映画の成立
以上のようなわけであるから、映画とは何かという問題を考えるには、抽象的な議論をする前にまず映画がどうして作られるかという実際上の過程を考えてみることが必要であると思う。
一つの映画が作り上げられるまでの過程は時代により国により、また製作者により、必ずしも同じではないようであるが、だいたいにおいて次のような段階を経るべきはずのものである。
第一にその一編の主題となるべきものからいわゆるストーリーあるいはシュジェーが定められる。これはたとえば数行のものであってもよいがともかくも内容のだいたいの筋書きができるのである。それをもう少し具体的な脚本すなわちシナリオに発展させる。しかしそれではまだすぐに撮影はできない。シナリオに従って精細な撮影台本が作られなければならない。それには撮影さるべき対象選定はもちろんそれがいかなる条件においていかに撮影さるべきかが具体的に精細に設計規定されなければならない。それができて後に関係部員のそれぞれの部署が決定されなければならない。一方では精密な予算も組まれなければならない。
これまでの過程はすべて「分析」の過程である。出発点における主題に含まれているものを順次にその構成要素に解きほごして行ってその各部の具体的設計を完成する過程である。
このようにしてできた設計が完成すれば次には、これらの各部分が工人の手によって実物に作り上げられなければならない。すなわち一つ一つの場面の一つ一つのショットの断片が撮影される。同じものが何度も何度も、監督の気に入るまでとり直される。この場合には脚本中における各ショットの位置や順序にはかまわず、背景やセットの同じものを便宜上一度にとってしまうという事も必要になって来る。建築の場合に鋳物は鋳物、ガラスはガラスというふうに別々にまとめて作らるると同様である。
こういうふうにしてできあがった部分品を今度は組み立てて行く「総合」「取り付け」の仕事がこれからようやく始まる。すなわち芸術家としての映画監督の主要な仕事としてのいわゆるモンタージュの芸術が行なわれるのである。
シナリオを書くまでは必ずしも映画の技術に精通しない素人でも多少「映画的表現」すなわち「映画の言葉」を心得た人ならばある程度まではできないことはない。なんとなればそれは文学から映画への途中の一段階であって、まだ片足だけしか映画の領域に踏み込んでいないからである。それゆえにたとえば「貧しい部屋の中で」とか「歓喜に満ちて」とか、そんな漠然とした言葉を使ってもいいかもしれない。しかしいよいよ撮影を実行する前にはこれでは全く役に立たない。「貧しさ」を「映画の言葉」すなわち、これに相当する視覚的な影像に翻訳しなければならない。たとえば極貧を現わすために水道の止まった流しに猫の眠っている画面を出すとか、放免された囚人の歓喜を現わすのに春の雪解けの川面を出すとか、よしやそれほどの技巧は用いないまでも、とにかく文学的の言葉をいわゆるフォトジェニックなフィルミッシな表現に翻訳しなければならない。
しかしそれだけではまだ映画の撮影台本にはなり得ない。一つ一つの画面断片の含むフィルムのコマ数、あるいはメートルであらわしたその長さ、あるいは秒で数えたその映写時間を決定しなければならない。そうしてそれらの断片が何個集まって一つの系列あるいはエピソードを成すかを決定してその全長を計算し、そういう系列の何個が全編を成すかを定めなければならない。
実際には、監督の人によっては、かなりにルースな方法による人はあるであろうが、原則としてはともかくも上記のごとき有機的に制定された道筋を通らなければ一編の有機的な映画はできるはずはないのである。いわゆる「カフスに書いた覚え書き」によって撮影を進行させ、出たとこ勝負のショットをたくさんに集積した上で、その中から截断したカッティングをモンタージュにかけて立派なものを作ることも可能であろうが、経済的の考慮から、そういう気楽な方法はいつでもどこでも許されるはずのものではない。
以上述べて来ただけのことから考えても映画の制作には、かなり緻密な解析的な頭脳と複雑な構成的才能とを要することは明白であろう。道楽のあげくに手を着けるような仕事では決してないのである。
「分析」から「総合」に移る前に行なわるる過程は「選択」の過程である。
すべての芸術は結局選択の芸術であるとも言われる。芸術家の素材となりその表現の資料となるものはわれわれの日常の眼前にころがっている。その中から何を発見してつまみ上げるかが第一歩の問題であり、第二は表現法の選み方である。映画芸術家の場合でも全く同様であって、一つの映画の価値を決定するものは全く、フィルミッシな素材とそれのフィルミッシな表現法の選択であると言ってよい。「貧しさ」「うれしさ」の視覚的代表者をどこから拾って来るか、それをいかなる距離、いかなる角度、いかなる照明で、フィルムの何メートルに撮影し、それを全編のどの部分にどう入れるか、溶明溶暗によるかそれとも絞りを使うか、あるいは重写を用いるか。これらの選び方によって効果には雲泥の差が生じるのである。
いかなる材料のいかなる撮影が効果的であるかを判断するためには映画家は「カメラの目」をもつことが必要である。プドーフキンは爆発の光景を現わすのに本物のダイナマイトの爆発を撮ってみたがいっこうにすごみも何もないので、試みにひどく黒煙を出す炬火やら、マグネシウムの閃光やを取り交ぜ、おまけに爆発とはなんの縁もない、有り合わせの河流の映像を插入してみたら、意外にすばらしい効果を生じて、本物の爆発よりははるかに爆発らしい爆発ができたそうである。また、エイゼンシュテインは港の埠頭における虐殺の残酷さを見せるために、階段をころがり落ちる乳母車を写した。
「彫刻家が大理石とブロンズで考えるように、映画家はカメラとフィルムで考えそうして選択することが第一義である。」
役者の選択についても同様である。舞台の名優は必ずしもフィルムの名優ではない。ロシア映画ではただのどん百姓が一流の名優として現われる。アメリカふうのスター映画でさえも、画面に時々しか顔を出さないエキストラのタイプの選択いかんによって画面の効果は高調されあるいは減殺される。
背景となるべき一つの森や沼の選択に時には多くの日子と旅費を要するであろうし、一足の古靴の選定にはじじむさい乞食の群れを気長く物色することも必要になるであろう。
このようにして選択された分析的要素の撮影ができた上で、さらに第二段の選択過程が行なわれる。それはこれらの要素を編集して一つの全体を作るいわゆるモンタージュの立場における選択過程である。
だいたいのプロットに従って撮影されたたくさんのフィルムの巻物の中にはたくさんのむだなものが含まれている。とりそこね、とり直しがあり、あるいは撮影の際に得られたその場でのヒントによる余分の獲物もあるであろう。それで、使用されたフィルムの陰画の点検によって実際陽画に焼き付けられ映写さるべき部分を選び出すという大きな仕事がここから始まるのである。ティモシェンコのあげた例では千八百メートルの陽画映写フィルムを作るために六千メートルの陰画が消費されている。使ったもののやっと三割だけが役に立つ勘定である。これは非常なきびしい選択であると言わなければならない。しかしできあがった最後の作品の価値を決定するものは実にこの最後の選択の厳重さに係わるであろうと思われる。
要するに映画は截断の芸術である。たとえばスターンバーグの「青い天使」の台本と、いよいよできあがった作品とを比べてみても、いかに多くのものが切り捨てられたかがわかる(わが国での検閲の切断は別として)。チャプリンがその「街の灯」の一場面を撮るためにいかに多くのフィルムをむだにしているかは、エゴン・エルウィン・ウィッシュの訪問記を一見しても想像されるであろう。
このようにして行なわれる選択的截断は言うまでもなく次に来るところの編集のための截断であり、構成のための加工である。一瓶の花を生けるために剪刀を使うのと全く同様な截断の芸術である。
映画成立の最後の決定的過程として編集術については以下に項を改めて述べる事とする。
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