有色映画
音声を得た映画がさらに色彩を獲得することによっていかなる可能性を展開するかという問題がある。
無声映画の時代にフィルムを単色に染めることによってあるいは月夜、あるいは火事場の気分を出したことがあった。その後有色写真のいろいろな方法が案出されて、「テクニカラー」式有色映画の示す程度までは進歩したが、その色彩はまだきわめて単調でなまなましくて、かろうじて安物の三色版の水準にしか達していない。それがためにかえって画面の明暗の調子を攪乱し減殺し、そうして過度の刺激によって目を疲らせるばかりであるから、現在のところでは芸術的には全く低級な単なるノヴェルティに過ぎないと言わなければならない。
視覚的映画に聴覚的な音響を付加することは本質的に異なる別の次元を新たに増加することであるが、色彩の付加は単に視覚的なものの属性の補充に過ぎない。それだから、たとえば色彩再現の科学的技術がいかに発達したとしても、それがために発声映画がもたらしたほどの根本的な革命が起ころうとは思われない。
色彩はその使用が適切でなければ視覚的映像の効果を補充するよりもむしろ減殺するのは何ゆえかというと、色彩のために明暗の調子が弱められて画面の深さが浅くなり従って平板に見えやすくなる。これは西洋画をけいこした人のいずれもが経験したことであろう。
しからば有色映画は全然見込みのないものであるかというと、そうは断言できない。もしも将来天才的監督によって適当なる色彩的モンタージュの方法が案出され、明暗を殺さずにそれを生かすような色彩を駆使して、これを音響と対位的に編成することができればその結果はあるいは大いに見るべきものであるかもしれない。
色彩のモンタージュはいかにすべきかについてはやはり東洋画ことに宗達光琳の絵や浮世絵は参考になるであろう。俳諧連句もまたかなりの参考資料を提供するであろう。たとえば七部集炭俵の中にある「雪の松おれ口みればなお寒し」「日の出るまえの赤き冬空」「下肴を一舟浜に打ち明けて」の三連などは色彩的にもかなりおもしろいものである。ともかくも一つ一つの画面にその基調となるべき色彩的な中心映像を確定しそれを生かすためにその周囲の色彩を殺してしまうという、色彩的カッティングを行ない、そうして、その中心的な色彩をモンタージュ的な連結推移のリズムによって進行させて行かなければなるまいと思われる。出て来る画面も出て来る画面もみんな一様に単に絵の具箱をぶちまけたような、なんのしめくくりもアクセントもないものでは到底進行の感じはなくただ倦怠と疲労のほか何物をも生ずることはできないであろう。
立体映画
二次元的平面映像の代わりに深さのある立体映像を作ろうという企てはいろいろあるがまだ充分に成効したものはない。特別なめがねなどをかけない肉眼のままの観客に、広い観覧席のどこにいても同じように立体的に見えるような映画を映し出すということにはかなりな光学的な困難があるのである。しかし、そういう技術上の困難は別として、そういう立体的な映画ができあがったとしたら、それは映画芸術にいかなる反応を生ずるであろうか。
実際の空間におけるわれわれの視像の立体感はどこから来るかというに、目から一メートル程度の近距離ではいわゆる双眼視によるステレオ効果が有効であるが、もっと遠くなるとこの効果は薄くなり、レンズの焦点を合わせる調節のほうが有効になって来る。しかしずっと遠くなると、もうそれもきかなくなって、事実上は単に無限距離にある平面への投射像を見ていると同等である。たとえば歌舞伎座の正面二階から舞台を見るような場合、視像の深さはほとんどなくなっているはずであるが、われわれは俳優の運動によって心理的に舞台の空間を認識する。この錯覚を利用して映画の背景をごまかすグラスウォークと称する技術が存在するくらいである。
映画の場合には双眼視的効果だけはないのであるが、レンズの焦点が深さをもつという事から来る立体的な効果は目の場合と本質的に変わったことはない。窓わくの花に焦点を合わせれば窓外の遠い樹木はぼやけ、樹木に合わせれば花はぼやける。この効果をうまく使えば現在のままでも立体的な効果を生じ得ないことはないはずである。カメラの焦点が近い花から遠くの木へ移動すればスクリーンの観客はちょうど遠くへ目を移す感じがするはずである。このような方法はしかし現在の映画ではあまり使われていない。これは観客の目がまだそこまで訓練されていないためであろう。
現在の平面映画は、前にも一度述べたように立体的な舞台演技を見るよりもかえっていっそう立体的であるという逆説的なことが言われうる。すなわちカメラの任意な移動によって観客は空間内を自由に移動し、従って観客自身画面の中へ入り込むと同等な効果を生ずるからである。
このようにカメラの焦点とその位置および視角の移動によって現在の映画は、事実上、少なくも心理的には立体的実体的な空間を征服しているのである。それでこの上に多大の苦心をしていわゆる立体映画がようやく成功したとしても、その効能はおそらくそう顕著なものではあるまいという気がする。
現在の発明家のねらっている立体映画はいずれもステレオスコピックな効果によるものであるが、誇張されたステレオ効果はかえって非常に非現実的な感じを与えるということは、おもちゃの双眼実体鏡で風景写真をのぞいたり、測遠器で実景を見たりする場合の体験によって知られることである。それでいわゆる立体映画ができると、われわれの二つの目の間隔が急に突拍子もなくひろがったと同様な不自然な異常な効果を生ずることになり、従って映像の真実性が著しく歪曲することになるのではないかと想像される。
ともかくも、現在の映画のスクリーンが物理的に平面だから映画には心理的にも「深さ」がないという考えは根本的の誤謬であって、この誤りを認証した上では立体映画なるもののもたらしうべき可能性の幅員はおのずから見積もり得られるであろうと思う。
人工映画
実在の人間や動物や家屋や景色や、あるいは実在なものの代用をするセットの類をショットの標的とする普通の映画のほかに、全くこれら実在のものを使わずそのかわりに黒い紙を切り抜いたシルエットの人形と背景を使った「アクメード王子の冒険」や、わが国特産の千代紙人形映画や、またミッキーマウスやうさぎのオスワルドやあるいはビンボーなどというおとぎ話的ヒーローを主題とした線画の発声漫画のごときものがある。まずい名称であるがかりにこれらを人工映画という名前で一括することにする。
これらの人工映画のもつ特徴は、これらの単純なる影や線のリズミカルな活動によってそこに全く特別な新しい世界を創造するという可能性の中に存する。シルエットの世界には遠い遠い過去の人生の幻影といったようなものの笹べりが付帯している。ここから実物の写真では表現し難い詩が生まれ出る。また近ごろの漫画的映画の喜ばれるゆえんは、夢幻的な雰囲気の中に有りうべからざる人間の夢を実現するという点に存すると思われる。現実の世界において望んで得べからざる願望が夢の国において実現されるように、人工映画の世界においてはあらゆる空想が安々と実現される。ねずみのしっぽを引き延ばしてひけば一弦琴になり、今まいた豆のつるをよじて天に登ることもできる。漫画の長所はこれのみに限らない。似顔漫画が写真よりもいっそうよくその人に似るというのと同様に、対象の特徴の或る少数なる要素を抽出し誇張して、それをモンタージュ的に構成することによって、実物よりもいっそう実在的なものを創造するのである。近ごろ見た漫画の中に登場した一匹の犬などは実によく犬という愛すべき家畜の特性を描象してほとんど「犬自体」を映出していると思われた。もう一つの漫画の長所は、音楽との対位法的モンタージュを行なう場合における視像のエキスプレッションが自由自在であって、画像の運動は pp[#「pp」は縦中横、音楽記号のピアニッシモ] から ff[#「ff」は縦中横、音楽記号のフォルテシモ] まで任意に大なる変化をすることができ、クレッセンドー、ディミニゥエンドー勝手次第なことである。顔じゅういっぱいに口をあけようと、針で突いたほどにつぼめようと自在である。
こういうふうに考えてみると漫画の将来にはまだいろいろな未発見の領土が隠れていそうに思われる。ただ現在のビンボー類似の作品はあまりに荒唐無稽な刺激を求め過ぎて遠からず観客の倦怠を来たすおそれがありはしないかと思われる。
普通の現実的映画が散文であるとすれば、漫画は詩であり歌でありうる、むしろそうあるべきものである。今の漫画は俳諧ならば談林風のたわけを尽くしている時代に相当する、遠からず漫画の「正風」を興すものがかえって海のかなたから生まれはしないかという気もする。ほんとうはこれこそ日本人の当然手を着けるべき領域であろう。
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