二 ホンコンと九竜
夜の八時過ぎに呉淞を出帆した。ここから乗り込んだ青島守備隊の軍楽隊が艫の甲板で奏楽をやる。上のボートデッキでボーイと女船員が舞踊をやっていた。十三夜ぐらいかと思う月光の下に、黙って音も立てず、フワリフワリと空中に浮いてでもいるように。
四月四日
日曜で早朝楽隊が賛美歌を奏する。なんとなく気持ちがいい。十時に食堂でゴッテスディーンストがある。同じ事でも西洋の事は西洋人がやっているとやはり自然でおかしくない。
四月五日
朝甲板へ出て見ると右舷に島が二つ見える。窓ガラスの掃除をしているかわいらしい子供の船員に聞いてみたが島の名もわからない、福州の沖だろうという。
甲板の寝台に仰向きにねて奏楽を聞いていると煙突からモクモクと引っ切りなしに出て来る黒い煙も、舷に見える波も、みんな音楽に拍子を合わせて動いているような気がする。どうも西洋の音楽を聞いていると何物かが断えず一方へ進行しているように思われる。
黒服を着た顔色の赤い中年の保母が、やっと歩きだしたくらいの子供の手を引いて歩いている。そのあとを赫鬚をはやしたこわい顔の男がおもちゃの熊を片手にぶら下げてノソリノソリついて歩く。ドイツ士官が若いコケットと腕を組んで自分らの前を行ったり来たりする。女は通りがかりに自分らのほうを尻目ににらんで口の内で何かつぶやいた、それは Grob ! と言ったように思われた。
四月六日
昨夜雨が降ったと見えて甲板がぬれている。いかめしくとがった岩山が見える。ホンコンと九竜の間の海峡へはいるのだという。山の新緑が美しい。山腹には不規則にいろいろな建物が重なり合って立っている。みんな妙によごれくすんでいるが、それがまたなんとも言われないように美しい絵になっている。それは絵はがきや錦絵の美しさではなくて、どうしても油絵の美しさである。……
植物園では仏桑花、ベコニア、ダリア、カーネーション、それにつつじが満開であった。暑くて白シャツの胸板のうしろを汗の流れるのが気持ちが悪かった。両手を見るとまっかになって指が急に肥ったように感じられた。
ケーブルカーの車掌は何を言っても返事をしないですましていた。話をしてはいけない規則だと見える。急勾配を登る時に両方の耳が変な気持ちになる。気圧が急に下がるからだという。つばを飲み込むと直る。ピークで降りるとドンが鳴った。涼しい風が吹いて汗が収まった。頂上の測候所へ行って案内を頼むと水兵が望遠鏡をわきの下へはさんで出て来ていろいろな器械や午砲の装薬まで見せてくれる、一シリングやったら握手をした。……
夕飯後に甲板へ出て見るとまっ黒なホンコンの山にはふもとから頂上へかけていろいろの灯がともって、宝石をちりばめた王冠のようにキラキラ光っている。ルビーやエメラルドのような一つ一つの灯は濃密な南国の夜の空気の奥にいきいきとしてまたたいている。こんな景色は生まれて始めて見るような気がする。……シナ人が籐寝台を売りに来たのを買って涼みながらT氏と話していると、浴室ボーイが船から出かけるのを見たから頼んで絵はがきを出してもらう。桟橋へあやしげな小船をこぎよせる者があるから見ていると盛装したシナ婦人が出て来た。白服に着かえた船のボーイが桟橋の上をあちこちと歩いている。白のエプロンをかけた船のナースがシェンケでポルト酒かなにかもらってなめている。例のドイツ士官のコケットもきょうは涼しそうに着かえて歩きまわっている。
四月七日
朝食後に上陸して九竜を見に行く。……海岸に石切り場がある。崖の風化した柔らかい岩の中に花崗石の大きな塊がはまっているのを火薬で割って出すらしい。石のくずを方七八分ぐらいに砕いて選り分けている。これを道路に敷くのだと見えて蒸気ローラーが向こうに見える。その煙突からいらだたしくジリジリと出る煙を見ても暑くて喉がかわく。道ばたを見るとそら色の朝顔が野生していた。……
美しい緑の草原の中をまっかな点が動いて行くと思ったらインド人の頭巾であった。……町の並み木の影でシナの女がかわいい西洋人の子供を遊ばしている。その隣では仏桑花の燃ゆるように咲き乱れた門口でシャツ一つになった年とった男が植木に水をやっていた。
測候所の向かいは兵営で、インド人の兵隊が体操をやっている。運動場のすみの木陰では楽隊が稽古をやっているのをシナ人やインド人がのんきそうに立って聞いている。そのあとをシナ人の車夫が空車をしぼって坂をおりて行く。
船へ帰ると二等へ乗り込むシナ人を見送って、おおぜいの男女が桟橋に来ていた。そしていかにもシナ人らしくなごりを惜しんでいるさまに見えた。中には若い美しい女もいた。そしてハンケチや扇にいろいろの表情を使い分けて見せるのであった。十二時過ぎに出帆するとき見送りの船で盛んに爆竹を鳴らした。
甲板へズックの日おおいができた。気温は高いが風があるのでそう暑くはない。チョッキだけ白いのに換える。甲板の寝椅子で日記を書いていると、十三四ぐらいの女の子がそっとのぞきに来た。黒んぼの子守がまっかな上着に紺青に白縞のはいった袴を着て二人の子供を遊ばせている。黒い素足のままで。
ホンコンから乗った若いハイカラのシナ人の細君が、巻煙草をふかしていた。夫もふかしていた。
(大正九年七月、渋柿)
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