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旅日記から(たびにっきから)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-3 9:03:51  点击:  切换到繁體中文


     十 ミラノからベルリン

五月五日
 七時二十分発ベルリン行きの D-Zug に乗る。うっかりバーゼル止まりの客車へ乗り込んでいたが、車掌に注意されてあわててベルリン直行のに乗り換えた。
 コモやルガノの絵のような湖も見られた。ボートの上にカンバスをかまぼこ形に張ったのが日本の屋根舟よりはむしろ文人画中の漁舟を思い出させた。きれいな小蒸汽が青い水面に八の字なりに長い波を引いてすべって行くのもあった。
 牧場の周囲に板状の岩片を積んだ低い石垣いしがきをめぐらし、出入り口にはターンパイクがこしらえてあった。日当たりのいい山腹にはところどころに葡萄畑ぶどうばたけがある。そして道ばたにマドンナを祭るらしい小祠しょうしはなんとなく地蔵様や馬頭観世音のような、しかしもう少し人間くさい優しみのある趣のものであった。西洋でもこんなものがあるかと思ってたのもしいような気もした。山腹から谷を見おろすと、緑の野にまっ白な道路が真一文字に開かれて、その両側には新緑の並み木が規則正しく並んでいるのが、いかにも整然と片付いた感じを与えるのであった。
 オーストリア人で、日本へ遊びに行った帰りだという童顔白髪の男と話す。富士屋ホテルの案内記のような小冊子をカバンから出して見せたりした。隣席のドイツ人も話しかけて、これから通過する鉄路のループの説明をしてくれたりした。山の腹の中でトンネルが大きな輪を描いていて、汽車は今はいった穴の真上へ出て来るのである。T氏が特に興味をもって根ほり葉ほり聞いていたら、そのループのプランをかいた図面をくれてよこした。
 だんだん山が険しくなって、峰ははげた岩ばかりになり、谷間のもみやレルヘンの木もまばらになり、懸崖けんがいのそこかしこには不滅の雪が小氷河になって凍った滝のようにたれ下がっていた。サンゴタールのトンネルを通ってから食堂車にはいるとまもなくフィヤワルドステッター湖に近づく。湖畔の低い丘陵の丸くなめらかな半腹の草原には草花が咲き乱れ、ところどころにすももやりんごらしい白や薄紅の花が、ちょうど粉でも振りかけたように見える。新緑のあざやかな中に赤瓦あかがわら白壁しらかべの別荘らしい建物が排置よく入り交じっている。そのような平和な景色のかたわらには切り立った懸崖が物すごいような地層のしわを露出してにらんでいたりする。湖の対岸にはまっ黒な森が黙って考え込んでいる。
 ルツェルンも想像のほかに美しかった。ここから先の地形が、なんとなく横浜よこはま大船おおふな間の丘陵起伏の模様と似通っていた。とある農家の裏畑では、若い女が畑仕事をしているのを見つけた。完全に発育している腰から下にすその広がったはかまを着けて、がんじょうなくつをはいてくわをふるっている、下広がりのスタビリティのよい姿は決して見にくいものではなかった。ここに限らず女の農作をしているのを途中でいくらも見かけたが、派手なあざやかなしかし柔らかな着物の色がいずれも周囲の天然によく調和していた。そして遠くから見ると日に焼けた顔の色がどれもこれもまたなんとなく美しく輝いて見えた。このへんの風物に比べると日本のはただ灰色ややに色ばかりであるような気がした。
 バーゼルからいよいよドイツへはいるのである。やっと目ざす国の国境をはいった心持ちには、長い旅から故郷に帰った時のそれに似たものがあった。フォスゲンやシュワルツワルドを遠くに見て、ライン地方の低地を過ぎて行くのである。至るところの緑野にポプラややなぎの並み木がある。日が暮れかかって、平野の果てに入りかかった夕陽は遠い村の寺塔を空に浮き出させた。さびしい野道を牛車に牧草を積んだ農夫がただ一人ゆるゆる家路へ帰って行くのを見たときにはちょっと軽い郷愁を誘われた。カールスルーエからはもうすっかり暗くなって、月明かりはあったが景色は見えなかった。科学を誇る国だけに鉄路はなめらかで、汽車の動揺や振動は少ない。ただ大風のような音を立てて夜のラインランドを下って行った。フランクフルトで十時になった。Rrrreisekissen ! Die Decken ! と呼びあるく売り子の声が広大な停車場の穹状きゅうじょうの屋根に響いて反射していた。そのrの喉音こうおんや語尾の自然な音韻が紛れもないドイツの生粋きっすいの気分を旅客の耳に吹き込むものであった。パンとゆで玉子を買って食う。ここでおおぜい乗り込んだ人々が自分ら二人にいろんな話をしかける。言語がよくわからないと見てとってむやみにゆっくり一語一語を区切って話す老人もあったがそのためにかえってなんの事だかわからなくなるのであった。ヤパンでは男女混浴だというがほんとうかなどと聞いたりした。このいやな老人はまもなく下車する。取って代わって派手な制服を着た男が日本に対するお世辞のような事をいうから、こっちも答礼としてドイツの科学のすぐれている点をあげてやった。服装で軍人かと思ったらフルダの市吏員であった。おりる時に握手して、機会があったら遊びに来いなどと言った。やっと二人きりになったのでそのまま横になって一寝入りする。四時ごろ一人はいって来た客が、自分らが起き上がろうとするのを、ビッテビッテと言って押しとどめて腰掛けのすみのほうへ小さくなって腰かけていた。
五月六日
 目がさめると、もう夜が明けはなれていた。自分ら二人の疲れた眠り足らない目の前に、最初のドイツの朝が目さめていた。ゆるやかに波を打つ地面には麦畑らしい斑点はんてんしまが見え、低い松林が見え、ポプラの並み木が見え、そして小高い丘の頂上には風車小屋があって、その大きな羽根がゆるやかに回転しながら朝日にキラキラしていた。それは自分の頭の中でさまざまな美しい夢と結びつけられているあの風車であった。自分の心は子供のようにおどった。そしてこの風車が何かしらいい事の前兆ででもあるような気がするのであった。
 いつのまにか汽車はくすぶった大都会の裏町を通っていた。そして大きな数階の家の高い窓に干してあるせんたく物が目についたりした。午前七時三十五分にアンハルター停車場に着いた。H氏が迎いに来ていていきなり握手をした。それが西洋くさい事には最も縁の遠い地味なH氏であるだけに、妙な心持ちがしたが、これから自分らが入るべき新しい変わった生活の最初の経験として無意味な事とは思われなかった。ドロシケを雇ってシェーネベルヒの下宿へ行く途中で見たベルリンの家並みは、絵はがきや写真で想像したのに比べて妙に鈍い灰色をしていた。空気がなんとなくかすんだようで、日の光が眠っているようであった。そしてなんとなくさびしく空虚な頭の底によどんでいた長い長い旅の疲労が、今にも流れ出ようとしてすきまを求めていた。

(大正十年四月、渋柿)





底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
   1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
   1997(平成9)年12月15日第81刷発行
入力:田辺浩昭
校正:田中敬三、かとうかおり
2003年6月25日作成
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