フィッシンガー作「踊る線条」と題するよほど変わった映画の試写をするからぜひ見に来ないかとI氏から勧められるままに多少の好奇心に促されて見に行った。プログラムを見ると、第五番「アメリカのフォクストロット」。第八番、デューカーの「魔術師の徒弟」。第九番、ブラームス「ウンガリシェ・タンツ」というふうに楽曲の名前が並べてあるだけで、いったいどんなものを見せられるか全く見当がつかない。
さて、映写が始まって音楽が始まると同時に、暗いスクリーンの上にいろいろの形をした光の斑点や線条が順次に現われて、それがいろいろ入り乱れた運動をするのであるが、全く初めての経験であるからただ一度見ただけでは到底はっきりした記憶などは残りようがない。しかし都合六編だけ通覧したあとでの印象は、実に思いのほかにおもしろいものであったということである。
たぶんは退屈で、しいて理屈をつけて見ているうちに頭が痛くなるようなものではないかと思っていた予想に反して、ただぼんやり見ているだけでなんとなく気持ちのいい、ともかくも充分楽しめるものであるということを発見して少々驚いたのであった。残念ながら大部分は肝心の楽曲をよく知らないから困るのであるが、ただ一つモツァルトの「ニ長調メヌエット」だけは曲の構造をよく知っている上に、光像の踊りも簡単であるから、比較的らくに光像の進行を追跡することができたようである。第一のテーマは楽譜の形からも暗示されるように、彗星のような光斑がかわるがわるコンマのような軌跡を描いては消える。トリラーの箇所は数条の波線が平行して流れる。
第二のテーマでは鉛直な直線の断片が自身に並行にS字形の軌跡を描いて動く。トリオの部分は概して水平な短い直線の断片が現われてそれがちょうど編隊飛行の飛行機が風に吹き散らされてでもいるような運動をする。これを見ながら同時にこの曲を聞いているといくらかこの映画作者の気持ちを理解することができるような気がする。
その他の曲にはなかなか複雑な仕組みのものもあったが、たとえば大小の弦楽器が多くは大小の曲線の曲線的運動で現わされ真鍮管楽器が短い直線の自身に直角な衝動的運動で現わされたり、太鼓の音が画面をいっさんに駆け抜ける扇形の放射線で現わされたりする場合が多いようである。トランペットやトロンボンのはげしい爆音の林立が斜めに交互する槍の行列のような光線で示されるところもあったようである。
なんだかちっともわからないようで、しかしなんだか妙におもしろいものである。これと非常によく似たものが他にどこかにあるようだと思ったら、それはいわゆるレヴューである。レヴューでは人間の集団で作った斑点や線条が舞台の上で離合集散いろいろの運動をする。あの斑点や線条の運動はなんの意味だかちっともわからない。しかしなんだかおもしろい。このレヴューからあらゆる不純なものをことごとく取り去ってしまったもの、ちぐはぐな踊り子の個性のしみを抜き、だらしのない安っぽい衣装や道具立てのじじむささを洗い取ったあとに残る純粋の「線の踊り」だけを見せるとすれば、それは結局このフィッシンガーの映画のようなものになるであろうと思われた。
ずっと前に菊五郎と三津五郎の「棒縛り」を見ておもしろいと思ったことがあった。あれのおもしろさも煎じつめて考えてみると、やはり長い直線の大きな曲線的運動と、短い線の短い直線的運動の対立の交錯によって織りだされた「線の踊り」のおもしろみであったような気がする。
舞踊というものをその幾何学的運動学的要素に一度解きほごして、それから再び踊りというものを構成するとすればその第一歩はおそらくこの映画のようなものになりそうである。そういう意味でわが国の舞踊家ならびに舞踊研究家にとってもこの映画は必ず一見の価値があるであろうと思われる。一方ではまた純粋音楽というものの「空間化」の一つの試みとして音楽家ならびに音楽研究家にとっても多少の興味がありそうである。これは決して音楽を冒涜するものではなくて、音楽の領域に新しきディメンジョンを付加することの可能性を暗示するものではないかと思われる。これが、別に頼まれもせぬ自分がこの変わった映画の提燈をもって下手な踊りを踊るゆえんである。
(昭和九年一月、東京朝日新聞)
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