五 百貨店の先祖
百貨店の前身は勧工場である。新橋や上野や芝の勧工場より以前には竜の口の勧工場というのがあって一度ぐらい両親につれられて行ったような茫とした記憶があるが、夢であったかもしれない。それはとにかく、その勧工場のもう一つ前の前身としては浅草の仲見世や奥山のようなものがあり、両国の橋のたもとがあり、そうして所々の縁日の露店があったのだという気がする。田舎では鎮守の祭りや市日の売店があった。西洋でもおそらく同様であったろうと想像される。ドイツやフランスの田舎の町の「市」の光景は実によく自分の子供のころの田舎の市のそれと似かよったものをもっていたようである。
子供の時分にそうした市の露店で買ってもらった品々の中には少なくも今のわれわれの子供らの全く知らないようなものがいろいろあった。
肉桂の根を束ねて赤い紙のバンドで巻いたものがあった。それを買ってもらってしゃぶったものである。チューインガムよりは刺激のある辛くて甘い特別な香味をもったものである。それから肉桂酒と称するが実は酒でもなんでもない肉桂汁に紅で色をつけたのを小さなひょうたん形のガラスびんに入れたものも当時のわれわれのためには天成の甘露であった。
甘蔗のひと節を短刀のごとく握り持ってその切っ先からかじりついてかみしめると少し青臭い甘い汁が舌にあふれた。竹羊羹というのは青竹のひと節に黒砂糖入り水羊羹をつめて凝固させたものである。底に当たる節の隔壁に錐で小さな穴を明けておいて開いた口を吸うと羊羹の棒がなめらかに抜け出して来る、それを短く歯でかみ切って食う、残りの円筒形の羊羹はちょっと吹くとまた竹筒の底に落ち着くのである。また吸い出しては食い切る。きたないと言えばきたないが、しかしそこには一種の俳諧があった。つい近ごろどこかのデパートでこれと同じものを見つけたが食ってはみなかった。おそらく四十年前の味は求められないであろう。
おもちゃではポペンというものが一時流行した。首の長いガラスのフラスコの底板を思い切り薄くして少しの曲率をもたせて彎曲させたものである。その首を口にふくんで適当な圧力で吹くと底のガラスの薄板がポンという音を立ててその曲率を反転する。逆に吸い込むとペンと言ってもとの向きに彎曲する。吹くのと吸うのを交互に繰り返すと、ポペン/\/\というふうな音を出す。吹き方吸い方が少し強すぎるとすぐに底が割れてしまう。いわゆるその「呼吸」がちょっとむつかしい。これを売っている露店商は特製特大の赤ん坊の頭ぐらいのを空に向けてジャンボンジャンボンと盛んに不思議な騒音を空中に飛散させて顧客を呼んだものである。実に無意味なおもちゃであるがしかしハーモニカやピッコロにはない俳味といったようなものがあり、それでいて南蛮的な異国趣味の多分にあるものであった。
むきになって理屈を言ってる鼻の先へもって来てポペンポペンとやられると、あらゆる論理や哲学などが一ぺんに吹き散らされるところに妙味があったようにも思われる。
(昭和十年一月、中央公論)
六 干支の効用
去年が「
甲戌」すなわち「
木の
兄の
犬の年」であったからことしは「
乙亥」で「
木の
弟の
猪の年」になる勘定である。こういう昔ふうな年の数え方は今ではてんで相手にしない人が多い。モダーンな日記帳にはその年の
干支など省略してあるのもあるくらいである。実際
丙午の女に関する迷信などは全くいわれのないことと思われるし、
辰年には火事や暴風が多いというようなこともなんら科学的の根拠のないことであると思われるが、しかしこれらは干支の算年法に付帯して生じた迷信であって、そういう第二義的な弊が伴なうからと言って干支の使用が第一義的に不合理だという証拠にはならない。昔から長い間これが使われて来たのはやはりそれだけの便利があったからである。
十と十二の最小公倍数は六十であるから十干十二支の組み合わせは六十年で一週期となる。この数は二、三、四、五、六のどれでも割り切れるから、一年おきの行事でも、三年に一度の万国会議でも、四年に一度のオリンピアードでも、五年六年に一度の祭礼でも六十年たてばみんな最初の歩調をとり返すのである。その六十年はまたほぼ人間の一週期になるのである。
人間の
生涯でも六十年前の自分と六十年後の自分とはまず別人であり、世間の状態でも六十年たてばもう別の世界である。この前の乙亥は明治八年であるが、もしどこかに、乙亥の年に
西郷隆盛が何かしたという史実の記録があれば、それは確実に明治八年の出来事であって、昭和十年でもなくまた文化十二年でもないことが明白である。
明治八年とだけでは場合によってはずいぶん心細いことがある。活字本だと、もしか九年の誤植であるかもしれない。
隆盛はとにかく、事がらによっては十八年の十が脱落したという可能性もある。しかし明治八
乙亥とあればまず八年に間違いはないのである。年数と
干支が全部合理的につじつまを合わせて、念入りに誤植されるという偶然の確率はまず事実上零に近いからである。
それだから年号と年数と干支とを併記して
或る特定の年を確実不動に指定するという手堅い方法にはやはりそれだけの長所があるのである。
為替や手形にデュープリケートの写しを添えるよりもいっそう手堅いやり方なのである。
年の干支と同様に日の干支でもこれを添えることによって日のアイデンティフィケーションがほとんど無限大の確実さを加える。これに七曜日を添えればなおさらである。たとえば
甲子の日曜日は一年に一つあることとないこととあるのである。
干支を廃し、おまけに七曜も廃するか、あるいはある人たちの主張するように毎年の同月日を同じ日曜にしてしまうというしかたは、一見合理的なようで実は存外そうでないかもしれない。
机や
椅子の足は何も四本でなくても三本でちゃんと役に立つ、のみならず四本にするとどれか一本は遊んでいて安定位置が不確定になる恐れがあるというのは物理学初歩で教わることである。しかしその合理的な三本足よりも不合理な四本足が最も普通に行なわれているのは何ゆえであろうか。この問題はあまり簡単ではないが、ともかくも四本の一本がまさかのときの用心棒として平時には無用の長物という不名誉の役目を引き受けているのであろう。
数の勘定には十進法の数字だけあればそれでよいというのは、言わば机の三本足を使う流儀であって、これに一見無用な干支を添えるのは用心棒を一本足した四本足を採用する筆法である。むだはむだでも有用なむだであるとも言われる。
十進法というのは言わば単式の数え方であって十干だけを用いると同等である。甲を一、乙を二、丙を三と順々に置き換えてしまえば、たとえば二十三と言う代わりに乙丙と言っても文字がめんどうなだけで理屈は同じである。これに反して
干支法は言わば複式の数え方で、十進法と十二進法との特殊な結合である。
甲子を一とし
乙丑を二とすれば
甲戌は十一であり
丙子は十三になる、少しめんどうなだけに、それだけの長所はあるのである。
おもしろいことには、偶然ではあろうが、太陽黒点の週期が約十一年であって、これが十干の十年と十二支の十二年との中間に当たっている。それで、太陽黒点と関係のあるらしい週期的な気象学的あるいは気候学的現象の異同が自然に干支と同じような週期性を示すことがしばしば起こりうるわけである。たとえばある特定の地方である「水の
兄」の年に偶然水害があった場合に、それから十一年後の「水の
弟」の年に同じような水害の起こる確率が相当多いという事もあるかもしれない。ある
辰年の冬ある地方がひどく乾燥でそのために大火が多かったとして、次の辰年にも同様な乾燥期が来るということには、単なる偶然以外に若干の気候週期的な
蓋然率が期待されないこともない。
気候の変化が人間の生理にも若干の影響があるかもしれないとすると、それが胎児の特異性に多少の効果を印銘することが全然ないとも限らないし、そうなると生まれ年の干支とその人の特性とが、少なくもある期間については多少の相関を示す場合がないとも言われないような気がして来るのである。もちろんこれは大風が吹いて
桶屋が喜ぶというのと同じ論法ではあるが、そうかと言ってそういうことが全然ないということの証明もまたはなはだ困難であることだけは確かである。証明のできない言明を
妄信するのも実はやはり一種の迷信であるとすれば、干支に関するいろいろな古来の口碑もいつかはまじめに吟味し直してみなければならないと思われるのである。
七 灸治
子供の時分によくお
灸をすえると言っておどされたことがある。今のわれわれの子供にはもうお灸が何だか知らないのが多いようである。もぐさを見たことのない子供も少なくないであろう。お灸がいかなるものであるかを説明してやると驚いているようである。
小さい時分にはおどされるだけでほんとうにすえられたことはなかったようである。水泳などに行って友だちや先輩の背中に妙な
斑紋が規則正しく並んでいて、どうかするとその内の一つ二つの
瘡蓋がはがれて大きな穴が明き、中から
血膿が顔を出しているのを見て気味の悪い思いをした記憶がある。見るだけで自分の背中がむずむずするようであった。なんのためにわざわざこんないやなことをするのか了解できなかった。十二三歳のころ病身であったために、とうとう「ちりけ」のほかに五つ六つ肩のうしろの背骨の両側にやけどの跡をつけられてしまった。なんでもいろいろのごほうびの交換条件で納得させられたものらしい。
大学の二年の終わりに病気をして一年休学していた間に「片はしご」というのをおろしてくれたのが近所の国語の先生の奥さんであった。家伝の名灸でその秘密をこの年取った奥さんが伝えていたのである。なんでも
紙撚だったか
藁きれだったか忘れたが、それでからだのほうぼうの寸法を計って、それから割り出して
灸穴をきめるのであるが、とにかく
脊柱のたぶん右側に上から下まで、首筋から
尾
骨までたしか十五六ほどの灸穴を決定する。それに、はじめは一度に三つずつ一週間後から五つずつというふうにだんだんすえる数を増して行って、おしまいには二十ぐらいずつすえるのである。なかなかここいらは合理的である。
上から下へだんだんにすえて行くと痛さの種類がだんだんに少しずつ変わって行くのが妙である。上のほうのは言わば乾性、あるいは男性的の痛さで少し肩に力を入れて力んでいればなんでもないが腰のほうへ下がって行くと痛さが湿性あるいは女性的になって、かゆいようなくすぐったいような泣きたいような痛さになる。動かすまいと思っても腰をひねらないではいられないような気持ちがする。同じ刺激に対する感覚が皮膚の部分によって違うのはこれに限らない事ではあるが、このはしご
灸などは一つのおもしろい実験である。ただその感覚の段階的変化を表示する尺度がまだ発見されていないのは残念である。
そのころの郷里には「切りもぐさ」などはなかったらしく、紙袋に入れたもぐさの
塊から一ひねりずつひねり取っては付けるから
下手をやると大小ならびにひねり方の剛柔の異同がはなはだしく、すえられるほうは見当がつかなくて迷惑である。母は非常にこれが
上手で粒のよくそろったのをすえてくれた。一つは母の慈愛がそうさせたであろう。女中などが代わると、どうかするとばかに大きいのや堅びねりのが交じったり、線香の先で火のついたのを引き落として背中をころがり落とさせたりして、そうしてこっちが驚いておこるとよけいにおもしろがってそうするのではないかという
嫌疑さえ起こさせるのであった。
南国の真夏の暑い真盛りに庭に面した風通しのいい座敷で背中の風をよけて母にすえてもらった日の記憶がある。庭では一面に
蝉が鳴き立てている。その蝉の声と背中の熱い痛さとが何かしら相関関係のある現象であったかのような幻覚が残っている。同時にまた灸の刺激が一種の涼風のごときかすかな快感を伴なっていたかのごとき
漠然たる印象が残っているのである。
背中の
灸の跡を夜寝床ですりむいたりする。そのあとが少し
化膿して痛がゆかったり、それが
帷子でこすれでもすると背中一面が強い意識の対象になったり、そうした記憶がかなり鮮明に長い年月を生き残っている。そういうできそこねた
灸穴へ火を点ずる時の感覚もちょっと別種のものであった。
一日分の灸治を終わって、さて平手でぱたぱたと背中をたたいたあとで、灸穴へ一つ一つ墨を塗る。ほてった皮膚に冷たい筆の先が点々と
一抹の涼味を落として行くような気がする。これは化膿しないためだと言うが、墨汁の
膠質粒子は外からはいる
黴菌を食い止め、またすでに付着したのを吸い取る効能があるかもしれない。
寒中には着物を後ろ前に着て背筋に狭い窓をあけ、そうして
火燵にかじりついてすえてもらった。神経衰弱か何かの療法に
脊柱に沿うて冷水を注ぐのがあったようであるが、自分の場合は背筋のまん中に沿うて四五寸の幅の帯状区域を寒気にさらして、その中に点々と週期的な暑さの集注点をこしらえるという複雑な方法を取ったわけである。そういう、西洋のえらい医学の大家の夢にも知らない療養法を
須崎港の宿屋で長い間続けた。その手術を引き受けていたのは
幡多生まれで幡多なまりの鮮明なお
竹という女中であった。三十年前の善良にして忠実なるお竹の顔をありあり思い出すのであるが、その後の消息を明らかにしない。無事でいればもうずいぶんおばあさんになっていることであろう。
灸などきくものかと一概にけなす人もある。もしなんの効能もないとすると、祖先の日本人は仏法伝来と同時に輸入されたというこの唐人のぺてんに二千年越しだまされつづけて無用なやけどをこしらえて喜んでいたわけである。
二千年来信ぜられて来たという事実はそれが真であるという証拠には少しもならない。しかし
灸の場合には事がらが精神的ばかりでなくともかくも生理的な生き身の一部に明白な物理的化学的な刺激を直接密接に与えるのであるから、きくきかぬが生理的に実証の審判にかけられうるわけだと思われる。
生理学の初歩の書物を読んでみると、皮膚の一部をつねったりひねったりするだけで、腹部の内臓血管ことにその細動脈が収縮し、同時に筋や中枢神経系に属する血管は開張すると書いてある。灸をすえるのでも似かよった影響がありそうである。のみならず、焼かれた皮膚の局部では
蛋白質が分解して血液の水素イオン濃度が変わったり、周囲に対する電位が変わったり、ともかくもその付近の細胞にとっては重大な事件が起こる。それが一つの有機体であるところの身体の全部にたとえ微少でもなんらかの影響のないはずはなさそうである。
それがある病気にどれだけきくかはまた別問題であるがそれは立派に一つの研究問題になる事であり、そうしてまさに日本の医者生理学者の研究すべき問題である。それだのに不思議なことには従来灸治の科学的研究をして学位でも取ったという人は、あるかもしれないがあまりよく知られていないようである。今にドイツとか米国とかでだれかが
歌麿や
北斎を発見したように灸治法の発見をして大論文でも書くようになれば日本でも灸治研究が流行をきたすかもしれないと思われる。
(「螢光板」への追記) 前項「灸治」について高松高等商業学校の大泉行雄氏から書信で、九州福岡の原志兔太郎氏が灸の研究により学位を得られたと思うという知らせを受けた。右の原氏著「お灸療治」という小冊子に灸治の学理が通俗的に説明されているそうである。一見したいと思っているがまだその機会を得ない。その後にまた麻布の伊藤泰丸氏から手紙をよこされて、前記原氏のほかに後藤道雄、青地正皓、相原千里等の各医学博士の鍼灸に関する研究のある事を示教され、なお中川清三著「お灸の常識」という書物を寄贈された、ここに追記して大泉氏ならびに伊藤氏に感謝の意を表したいと思う。
八 黒焼き
学生時代に東京へ出て来て物珍しい気持ちで町を歩いているうちに偶然出くわして特別な興味を感じたものの一つは
眼鏡橋すなわち今の
万世橋から
上野のほうへ向かって行く途中の左側に二軒、
辻を隔てて相対している黒焼き屋であった。これは江戸名所図会にも載っている、あれの直接の
後裔であるかどうかは知らないがともかくも昔の江戸の姿をしのばせる格好の目標であった。
なんでも片方が「本家」で片方が「元祖」だとか言って長い年月を
鬩ぎ合った歴史もあったという話を聞いたことがある。関東大震災にはたぶんあのへんも焼けたであろうが、つい先日電車であのへんを通るときに気をつけて見ると昔と同じ場所と思わるる所に二軒の黒焼き屋が依然として存在している。一軒は昔ふうの建築であり他の一軒は近代的洋風の店構えになっているのであるが、ともかくも付近に対して著しく異彩を放つ黒焼き屋であることには昔も変わりはないようである。
いったい黒焼きがほんとうに病気にきくだろうかという疑問が科学の学徒の間で問題に上ることがある。そういう場合に、科学者にいろいろの種類があることがよくわかる。
甲種の科学者は頭から黒焼きなんかきくものかと否定してかかる。
蛇でもいもりでも焼いてしまえば結局炭と若干の灰分とになってしまうのだから、黒焼きがきくものなら消し炭を食ってもきくわけだ、とざっとこういうふうに簡単に結論を下してしまう。
乙種の科学者は、そう簡単にも片付けてしまわない。しかし、問題がまだアカデミックな研究にかけるにはあまりになまなましくて、ちょっと手がつけられそうもないから、そういう問題はまずまず敬遠しておくほうがいいという用心深い態度を守って、格別の興味を示さない。
丙種の科学者になると、かえってこうした毛色の変わった問題に好奇的興味を感じ、そうして、人のまだ手を着けない題材の中に何かしら新しい大きな発見の可能性を予想していろいろ想像をめぐらし、何かしら独創的な研究の端緒をその中に物色しようとする。
この甲乙丙三種の定型はそれぞれに長所と短所をもっている。甲はうっかりにせ物に引っかかるような心配はほとんどない代わりに、どうかするとほんとうに価値のある新しいいいものを見のがす恐れがある。既知の真実を固守するにのみ忠実で未知の真実の可能性に盲目である。乙はアカデミックな科学の殿堂の細部の建設に貢献するには適しているが新しい科学の領土の開拓には適しない。丙は時として
荊棘の小道のかなたに広大な
沃野を発見する見込みがあるが、そのかわり不幸にして底なしの
泥沼に足を踏み込んだり、思わぬ
陥穽にはまって
憂き目を見ることもある。三種の型のどれがいけないと言うわけではない。それぞれの型の学者が、それぞれの型に応じてその正当の使命を果たすことによって科学は進むのであろう。
それはとにかく、この三型を識別するための簡単で手近なメンタルテストの問題として「黒焼き」の問題が役立つのはおもしろい。
炭は炭でもそのコロイド的内部構造の相違によって物理的化学的作用には著しい差がある場合もあるから、
蛇の黒焼きとたぬきの黒焼きで人体に対する効果がなにがしか違わないとは限らない。またわずかな含有灰分の相違が炭の効果に著しい差を生ずることも可能なのは他の
膠質現象から推して想像されなくはない。
臓器から製した薬剤の効果がその中に含有するきわめて微量な金属のためであって、その効果はその薬を焼いて食わせても変わらないらしいという説がある。しかし、それかと言ってその金属の粉をなめたのでは何もならない。ここに未知の大きな世界の暗示がある。
こうした不思議は
畢竟コロイドというものの研究がまだ幼稚なために不思議と思われるのであって、今にこの方面の知識が進めば、これが不思議でもなんでもなくなるかもしれないのである。そういう日になってはじめて「黒焼き」の意義がその本体を現わすのではないかと想像される。
こんなことを長年考えていたのであるが、近ごろ
大阪医科大学病理学教室の
淡河博士が「黒焼き」の効能に関する本格的な研究に着手し、ある黒焼きを
家兎に与えると血液の塩基度が増し諸機能が活発になるが、西洋流のいわゆる薬用炭にはそうした効果がないという結果を得たということが新聞で報ぜられた。自分の夢の実現される日が近づいたような喜びを感じないわけには行かない。
それにしてもいもりの黒焼きの効果だけは当分のところ、物理学化学生理学の領域を超越した幽遠の外野に属する研究題目であろうと思われる。もっとも
蝶のある種類たとえば Amauris psyttalea の雄などはその尾部に備えた小さな袋から一種特別な細かい粉を振り落としながら
雌の頭上を飛び回って、その粉の魅力によって
雌の興奮を誘発するそうである。
百年の後を恐れる人には「いもりの黒焼き」でもうっかりは笑えないかもしれない。
(昭和十年二月、中央公論)
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