続くるも実はこのようなる静穏の海上に一杯の食さえかなわぬと思われん事の口惜くちおしければなり。
 一篇広告の隅々まで読み終りし頃は身体ようやく動揺になれて心地やゝすが/\しくなり、なかば身を起して窓外を見れば船は今室戸岬むろとざきを廻るなり。百尺岩頭燈台の白堊はくあ日にかがやいて漁舟の波のうちに隠見するもの三、四。これにかもめが飛んでいたと書けば都合よけれども飛魚とびうお一つ飛ばねば致し方もなし。舟傾く時海また傾いて深黒なる奔潮天と地との間に向って狂奔するかと思わるゝ壮観は筆にも言語にも尽すべきにあらず。かんうら沖を過ぐと云う頃ハッチより飯櫃めしびつ膳具ぜんぐを取り下ろすボーイの声ヶましきは早や夕飯なるべし。少し大胆になりて起き上がり箸を取るに頭思いのほかに軽くて胸も苦しからず。隣りに坐りし三十くらいの叔母様の御給仕かたじけなしと一碗を傾くればはやいやになりぬ。寺田寅彦さんと云う方は御座らぬかとわめくボーイの濁声だみごえうるさければ黙って居けるがあまりに呼び立つる故オイ何んだと起き上がれば貴方あなたですかと怪訝顔けげんがおなるも気の毒なり。何ぞと言葉をやわらげて聞けば、上等室の苅谷さんからこれを貴方へ、と差出す紙包あくれば梨子なし二つ。有難しとボーイに礼は云うて早速さっそく頂戴するに半分ばかりにして胸つかえたれば勿体なけれど残りは窓から外へ投げ出してまた横になれば室内ようやく暗く人々の苦にせし夕日も消えて甲板を下り来る人多くなり、窮屈さはいっそう甚だしけれど吾一人にもあらねば致し方もなし。隣りに言葉なまり奇妙なる二人連れの饒舌じょうぜつもいびきの音に変って、向うのせなあが追分おいわけを歌い始むれば甲板に誰れの持て来たものか轡虫くつわむしの鳴き出したるなど面白し。甲板をあちこちする船員の靴音がコツリ/\と言文一致なれば書く処なり。夢魂いつしか飛んで赴く処は鷹城たかじょうのほとりなりけん、なつかしき人々の顔まざ/\と見ては驚く舷側の潮の音。ねがえりの耳に革鞄の仮枕いたずらに堅きも悲しく心細くわれながら浅猿あさましき事なり。残夢再びさむれば、もう神戸こうべが見えますると隣りの女に告ぐるボーイの声。さてこそとにわかに元気つきて窓をのぞきたれど月なき空に淡路島あわじしまも見え分かず。再びとろ/\として覚むれば船は既に港内に入って窓外にきらめく舷燈の赤き青き。汽笛のゆるごとき叫ぶがごとき深夜の寂寞せきばくと云う事知らぬ港ながら帆柱にゆらぐ星の光はさすがに静かなり。革鞄と毛布と蝙蝠傘こうもりがさとを両手一ぱいにかかえて狭き梯子を上って甲板に上がれば既に船は桟橋さんばしへ着きていたり。苅谷氏に昨夕の礼をのべて船を下り安松へ上がる。岡崎賢七とか云う人と同室へ入れられ、うち端書はがきしたゝむ。時計を見ればまだ三時なり。しかし六時の急行に乗る積りなれば落付いて眠る間もなかるべしと漱石師などへ用もなき端書したゝむ。ラムネを取りにやりたれど夜中にて無し、氷も梨も同様なりとの事なり。退屈さの茶をすすれば胸ふくれて心地よからず。とかくするうち東の空白み渡りてあかね一抹いちまつと共に星の光まばらになり、軒下に車の音しげくなり、時計を見れば既に五時半なり。急いで朝飯かき込み岡崎氏と停車場にけつくれば用捨気ようしゃげもなき汽車進行を始めて吐き出す煙の音乗り遅れし吾等を嘲るがごとし。珍しき事にもあらねど忌々いまいましきものなり。先ず荷物を預けんとて二人のを一緒にはからす。運賃弐円とは馬鹿々々しけれど致し方もなし。楠公なんこうへでも行くべしとて出立いでたたんとせしがまてしばし余は名古屋にて一泊すれども岡崎氏は直行なれば手荷物はやはり別にすべしとて再び切符の切り換えを求む。駅員の不機嫌顔甚だしきも官線はやはり官線だけの権力とか云うものあるべしと、かしこみて願い奉りようよう切符を頂戴して立ちいずれば吹き上ぐる朝嵐に藁帽わらぼう飛んでぬかるみを走る事数間すうけん、ようやく追い付きて取止とりとどめたれど泥にまみれてあまり立派ならぬ帽の更に見ばえを落したる重ね/\の失敗なり。旅なればこれも腹は立たず。元町もとまちを線路に沿うて行く。道傍の氷店に入ってラムネ一瓶に夜来の渇望も満たしたればこゝに小荷物を預けて楠公祠なんこうしまで行きたり。亀の遊ぶのを見たりとて面白くもなし湊川みなとがわへ行て見んとて堤を上る。昼なれば白面の魎魅りょうみも影をかくして軒を並ぶる小亭かんとして人の気あるは稀なり。並木の影涼しきところ木の根に腰かけていこえば晴嵐せいらん梢を鳴らして衣に入る。枯枝を拾いて砂に嗚呼ああ忠臣など落書すれば行き来の人吾等を見る。半時間ほども両人無言にて美人も通りそうにもなし。ようよう立上がりて下流へ行く。河とは名ばかりの黄色き砂に水の気なくて、照りつく日のきらめく暑そうなり。川口に当りて海面鏡のごとく帆船の大き小さきも見ゆ。多門通りより元の道に出てまた前の氷屋に一杯の玉壺を呼んで荷物を受取り停車場に行く。今ようやく八時なればまだ四時間はこゝに待つべしと思えば堪えられぬ欠伸あくびに向うに坐れる姉様けゞん顔して吾を見る。時これ金と云えばこの四時間何金に当るや知らねどあくびと煙草たばこの煙に消すも残念なり、いざや人物の観察にても始めんと目を見開けば隣りに腰かけし印半天しるしばんてんの煙草の火を借らんとて誤りて我が手に火を落しあわてて引きのけたる我がさまの吾ながら可笑しければ思わず噴き出す。この男バナナと隠元豆いんげんまめを入れたる提籠さげかごを携えたるがえりしるしの水雷亭とは珍しきと見ておればやがてベンチの隅に倒れてねてしまいける。富米野と云う男熊本にて見知りたるも来れり。同席なりし東も来り野並も来る。
 こゝへあらたに入り来りし二人連れはいずれ新婚旅行と見らるゝ御出立おんいでたち。すじ向いに座を構えたまうを帽のひさしよりうかゞい奉れば、花の御かんばせすこし痩せたまいて時々小声に何をか物語りたまう双頬そうきょうに薄紅さしておもはゆげなり。人々の視線一度に此方こなたへ向かえば新郎のパナマ帽もうつむきける。この二人もなく大阪行のにて去る。引きちがえて入り来る西洋人のたけ低く顔のたけも著しく短きが赤き顔にこればかり立派なるひげひねりながら煙草を人力じんりきに買わせて向側のプラットフォームに腰をかけ煙草取り出して鬚をかい上ぐるなどあまり上等社会にもあらざるべし。これと同じ白衣着けたる連れの男は顔長く頬髯ほおひげ見事なれど歩み方の変なるは義足なるべし。この間改札口幾度か開かれまた閉じられて汽笛の止む間もなし。人来り人去っていつまでも待合の隅に居残るは吾等のみなるぞつまらなき。ようやく十二時となりて、プラットフォームに出でんとすればこの次のなりとてつきかえされし、重ね/\の失敗なりける。ようやくにして新橋行のに乗り込む。客車狭くして腰掛のうす汚きも我慢して座を占むれば窓外のもの動き出して新聞売の声後になる。右には未だ青き稲田をへだてて白砂青松の中に白堊の高楼あま塩屋しおやに交じり、その上に一抹の海青く汽船の往復する見ゆ。左に従い来る山々山骨さんこつ黄色く現われてまばらなる小松ちびけたり。中にかぶとの鉢を伏せたらんがごとき山見え隠れするを向いの商人ていの男に問う。何とか云いしも車の音に消されて判らず。再三問いかえせしもなまりの耳なれぬ故かついにわからず。気の毒にもあり可笑しくもあれば終にそのままに止みぬ。後にて聞けば甲山かぶとやまと云う由。あたりの山と著しく模様変れるはいずれ別に火山作用にて隆起せるなるべし。これのみは樹木黒く茂りたり。

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