普通の和製のレコードとヴィクターのと見比べて著しく目につく事は盤の表面のきめの粗密である。その差はことに音波の刻まれた部分に著しい。適当な傾きに光を反射させて見た時に一方のはなんとなくがさがさした感じを与えるが、一方は油でも含んだような柔かい光沢を帯びている。これは刻まれた線の深さにもよる事ではあろうが、ともかくもレコードの発する雑音の多少がこの光沢の相違と密接な関係のある事は疑いもない事である。これは材料その物の性質にもよりまた表面の仕上げの方法にもよるだろうが、少しの研究と苦心によって少なくも外国製に劣らぬくらいにはできそうなものであるのに、それができていないのはどういう理由によるものか、門外漢にはわかりかねる。しかし私の知れる範囲内では、蓄音機レコードの製造工場へ聘せられて専心その改良に没頭している理学士は一人もないようである。もっともこれは別に蓄音機のみに関した事ではない。当然専門の理学士によってのみ初めてできうべき器械類が、そういう人の手によらずしてともかくも造られているという奇蹟的事実は至るところに見受けられる事であるから。
いずれにしても今の蓄音機はまだ完全なものとは思われない。だれにでもいちばんに邪魔になるのはあのささらでこするような、またフライパンのたぎるような雑音である。あれを防ぐ目的で振動膜から発する音を長さ二十余尺あるいは四十余尺の幾度も折れ曲がった管の中を通過させて試験した人もある。そうすれば雑音の短い音波はかなり消却されるがそのかわり音が弱くなるのは免れ難いし、また同時に肝心の楽音の音色にもいくぶんかの変化を起こすのはやむを得ないようである。そのほかに驢馬の耳の形をしたラッパを使った人もあるが、どれだけ有効であるかよくわからない。しかしこの雑音は送音管部のみならず盤や針や振動膜やすべての部分の研究改良によって除去し得ないほどの困難とは思われない。早晩そういう改良が外国のどこかで行なわれるだろうと予期される。
もう一つの蓄音機の欠点は、レコードの長さに制限があって長い曲が途中で中断せられる事である。この中絶をなくするために二台の器械を連結してレコードの切れ目で一方から他方へ切りかえる仕掛けがわが国の学者によって発明されたそうであるが、一般の人にはこの中断がそれほど苦にならないと見えて、まだ市場にそういう器械が現われた事を聞かない。
音波によって起こされた電流の変化を、電磁石によって鋼鉄の針金の付磁の変化に翻訳して記録し、随時にそれを音として再現する装置もすでに発見されて、現にわが国にも一台ぐらいは来ているはずである。これならば任意に長い記録を作る事も理論上可能なわけであるが、なんと言っても電気装置などを使わずに弾条と歯車だけで働くグラモフォンの軽便なのには及ばないわけである。
私の和製の蓄音機は二年ぐらい使った後に歯車の故障が起こって使用に堪えないものになってしまった。近所の時計屋などではどうしても直しきれなかった。もと買った店へ電話で掛け合ったら、取りには行かれないが持って来れば修繕してもいいという返事であった。買う時には店員まで付き添って雨の降る中を届けて来たのに、それでは少しおかしいとは思ったがどうにもならなかった。しかしはるばる持って行くのがおっくうなので長い間納戸のすみに押し込んだままになっていた。子供もおしまいにはあきらめて蓄音機の事は忘れてしまったようであった。
ある日K君のうちへ遊びに行ったらヴィクトロラの上等のが求めてあって、それで種々のいいレコードを聞かされた。レコードは同じのでも器械がいいとまるで別物のように感じられた。今までうちで粗末な器械でやっていたのはレコードに対する虐待であった事に気がついた。うちの器械で鋼鉄の針でやる時にあまりに耳立ちすぎて不愉快であったピッコロのような高音管楽器の音が、いい器械で竹針を用いれば適当に柔らげられ、一方ではまた低音の弦楽器の音などがよほど正常の音色を出す事を知った。
年の暮れに余分な銭のあったのをヴィクトロラの中でいちばん安いのにかえて針も三角の竹針を用いる事にした。同じレコードの中から今まで聞かれなかったいろいろの微細な音色のニュアンスなどが聞き分けられるのが不思議なくらいであった。ごまかしの八百倍の顕微鏡でのぞいたものをツァイスのでのぞいて見るような心持ちがした。精妙ないいものの中から、そのいいところを取り出すにはやはりそれに応ずるだけの精微の仕掛けが必要であると思った。すぐれた頭の能力をもった人間に牛馬のする仕事を課していたような、済まない事をしていたというような気がするのであった。
鉄針と竹針とによる音色の相違はおそらく針自身の固有振動にも関係するだろうしまた接触点の弾性にもよるだろうが、これらの点を徹底的に研究すれば今後の改良に関する有益なヒントを得られるだろうと思われる。
いずれにしてもまだ現在の蓄音機は不完全と言われてもしかたのない状態にある。三色写真が絵画の複製術として物足りないごとく、蓄音機は名曲のすぐれた演奏の再現器として物足りないものである。それだから蓄音機は潔癖な音楽家から軽視されあるいは嫌忌されるのもやむを得ない事かもしれない。私はそういう音楽家の潔癖を尊重するものではあるが、それと同時に一般の音楽愛好者が蓄音機を享楽する事をとがめてはならないと思うものである。
蓄音機でいい音楽を聞くのと、三色版で名画を見るのとはちょっと考えると似ているようで実は少し違ったところがあると思う。私の考えでは、三色版が色彩に対しても不忠実であるのみならず、画面の微妙な光沢や組織に対し全然再現能力のないのに反して、良い蓄音機では音色や強弱の機微な差別が相応に現われ、そして最も重要な要素と考えられる時間関係がかなり厳密に再現される。そういう点で蓄音機のほうがある意味で三色版より進んでいるとも言われる。ただ困る事には今の蓄音機に避くべからざる雑音の混入が、あたかも三色版の面にきたないしみの散点したと同様であるようにも思われる。しかし人間の耳には不思議な特長があって、目の場合には望まれない選択作用が行なわれる。すなわち雑多な音の中から自分の欲する音だけを抽出して聞き分ける能力を耳はもっている。音楽家が演奏をしている時に風や雨の音、時には自分の打っているキーの不完全な槓杆のきしる音ですらも、心がそれに向いていなければ耳には響いても頭には通じない。この驚くべき聴感の能力のおかげで、われわれは喧騒の中に会話を取りかわす事ができ、管弦楽の中からセロやクラリネットや任意の楽器の音を拾い出す事ができる。
これに反して目のほうでは白色の中から赤や緑を抜き出す事が不可能であり、画面から汚点を除却して見る事はどうしてもできない。
このような本質的の区別がありはするが、蓄音機のあまりにはなはだしい雑音はやはり耳ざわりには相違ない。しかし一つの曲に修熟してその和音や旋律を記憶して後にそのレコードの音を専心に追跡しあるいは先導して行く場合にはかなりの程度までこの選択ができるように思われる。これは修練によってだれでも自然にできるだろうと思われるが、かつてある学者の試みたように蓄音機から出る音を壁にかけた反射鏡から一度反射させて聞けば、あたかも隣室の音楽を聞いているような心持ちがするので器械の雑音の気になる事がさらによく防がれるだろうと思う。
もう一つ音楽家にとって不満足であろうと思うのは、たとえ音色がよく再現できていると言ったところで、これをほんとうの楽器に比べればどうしてもいくぶんの差違のある事は免れ難い事である。いろいろな音の相対的の関係はかなりによく行っていても、全体にかぶさっている濁りあるいは曇りのようなものがあってそれが気になるだろうと思われる。しかしこれはたとえば同一の絵を少し暗い室で見るとか、あるいは少し色のついた光の下で見るとよく似た事であって、正常の光で見た時の印象が確実に残っていない人にとってはその区別は全然認識されない。もしそうでなかったら曇り日に見たセザンヌと晴天に見たセザンヌは別物に見えなければならないわけである。同じようなわけで八畳の日本室で聞くヴァイオリンと、広い演奏室で聞く同じひき手の同じヴァイオリンとも別物でなければならない。
不完全なる蓄音機から本物の音楽を聞き出そうとする人にとってもう一つの助けになるのは人間心理の特徴として知られた補足作用である。自分の文章の校正刷りを見る時に顕著な誤植を平気で読み過ごすと同じような誤謬が、不完全なレコードを完全に聞かせるに役立つ場合も可能である。
畢竟蓄音機をきらいなものとするか、おもしろいものとするかは聞く人の心の置き方でずいぶん広い範囲内でどうにもなるものだろうと思う。これは絶対的善美なものの得られない現世であらゆるものの価値判断に関係して当てはまる普遍的方則ではあるまいか。それで私は蓄音機をきらう音楽家のピュリタニズムを尊敬すると同時に蓄音機を愛好する素人を軽視する事はどうしてもできない。
蓄音機が完成に近づくに従って生ずる新しい利用方面がいろいろに考えられる中にも、従来すでに行なわれているような音楽や演説の保存運搬、外国語の発音の教授などは別として、たとえば学校の講義のあるものを悉皆蓄音機ですませる事はできないかという問題が起こる。
学校の講義と言ってもいろいろの種類があるが、その内にはただ教師がふところ手をしていて、毎学年全く同じ事を陳述するだけで済むものもある。そういうのは蓄音機でも代用されはしないかという問題が起こる。それからまた黒板に文字や絵をかいたりして説明する必要のある講義でも、もし蓄音機と活動写真との連結が早晩もう少し完成すれば、それで代理をさせれば教師は宅で寝ているかあるいは研究室で勉強していてもいい事になりはしまいか、それでも結構なようでもあるがまたそうではなさそうでもある。こういう仮想的の問題を考えてみた時にわれわれは教育というものの根本義に触れるように思う。
私は蓄音機や活動写真器械で置き換え得られるような講義はほんとうの意味の教育的価値のないものだろうと思っている。もし講義の内容が抜け目なく系統的に正確な知識を与えさえすればいいとならば、何も器械の助けを借りるまでもなくその教師の書いた原稿のプリントなり筆記なりを生徒に与えて読ませれば済む場合もあるわけである。甲の講義を乙が述べてもそれでたくさんなわけである。
しかし多くの人が自らその学校生活の経験を振り返って見た時に、思い出に浮かんで来る数々の旧師から得たほんとうにありがたい貴い教えと言ったようなものを拾い出してみれば、それは決して書物や筆記帳に残っている文字や図形のようなものではなくて、到底蓄音機などでは再現する事のできない機微なあるものである事に気がつくだろう。
これはおそらくだれでも知っている事であろうが、あまりに教育というものを系統的科学的従って機械的な研究の対象とする場合にややもすれば忘られがちな事である。一度これを忘れればすべての教育は蓄音機や活動写真で代用する事ができるようになると同時に、教育の効果はその場限りの知識の商品切手のようなものになる。生徒の生涯を貫ぬいてその魂を導き引き立てるような貴いありがたい影響はどこにもなくなるだろう。
十年一日のごとき講義をするといってよく教師を非難する人が往々ある。しかしそれだけの事実では教師の教師たる価値は論ぜられないと思う。講義の内容の外見上の変化が少なくともその講義の中に流れ出る教師の生きた「人」が生徒に働きかけてその学問に対する興味や熱を鼓吹する力が年とともに加わるという場合もあるかもしれない。これに反して年々に新しく書き改め新事実や新学説を追加しても、教師自身が、漸次に後退しつつある場合も考えられない事はない。この二つの場合のどちらが蓄音機のレコードに適するかを一般的概念的に論断するのは困難ではあるまいか。
蓄音機が完成した暁に望み得られることのうちで私が好ましいと思う一つのものは、あらゆる「自然の音」のレコードである。たとえば山里の夜明けに聞こえるような鶏犬の声に和する谷川の音、あるいは浜べの夕やみに響く波の音の絶え間をつなぐ船歌の声、そういう種類のものの忠実なるレコードができたとすれば、塵の都に住んで雑事に忙殺されているような人が僅少な時間をさいて心を無垢な自然の境地に遊ばせる事もできようし、長い月日を病床に呻吟する不幸な人々の神経を有害に刺激する事なしに無聊を慰め精神的の治療に資する事もできはしまいか。こういう種類のレコードこそあらゆるレコードの中で最も無害で有益でそして最も深い内容をもったものではあるまいか。もしそういうものができたら、私はそれをあらゆる階級の人にすすめたい。為政家が一国の政治を考究する時、社会経済学者がその学説を組み立てる時、教育者がその教案を作製する時、忘れずに少時このレコードの音に耳を傾けてもらいたい。あらゆる心と肉の労働者もその労働の余暇にこれらの「自然の音」に親しんでもらいたい。そういう些細な事でもその効果は思いのほかに大きいものになる事がありはしまいか。少なくもそれによって今の世の中がもう少し美しい平和なものになりはしまいか。
蓄音機に限らずあらゆる文明の利器は人間の便利を目的として作られたものらしい。しかし便利と幸福とは必ずしも同義ではない。私は将来いつかは文明の利器が便利よりはむしろ人類の精神的幸福を第一の目的として発明され改良される時機が到着する事を望みかつ信ずる。その手始めとして格好なものの一つは蓄音機であろう。
もしこの私の空想が到底実現される見込みがないという事にきまれば私は失望する。同時に人類は永遠に幸福の期待を捨てて再びよぎる事なき門をくぐる事になる。
(大正十一年四月、東京朝日新聞)
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