九 歯
父は四十余歳ですでに総入れ歯をしたそうである。総入れ歯の準備として、生き残った若干の歯を一度に抜いてしまったそのあとで顔じゅうふくれ上がって幾日も呻吟をつづけたのだそうである。歯科医術のまだ幼稚な明治十年代のことであるからずいぶん乱暴な荒療治であったことと想像される。
自分も、親譲りというのか、子供の時分から歯性が悪くてむし歯の痛みに苦しめられつづけて来た。十歳ぐらいのころ初めて歯医者の手術椅子一名拷問椅子(torture-chair)にのせられたとき、痛くないという約束のが飛び上がるほど痛くて、おまけにそのあとの痛みが手術前の痛みに数倍して持続したので、子供心にひどく腹が立って母にくってかかり、そうしてその歯医者の漆黒な頬髯に限りなき憎悪を投げつけたことを記憶している。コカイン注射などは知られない時代であったのである。おかしいことには、その時の手術室の壁間に掲げてあった油絵の額が実にはっきり印象に残っている。当時には珍しいボールドなタッチでかいた絵で、子供をおぶった婦人が田んぼ道を歩いている図であった。激烈な苦痛がその苦痛とはなんの関係もない同時的印象を記憶の乾板に焼き付ける放射線のように作用する、という奇妙な現象の一例かもしれない。
徴兵検査のときに係りの軍医が数えて帳面に記入したむし歯の数が自分のあらかじめ数えて行った数よりずっと多かったのでびっくりした。それが徴兵検査であっただけにそのびっくりはかなり複雑な感情の笹縁をつけたびっくりであったのである。
とうとう前歯までがむしばまれ始めた。上のまん中の二枚の歯の接触点から始まった腐蝕がだんだんに両方に広がって行って歯の根もとと先端との間の機械的結合を弱めた。そうして、いつかどこかでごちそうになったときに出された吸い物の椎茸をかみ切った拍子にその前歯の一本が椎茸の茎の抵抗に負けてまん中からぽっきり折れてしまった。夏目漱石先生にその話をしたらひどく喜ばれてその事件を「吾輩は猫である」の中の材料に使われた。この小説では前歯の欠けた跡に空也餅が引っかかっていたことになっているが、そのころ先生のお宅の菓子鉢の中にしばしばこの餅が収まっていたものらしい。とにかく、この記事のおかげで自分の前歯の折れたのが二十八歳ごろであったことが立派に考証されるのである。立派なものがつまらぬ事の役に立つ一例である。
それほどになる以前にも、またその後にも、ほとんど不断に歯痛に悩まされていたことはもちろんである。早く歯医者にかかって根本的治療をすればよかったわけであるが、子供の時に味わった歯医者への恐怖がいつまでも頭に巣食っていたのと、もう一つには自分がその後に東京で出会った歯医者があまりぐあいのよくなかったのと両方のせいであったか、歯医者の手術台に乗っかっていじめられるよりはひとりで痛みを我慢しているほうがまだましだという気がしていたものらしい。上京後にかかったY町のXという歯医者は朝九時に来いというので正直に九時に行って待っていてもなかなか二階の手術室へ姿を見せないで一時間は大丈夫待たせる。しかし階下ではちゃんと先生の声がしていて、それがたいていいつも細君だか女中だかにはげしい小言を浴びせかける声であった。やっとの思いで待ちおおせて手術を受ける時間は五分か十分である。そうして短くても一週間は通って毎日このとおりのことを繰り返さなければならないのであった。手術料は毎回払いであったが、いつも先生自身で小さな手さげ金庫の文字錠をひねっておつりを出してくれたのが印象に残っている。
西洋へ行く前にどうしても徹底的にわるい歯の清算をしておく必要があるのでおおよそ半月ほど毎日○○病院に通った。継ぎ歯、金冠、ブリッジなどといったような数々の工事にはずいぶんめんどうな手数がかかった。抜歯も何本か必要であったが、昔とちがってコカインのおかげでたいした痛みはなかった。ただし、左の下あごの犬歯の根だけ残っていたのが容易に抜けないので、がんじょうな器械を押し当ててぐいぐいねじられたときは顎骨がぎしぎし鳴って今にも割れるかと思うようで気持ちが悪かった。手術がすんだら看護婦が葡萄酒を一杯もって来て飲まされ、二三十分椅子にもたれたまま休息することを命ぜられた。自分はそれほどに思わなかったが脳貧血の兆候が顔に現われたものと見える。この時に全部の手術を受け持ってくれたF学士に抜歯術に関する力学的解説を求められたので、大判洋紙五六枚に自分の想像説を書きつけてさし出したのであった。それはいいかげんなものであったろうが、しかしこうした方面にも力学の応用の分野があることを知って愉快に思った。
いよいよ西洋へ出発となって神戸まで行ったらあす船に乗るという日に、もう前歯の前面に取り付けた陶器の歯が後面の金板から脱落した。あわてて神戸の町を歩いて歯医者を捜してやっと応急取り付け法を講じてもらったが、ベルリンへ着いてまもなくまたいけなくなった。その時かかったドイツの医者は、細工はなんとなく不器用であったが、しかしその修理法がいかにも合理的で、一時の間に合わせでなくて長持ちのするような徹底的のものであるのに感心した。その歯医者が、治療した歯の隣の歯を軽くつついてそれがゆらゆら動くのを見つけて驚いたような顔をした。そうしてうやうやしく直立不動の姿勢を取り、それから両肩をすぼめておいて両方の手のひらをぱっと開いて前方に向け、首を傾けてじっと自分の顔を見つめるという表情法の実演をして見せてくれた。物を言わないで物を言うよりも多くを相手に伝えるこの西洋流のしぐさは、なんでもこくめいに言葉で言い現わしたがるドイツ人には珍しいと思われた。
西洋から帰ってY町に住まってからも歯はだんだん悪くなるばかりであった。ある年の暮れから正月へかけてひどく歯が痛むのを我慢して火燵にあたりながらベルグソンを読んだことがある。その因縁でベルグソンと歯痛とが連想で結びつけられてしまった。彼の「笑い」までが歯痛の連想に浸潤されてしまったのである。
その後偶然にたいへんに親切で上手でぐあいのいい歯医者が見つかってそれからはずっとその人にやっかいになって来たが、先天的の悪い素質と後天的不養生との総決算で次第にかんで食えるものの範囲が狭くなって来た。柔らかい牛肉も魚のさし身もろくにかめなくなり、おしまいには米の飯さえ満足に咀嚼することが困難になったので、とうとう思い切って根本的に大清算を決行して上下の入れ歯をこしらえたのが四十余歳のころであった。上あごの硬口蓋前半をぴったりふたをしてしまった心持ちはなんとも言えない不愉快なものである。しかし入れ歯のできあがった日に、試みに某レストランの食卓についてまず卓上の銀皿に盛られたナンキン豆をつまんでばりばりと音を立ててかみ砕いた瞬間に不思議な喜びが自分の顔じゅうに浮かび上がって来るのを押えることができなかった。義歯もたしかに若返り法の一つである。
入れ歯と言ってもはじめは下の前歯と右の犬歯だけはまだ残っていたのが長い間にはだんだんにそれもいけなくなり最後には犬歯一本を残した総入れ歯になってしまった。その最後の木守りの犬歯がとうとうひとりでふらふらと抜け出したときはさすがにさびしかった。その抜けた跡だけ穴のあいた入れ歯をはめたままで今日に至っている。
父はきげんのよくない時総入れ歯を舌ではずしてくちびるの間に突き出したり引っ込ませたりする癖があった。自分も総入れ歯をしてみてはじめて父のこの癖の意味がわかったような気がする。実際気持ちの不愉快なときは、平生でもとかく気になる入れ歯がよけいに気になりだす。歯ぐきや硬口蓋への圧迫から来る不快の感覚が精神的不快の背景の前に異常に強調されて来るらしい。覚えず舌で入れ歯を押しはずして押し出そうとする。これは不愉快なときにつばを吐きたくなるのと同じような生理的心理的現象かもしれない。しかし入れ歯は吐き出して捨てるわけに行かないから引っ込ませてはめ込む。どうも不愉快だからまた吐き出す。
入れ歯を作ってもらってから長くなると歯ぐきが次第に退化して来るためか、どうも接触が密でなくなる。その結果は上あごの入れ歯がややもすると脱落しやすくなる。自分の場合には、妙なことには何か少し改まって物を言おうとすると自然にそれがたれ落ちそうになる。たとえば講演でもしようとして最初の言葉を言おうとするときにきっと上の入れ歯が自然にぽたりと落下して口をふさごうとするのである。緊張のために口の中のどこかがどうにか変形するためらしい。いやな気持ちがあごをゆがめるのかもしれない。
入れ歯と歯ぐきとの接触の密なことは紙一重のすきまも許さないくらいのものらしい。どこかが少しきつく当たって痛むような場合に、その場所を捜し見つけ出してそこを木賊でちょっとこするとそれだけでもう痛みを感じなくなる。それについて思い出すのは次の実話である。スクラインの「シナ領中央アジア」という本の中にある。
東トルキスタンのヤルカンドにミッション付きの歯医者がいた。この人の所へある日遠方の富裕な地主イブラヒム・ベグ・ハジからの手紙をもった使いが来て、「入れ歯を一そろい作ってこの使いの者に渡してくれ」とのことであった。そこで歯医者は返事をかいて、「口中をよく拝見した上でないと入れ歯はできないから御足労ながら当地までおいで願いたい」と言ってやった。するとまた使いに手紙を持たせて、「御案内誠にかたじけない。お言葉に甘えて老僕イシャク・バイをつかわす。この男の口中の格好はだいたい自分のと同様である。もっともこの男には歯が一本もないが自分には上の左の犬歯が一本残っている。それでこの男の口に合うようにして、ただし犬歯の所だけ明けておいてくれ」と言って来た。医者のほうでは「それはどうもできかねる」ということになって、それでこの珍奇な交渉は絶えてしまった。その後この歯医者がカシュガルに器械持参で出かけるついでの道すがらわざわざこのイブラヒム老人のためにその居村に立ち寄って、かねての話の入れ歯を作ってやろうと思った。老人を手術台にのせて口中を検査してみると、残った一本の歯というのがもうすっかりむしばんでぶらぶらになっていた。そこでそれを抜こうとしたが老人頑としてどうしても承知しない。結局「アルラフの神のおぼしめしじゃ、わしは御免こうむる。さようなら」と言って、それっきりで事件が終結した。ほんとうのおはなしである。
それはとにかく、自分たち平生科学の研究に従事しているものが全然専門の知識に不案内な素人からいろいろの問題について質問を受けて答弁を求められる場合に、どうかすると時々ちょうどこのヤルカンドの歯医者の体験したのとよく似た困難を体験することがある。
それからまた○○などで全国の科学研究機関にサーキュラーを発して、数々のかなり漠然たる研究題目とそれに対して支給すべき零細の金額とを列挙してそれらの問題の研究引受人を募ることがあるようであるが、あれなどもやはりこのイブラヒム老人の入れ歯の注文とどこか一脈相通ずるところがあるような気がするのである。実際具体的な目的の詳細にわからない注文にぴったりはまるような品物を向けることは不可能である。
もっともそう言えば結婚でも就職でも、よく考えてみればみんなイシャクの入れ歯をイブラヒムの口にはめて、そうして歯ぐきがそれにうまく合うように変形するまで我慢できるかできないかを試験するようなものかもそれはわからないのである。
話は変わるが、歯は「よわい」と読んで年齢を意味する。アラビア語でも sinn というのは歯を意味しまた年齢をも意味する。「シ」と「シン」と音の似ているのも妙である。とにかく歯は各個人にとってはそれぞれ年齢をはかる一つの尺度にはなるが、この尺度は同じく年を計る他の尺度と恐ろしくちぐはぐである。自分の知っている老人で七十余歳になってもほとんど完全に自分の歯を保有している人があるかと思うと四十歳で思い切りよく口腔の中を丸裸にしている人もある。頭を使う人は歯が悪くなると言って弁解するのは後者であり、意志の強さが歯に現われるというのは前者である。
同じ歯の字が動詞になると「天下恥与之歯」におけるがごとく「肩をならべて仲間になる」という意味になる。歯がずらりと並んでいるようにならぶという譬喩かと思われる。並んだ歯の一本がむしばみ腐蝕しはじめるとだんだんに隣の歯へ腐蝕が伝播して行くのを恐れるのであろう。しかし天下の歯がみんなむし歯になったらこんな言葉はもういらなくなる勘定であろう。
歯の役目は食物を咀嚼し、敵にかみつき、パイプをくわえ、ラッパの口金をくちびるに押しつけるときの下敷きになる等のほかにもっともっと重大な仕事に関係している。それはわれわれの言語を組み立てている因子の中でも最も重要な子音のあるものの発音に必須な器械の一つとして役立つからである。これがないとあらゆる歯音が消滅して言語の成分はそれだけ貧弱になってしまうであろう。このように物を食うための器械としての歯や舌が同時に言語の器械として二重の役目をつとめているのは造化の妙用と言うか天然の経済というか考えてみると不思議なことである。動物の中でもたとえばこおろぎや蝉などでは発声器は栄養器官の入り口とは全然独立して別の体部に取り付けられてあるのである。だから人間でも脇腹か臍のへんに特別な発声器があってもいけない理由はないのであるが、実際はそんなむだをしないで酸素の取り入れ口、炭酸の吐き出し口としての気管の戸口へ簧を取り付け、それを食道と並べて口腔に導き、そうして舌や歯に二役掛け持ちをさせているのである。そうして口の上に陣取って食物の検査役をつとめる鼻までも徴発して言語係を兼務させいわゆる鼻音の役を受け持たせているのである。造化の設計の巧妙さはこんなところにも歴然とうかがわれておもしろい。
こおろぎやおけらのような虫の食道には横道に
嚢のようなものが付属しているが、食道直下には「咀嚼胃」と名づける袋があってその内側にキチン質でできた歯のようなものが数列縦に並んでいる。この「歯」で食物をつッつきまぜ返して消化液をほどよく混淆させるのだそうである。ここにも造化の妙機がある。またある虫ではこれに似たもので濾過器の役目をすることもあるらしい。
もしかわれわれ人間の胃の中にもこんな歯があってくれたら、消化不良になる心配が減るかとも思われるが、造化はそんなぜいたくを許してくれない。そんな無稽な夢を描かなくても、科学とその応用がもっと進歩すれば、生きた歯を保存することも今より容易になり、また義歯でも今のような不完全でやっかいなものでなくてもっと本物に近い役目をつとめるようなものができるかもしれない。しかし一つちょっと困ったことには若くて有為な科学者はたぶん入れ歯の改良などには痛切な興味を感じにくいであろうし、そのような興味を感じるような年配になると肝心の研究能力が衰退しているということになりそうである。
年をとったら歯が抜けて堅いものが食えなくなるので、それでちょうどよいように消化器のほうも年を取っているのかもしれない。そう考えるとあまり完全な義歯を造るのも考えものであるかもしれない。そうだとすると、がたがたの穴のあいた入れ歯で事を足しておくのも、かえって造化の妙用に逆らわないゆえんであるかもしれないのである。下手な片手落ちの若返り法などを試みて造化に反抗するとどこかに思わぬ無理ができて、ぽきりと生命の屋台骨が折れるようなことがありはしないか。どうもそんな気がするのである。
十 うじの効用
虫の中でも人間に評判のよくないものの随一はうじである。「うじ虫めら」というのは最高度の軽侮を意味するエピセットである。これは彼らが腐肉や糞堆をその定住の楽土としているからであろう。形態的にははちの子やまた蚕ともそれほどひどくちがって特別に先験的に憎むべく賤しむべき素質を具備しているわけではないのである。それどころか彼らが人間から軽侮される生活そのものが実は人間にとって意外な祝福をもたらすゆえんになるのである。
鳥やねずみや猫の死骸が道ばたや縁の下にころがっているとまたたく間にうじが繁殖して腐肉の最後の一片まできれいにしゃぶり尽くして白骨と羽毛のみを残す。このような「市井の清潔係」としてのうじの功労は古くから知られていた。
戦場で負傷した傷に手当をする余裕がなくて打っちゃらかしておくと化膿してそれにうじが繁殖する。そのうじがきれいに膿をなめ尽くして傷が癒える。そういう場合のあることは昔からも知られていたであろうが、それが欧州大戦以後特に外科医のほうで注意され問題にされ研究されて、今日では一つの新療法として特殊な外科的結核症や真珠工病などというものの治療に使う人が出て来た。こうなると今度はそれに使うためのうじを飼育繁殖させる必要が起こって来るのでその方法が研究される事になる。現に昨一九三四年のナツーアウィッセンシャフテン第三十一号に、その飼育法に関する記事が掲載されていたくらいである。
うじがきたないのではなくて人間や自然の作ったきたないものを浄化するためにうじがその全力を尽くすのである。尊重はしても軽侮すべきなんらの理由もない道理である。
うじが成虫になってはえと改名すると急に性が悪くなるように見える。昔は五月蠅と書いてうるさいと読み昼寝の顔をせせるいたずらものないしは臭いものへの道しるべと考えられていた。張ったばかりの天井に糞の砂子を散らしたり、馬の眼瞼を舐めただらして盲目にするやっかいものとも見られていた。近代になってこれが各種の伝染病菌の運搬者播布者としてその悪名を宣伝されるようになり、その結果がいわゆる「はえ取りデー」の出現を見るに至ったわけである。著名の学者の筆になる「はえを憎むの辞」が現代的科学的修辞に飾られてしばしばジャーナリズムをにぎわした。
しかしはえを取り尽くすことはほとんど不可能に近いばかりでなく、これを絶滅すると同時にうじもこの世界から姿を消す、するとそこらの物陰にいろいろの蛋白質が腐敗していろいろの黴菌を繁殖させその黴菌は回り回ってやはりどこかで人間に仇をするかもしれない。
自然界の平衡状態は試験管内の化学的平衡のような簡単なものではない。ただ一種の小動物だけでもその影響の及ぶところは測り知られぬ無辺の幅員をもっているであろう。その害の一端のみを見て直ちにその物の無用を論ずるのはあまりに浅はかな量見であるかもしれない。
はえが黴菌をまき散らす、そうしてわれわれは知らずに年じゅう少しずつそれらの黴菌を吸い込み飲み込んでいるために、自然にそれらに対する抵抗力をわれわれのからだじゅうに養成しているのかもしれない。そのおかげで、何かの機会にはえ以外の媒介によって多量の黴菌を取り込んだときでもそれに堪えられるだけの資格が備わっているのかもしれない。換言すればはえはわれわれの五体をワクチン製造所として奉職する技師技手の亜類であるかもしれないのである。
これはもちろん空想である。しかしもしはえを絶滅すると言うのなら、その前に自分のこの空想の誤謬を実証的に確かめた上にしてもらいたいと思うのである。
あえてはえに限らず動植鉱物に限らず、人間の社会に存するあらゆる思想風俗習慣についてもやはり同じようなことが言われはしないか。
たとえば野獣も盗賊もない国で安心して野天や明け放しの家で寝ると風邪をひいて腹をこわすかもしれない。○を押えると△があばれだす。天然の設計による平衡を乱す前にはよほどよく考えてかからないと危険なものである。
十一 毛ぎらい
子供の時から毛虫や芋虫がきらいであった。畑で零余子を採っていると突然大きな芋虫が目について頭から爪先までしびれ上がったといったような幼時の経験の印象が前後関係とは切り離されてはっきり残っているくらいである。
芋虫などは人間に対して直接にはなんらの危害を与えるものでもなし、考えようではなかなかかわいいまた美しい小動物であるのに、どうしてこれが、この虫に対しては比較にならぬほど大きくて強い人間にこうした畏怖に似た感情を吹き込むかがどうしてもわからない。
何かしら人間の進化の道程をさかのぼった遠い祖先の時代の「記憶」のようなものがこの理由不明の畏怖嫌忌と結びついているのではないかという疑いが起こし得られる。猿や鳥などが、その食料とするいろいろの昆虫の種類によって著しい好ききらいがあって、その見分けをある程度までは視覚によってつけるらしいということが知られている。それでたとえばわれらの祖先のある時代に芋虫や毛虫を食ってひどい目に会ったという経験が蓄積しそれが遺伝した結果ではないかという気もするが、そうした経験の記憶が遺伝しうるものかどうか自分は知らない。ただそんなことでも考えなければちょっと他に説明の可能性が考えられないではないかと思われる、それほどにこの嫌忌の起原が自分には神秘的に思われるのである。
蛙をきらいこわがる人はかなりたくさんある。それから蜘蛛や蟹をきらう人も知人のうちにある。昔からの言い伝えでは胞衣を埋めたその上の地面をいちばん最初に通った動物がきらいになるということになっている。なるほど上にあげた小動物はいずれも地面の上を爬行する機会をもっているから、こういう俗説も起こりやすいわけであろうが、この説明は科学的には今のところ全然問題にならない。所を異にした胞衣とそのもとの主との間につながる感応の糸といったようなものは現在の科学の領域内に求め得られるはずはないからである。
ことによると、この「嫌忌の遺伝」は、正当の意味での遺伝として生殖細胞のクロモソームを通して子孫に伝わるのでなくして、むしろ「教育の効果」として伝わるのかもしれない。われわれのまだ物心のつかないような幼時に、母親とか子守りとかといっしょにいた時に、偶然それらの動物を目撃してそれを意識した、その同じ瞬間にその保護者なる母なり子守りなりが、ひどく恐怖の表情を示したとすると、そのときの劇動が子供を驚かせおびえさせ、その恐怖の強烈な印象経験がその動物の視像と連想的に固く結びついてしまった、と考えると一応はもっともらしく聞こえる。この仮説は非常なめんどうさえいとわなければ多くの実例について一々調査した上で当否を確かめ得られるであろうと思われる。
それにしてもまだどうにも説明のできないと思われるのは、自分の場合における次の実例である。
梨の葉に病気がついて黄色い斑紋ができて、その黄色い部分から一面に毛のようなものが簇生することがある。子供の時分からあれを見るとぞうっと総毛立って寒けを催すと同時に両方の耳の下からあごへかけた部分の皮膚がしびれるように感ずるのであった。
それから少しきたない話ではあるが、昔田舎の家には普通に見られた三和土製円筒形の小便壺の内側の壁に尿の塩分が晶出して針状に密生しているのが見られたが、あれを見るときもやはり同様に軽い悪寒と耳の周囲の皮膚のしびれを感ずるのであった。
梨の葉の病の場合はあるいは毛虫などとの類似から来る連想によるかもしれないが、後の針状結晶と毛虫とでは距離があまりに大き過ぎるようである。むしろありまきやうじや蚤などのようなものが群集したところを連想するのかもしれない。そうしたものが自分の皮膚にとりついていると想像すればぞっとするのは当然かもしれない。
こんなふうに虫やそれに類したものに対する毛ぎらいはどうやら一応の説明がこじつけられそうな気がするが、人と人との間に感じる毛ぎらいやまたいわゆるなんとなく虫が好く好かないの現象はなかなかこんな生やさしいこじつけは許さないであろう。ただもし非常な空想をたくましくすることを許されるとすれば、自分はここにも何か遺伝学的、優生学的、生理学的な説明が試み得られそうな気がする。ただ気がするだけでまだ具体的な材料を収集することができない。
それはとにかく、年を取るに従っていろいろな毛ぎらいがだんだんにその強度を減じてくることは事実である。そうして同時に好きなものへの欲望も減少し、結局自分の中の「詩の世界」の色彩があせてくることもたしかである。
「毛ぎらい」と「詩」と「ホルモン」とは「三位一体」のようなものかもしれないのである。
(昭和十年三月、中央公論)
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