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科学と文学(かがくとぶんがく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-2 9:48:17  点击:  切换到繁體中文


     実験としての文学と科学

 たとえば勢力不滅の方則が設定されるまでに、この問題に関して行なわれた実験的研究の数はおびただしいものであろう。たとえば大砲の砲腔ほうこうをくり抜くときに熱を生ずることから熱と器械的のエネルギーとの関係が疑われてから以来、初めはフラスコの水を根気よく振っていると少しあたたまるといったような実験から、進んで熱の器械的当量が数量的に設定されるまで、それからまた同じように電気も、光熱の輻射ふくしゃも化合の熱も、電子や陽子やあらゆるものの勢力が同じ一つの単位で測られるようになるまでに行なわれて来た実験の種類と数とは実に莫大ばくだいなものである。
 人間の心の方則に従ってわれわれの周囲に起こっている現象はあまりに複雑である。それだけを見て方則をうかがうには何よりも環境条件があまりに漠然ばくぜんとしていてつかまえ所がない。そこでわれわれはいろいろの仮想的実験を試みる。たとえばある一人の虚無的な思想をもった大学生に高利貸しの老婆を殺させる。そうして、これにかれんな町の女や、探偵たんていやいろいろの選まれた因子を作用させる。そうして主人公の大学生が、これに対していかに反応するかを観察する。これは一つの実験である。ただしこの場合における実験室は小説作者の頭脳であり、試験される対象もまた実物ではなくて、大学生や少女や探偵やの抽象された模型である。こういう模型は万人の頭の中にいるのであるが、すぐれた作者の場合にのみ、それが現実の対象とほぼ同じ役目をつとめることができるのである。そういうすぐれた作者の作品を読むときにわれわれはその作の主人公のすべての行為が実に動かすべからざる方則のもとに必然な推移をとっていることを悟るであろう。「運命」はすなわち「方則」の別名なのである。
 また、ある少女が思春期以前に暴行を受けてその時の心の激動の結果が、熱烈な宗教心となって発現する。そうして最も純潔な尼僧の生活から、一朝つまらぬ悪漢に欺かれて最も悲惨な暗黒の生涯しょうがいに転落する、というような実験を、忠実に行なった作品があるとする。それを読む読者は、彼女の中に不変なエネルギーのようなあるものが、環境に応じて種々ちがった相を現わし、それが彼女の運命を導いていることを悟るであろう。
 このようにして、作者は、ある特殊な人間を試験管に入れて、これに特殊な試薬を注ぎ、あるいは熱しまた冷やし、あるいは電磁場に置き、あるいは紫外線X線を作用させあるいはスペクトル分析にかける。そうしてこれらに対する反応によってその問題の対象の本性を探知すると同時に、一方ではまたそれらの種々の環境因子に通有な性質と作用の帰納に必要な資料を収集するのである。ただ物質と物質的エネルギーの場合とちがって、対象のすべてが作者の中にあるのであるから、その作者が最も鋭利な観察と分析と総合の能力をもっていない限り、これらの実験が失配に終わることはもちろんである。
 しかし、こういう実験が可能であるということは古来今日に至るまでのあらゆるすぐれた作品がこれを証明している。シェークスピアとかドストエフスキーとかイブセンとかいう人々は、人間生死の境といったような重大な環境の中に人間をほうり込んで、試験檻しけんおりの中のモルモットのごとくそれを観察した。しかしまたチェホフのような人は日常茶飯事的さはんじてき環境に置かれた人間の行動から人性の真を摘出して見せた。そうしてわが日本の、乞食坊主こじきぼうずに類した一人の俳人芭蕉ばしょうは、たったかな十七文字の中に、不可思議な自然と人間との交感に関する驚くべき実験の結果と、それによって得られた「発見」を叙述しているのである。
 こういうふうに考えて来ると、ほとんどあらゆる種類の文学の諸相は皆それぞれ異なる形における実験だと見られなくはない。
 写実主義、自然主義といったような旗じるしのもとに書かれた作品については別に注釈を加える必要はない。すでにそれらのものは心理学者の研究資料となり彼らの論文に引用されるくらいである。
 一見非写実的、非自然的な文学であってもよくよく考えてみるとやはり立派な実験と考え得られないことはない。
 たとえば神話を取り扱った超人の世界の物語でも、それらの登場人格の仮面を一枚だけはいでみれば、実は普通の人間である。ただ少しばかり現実の可能性を延長した環境条件の中に、少しばかり人間の性情のある部分を変形し、あるいは誇張し、あるいは剪除せんじょして作った人造人間を投入して、そうして何事が起こるかを見ようとするのである。ジュリアンの「ほんとうの話」の大法螺おおぼらでも、夢想兵衛むそうべえの「夢物語」でも、ウェルズの未来記の種類でも、みんなそういうものである。あらゆるおとぎ話がそうである。あらゆる新聞講談から茶番狂言からアリストファーネスのコメディーに至るまでがそうである。笑わせ怒らせ泣かせうるのはただ実験が自然の方則を啓示する場合にのみ起こりうる現象である。もう少し複雑な方則が啓示されるときにわれわれはチェホフやチャプリンの「泣き笑い」を刺激され、もう一歩進むと芭蕉ばしょうの「さびしおり」を感得するであろう。
 叙事と抒情じょじょうとによって文学の部門を分けるのは、そういう形式的な立場からは妥当で便利な分類法であるが、ここで代表されているような特殊な立場から見れば、こういう区別はたいした意味を持たなくなる。
 最も抒情的なものと考えられる詩歌の類で、普通の言い方で言えば作者の全主観をそのままに打ち出したといったようなものでも、冷静な傍観者から見れば、やはり立派な実験である。ただ他の場合と少しちがうことは、この場合においては作者自身が被試験物質ないしは動物となって、試験管なり坩堝るつぼなりおりなりの中に飛び込んで焼かれいじめられてその経験を歌い叫び記録するのである。あるいはその被試験者の友人なり、また場合によっては百年も千年も後世に生まれた同情者が、当人に代わって、あるいは当人に取りかれるか取り憑くかして、歌い悲しみ、また歌い喜ぶのである。たとえば、われわれは自分の失恋を詩にすることもできると同時に、真間まま手児奈てこなやウェルテルの歌を作ることもできるのである。
 探偵小説たんていしょうせつと称するごときものもやはり実験文学の一種であるが、これが他のものと少しばかりちがう点は、何かしら一つの物を隠しておいて、それを捜し出すためにいろいろの実験を行なう、そうして読者を助手にしていろいろと実験を進めて行って最後に、その隠したものに尋ねあてて見せる、という仕組みのものである。宝捜しの案内記のようなものである。一方で、科学者の発見の径路を忠実に記録した論文などには往々探偵小説の上乗なるものよりもさらにいっそう探偵小説的なものがあるのである。実際科学者はみんな名探偵でなければならない。そうして凡庸な探偵はいつも見当ちがいの所へばかり目をつけて、肝心な罪人を取り逃がしている、その間に名探偵は、いろいろなデマやカムフラージに迷わされず、確実な実証の連鎖をじりじりとたぐって、運命の神自身のように一歩一歩目的に迫進するのである。しかし実際の探偵小説がそれほどに必然的な実証の連鎖を示しているかというと、そうではなくて、たいていの場合には、巧みにそうらしく見せているだけで、実は大きな穴だらけのものがはなはだ多い。換言すれば、実験は実験でも、ごまかしの実験である場合がはなはだ多い。これは無理に変わった趣向を求める結果、自然にそういう無理を生ずる可能性が多くなるものと思われる。しかし読者が容易にその穴に気がつかなければ、少なくも一時は目的が達しられる。つまり読者の錯覚、認識不足を利用して読者を魅了すればよいので、この点奇術や魔術と同様である。そういうものになると探偵小説はほんとうの「実験文学」とは違った一つの別派を形成するとも言われるであろう。そういうこしらえ物でなくて、実際にあった事件を忠実に記録した探偵実話などには、かえって筆者や話者の無意識の中に真におそるべき人間性の秘密の暴露されているものもある。そういうものを、やはり一つの立派な実験文学と名づけることも、少なくも現在の立場からはできるわけである。同じようなわけで、裁判所におけるいろいろな刑事裁判の忠実な筆記が時として、下手へたな小説よりもはるかに強く人性の真をうがって読む人の心を動かすことがあるのである。
 これから考えると、あらゆる忠実な記録というものが文学の世界で占める地位、またその意義というような事が次の問題になって来るのである。

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