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映画芸術(えいがげいじゅつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-2 9:37:25  点击:  切换到繁體中文

   緒言

 映画はその制作使用の目的によっていろいろに分類される。教育映画、宣伝映画、ニュース映画などの名称があり、またこれらのおのおのの中でもいろいろな細かな分類ができる。しかしこれらの特殊な目的で作られた映画でも、それが広義における芸術的価値のないものであれば、それは決してその目的を達することができない。そういう意味においてすべての種類の映画の制作はやはり広義における映画芸術の領域に属するものと思われるから、ここではそういう便宜上の種別を無視して概括的に考えることにする。
 映画は芸術と科学との結婚によって生まれた麒麟児きりんじである。それで映画を論ずる場合に映画の技術に関する科学的の基礎と、その主要なテクニークについて一通りの解説をするのが順序であるが、この一編の限られた紙数の中にこれを述べている余地がないから、ここではいっさいこれらを省略する。しかし大多数の読者がこの点について一通りの予備知識を備えているものと仮定してもおそらくたいした不都合はあるまいと思う。
 ついでながら、自分のような門外漢がこの講座のこの特殊項目に筆を染めるという僣越せんえつをあえてするに至った因縁について一言しておきたいと思う。元来映画の芸術はまだ生まれてまもないものであってその可能性については、従来相当に多数な文献があるにもかかわらず、まだ無限に多くのものが隠され拾い残されているであろうと思われる。従って、かえってそういう文献などに精通しない門外漢の幼稚ナイヴな考察の中からいくらかでも役に立つような若干の暗示が生まれうるプロバビリティーがあるかもしれないと思われる。また一方で自分は、従来自分の目にふれたわが国での映画芸術論には往々日本人ばなれのしたものが多いようであって、日本の歴史と国民性を通して見た映画の理論的考察が割合に少ないように思われるのを遺憾としていた。それで、もし多少でもそういう方面からの研究の端緒ともなるべきものに触れることができればしあわせだと思ったのである。
 もう一つ断わっておく必要のあるのは、発声映画の問題である。始めから発声映画を取って考えるのと、無声映画時代というものを経て来た後に現われた発声映画を考えるのとでは、考え方によほどな隔たりがある。しかしここでは実際の歴史に従ってまず無声映画を考えた後に、改めて別に発声映画の問題に立ち入りたいと思う。
 なお映画に関しては経済学上からまた社会学上から見たいろいろな問題がある。しかもそれらの問題は必ずしも映画芸術上の問題と切り離して考えることができないものである。しかしこれらの重要な点にもここでは立ち入るべき余裕もなく、またそれはおそらく自分の任でもないから、全然省略して触れないことにする。これは遺憾ながらやむを得ない次第である。これについてはベーロ・ボラージュの「映画の精神」(B※(アキュートアクセント付きE小文字)la Bal※(アキュートアクセント付きA小文字)zs : Der Geist des Films, 1930)を読むことをすすめたい。自分はこの書とプドーフキンの有名な「フィルムテクニーク」との二つから最も多くを教えられたものである。

     映画芸術の特異性

 芸術としての映画が他のいろいろの芸術に対していかなる特異性をもっているかを考えてみよう。
 大概の芸術は人類の黎明れいめい時代にその原型プロトタイプをもっている。文学は文字の発明以前から語りものとして伝わり、絵画彫刻は洞壁どうへきや発掘物の表面に跡をとどめている。音楽舞踊はいかなる野蛮民族の間にも現存する。建築や演劇でも、いずれもかなりな灰色の昔にまでその発達の径路をさかのぼる事ができるであろう。マグダレニアンの壁画とシャバンヌの壁画の間の距離はいかに大きくとも、それはただ一筋の道を長くたどって来た旅路の果ての必然の到達点であるとも言われなくはない。ダホメーの音楽とベートーヴェンの第九シンフォニーとの比較でもそうである。
 映画についてはどうであるか。たとえば昔からわが国でも座興として行なわれる影人形や、もっと進んでハワイの影絵芝居のようなものも、それが光と影との遊戯であるというだけでは共通な点がなくはない。またたとえばわが国古来の絵巻物のようなものも、視覚的影像の連続系列であるという点では似た要素をもっていないとは言われない。それからまた、眼底網膜の視像の持続性パーシステンスを利用するという点ではゾートロープやソーマトロープのようなおもちゃと似た点もあるが、しかしこれらのものと現在の映画――無声映画だけ考えても――との間の差別は単なる進化段階の差だけでなくてかなり本質的な差であると考えられる。少なくもラジオやテレヴィジョンが昔は無かったというのと同じ意味で映画というものは昔は決して無かった新しいものであるということができよう。なんとなれば現代の精密科学は本質的に昔の自然哲学とちがった要素をもっているからである。そういう全く新しい科学的機械的の技術が在来の芸術といつのまにか自由結婚をしてその結果生まれた私生児がすなわち今日の映画芸術である。それが私生児であるがために始めのうちは、父親の芸術の世界でこれを自分の子供として認知する、しないの問題も起こったのである。しかし今ではこれを立派な嫡子として認めない人はおそらくないであろう。
 オペラが総合芸術だと言われた時代があった。しかし今日において最も総合的な芸術は映画の芸術である。絵画彫刻建築は空間的であるが時間的でなく、音楽は時間的であるが空間的でない。舞踊演劇楽劇は空間的で同時に時間的であるという点では映画と同様である。しからばこれらの在来の時空四次元的芸術と映画といかなる点でいかに相違するかという問題が起こって来る。
 まず最も分明な差別はこれらの視覚的対象と観客との相対位置に関する空間的関係の差別である。舞踊や劇は一定容積の舞台の上で演ぜられ、観客は自分の席に縛り付けられて見物している。従ってその視野と視角は固定してしまっている。しかし映画では第一その舞台が室内にでも戸外にでも海上にでも砂漠さばくにでも自由に選ばれる。そうしてカメラの対物鏡は観客の目の代理者となって自由自在に空間中を移動し、任意な距離から任意な視角で、なおその上に任意な視野の広さの制限を加えて対象を観察しこれを再現する。従って観客はもはや傍観者ではなくてみずからその場面の中に侵入し没入して演技者の一人になってしまうのである。それで、おもしろいことには、劇や舞踊の現象自身は三次元空間的であるにかかわらず、観客の位置が固定しているためにその視像は実に二次元的な投射像に過ぎない。これに反して映画のほうでは、スクリーンの上の光像はまさしく二次元の平面であるにかかわらず、カメラの目が三次元的に移動しているために、観客の目はカメラの目を獲得することによってかえってほんとうに三次元的な空間の現象を観察することができる、という逆説的な結果を生じるのである。
 このように映像が二次元的であることから生じるいろいろな可能性のうちにはいわゆるトリック撮影のいろいろな技巧がある。これによって実際の舞台演技では到底見せることのできないものを見せることが容易である。
 このようにして映画は自由自在に空間を制御することができる上に、また同様に時間を勝手に統御することができるのである。単にフィルムの断片をはり合わせるだけで、一度現われたと寸分違わぬ光景を任意にいつでもカットバックしフラッシュバックすることもできる。東京の町とロンドンの町とを一瞬間に取り換えることもできる。また撮影速度の加減によって速いものをおそくも、おそいものを速くもすることができるし、必要ならば時を逆行させて宇宙のエントロピーを減少させることさえできるのである。
 これらの「映画の世界像」の分析については、かつて「思想」誌上で詳説したから、ここには再び繰り返しては述べない。しかし以上略説したところからでも、映画なるものがいかに自由に時間空間を駆使し統御しうるかを想像することはできるであろう。そういう意味で、映画芸術はほんとうに時と空間をひとまとめにしたいわゆる四次元空間に殿堂を築き上げる建築の芸術であるということが了解されるであろう。そうして舞台芸術は一見これと同様であるように思われるにかかわらず、実は次元数においても、また各次元の範囲においてもはなはだしく制限されたものであるということが了解されるであろう。同時に何ゆえに映画が最も広い総合芸術の容器となりうるかという理由もおのずから理解されるであろうと思われる。
 映画芸術が四次元空間における建築の芸術である以上、それをただ一人の芸術家の手で完成することははなはだ困難である。建築が設計者製図者を始めとしてあらゆる種類の工人の手を借りてできあがるように、一つの映画ができあがるまでには実に門外漢の想像に余るような、たくさんの人々の分業的な労働を要するのである。そうしてそれが雑然たる群衆ではなくて、ほとんど数学的「鋼鉄的」に有機的な設計書の精細な図表に従って、厳重に遂行されなければならない性質のものである。しかもそれはこれに併行する経済的の帳簿の示す数字によって制約されつつ進行するのである。細かく言えば高価なフィルムの代価やセットの値段はもちろん、ロケーションの汽車賃弁当代から荷車の代までも予算されなければならないのである。これを、詩人が一本の万年筆と一束の紙片から傑作を作りあげ、画家が絵の具とカンバスで神品を生み出すのと比べるとかなりな相違があるのを見のがすことはできない。映画芸術の経済的社会的諸問題はここから出発するのである。

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