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踊る地平線(おどるちへいせん)12海のモザイク

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-27 7:04:51  点击:  切换到繁體中文


     5

 砂漠・暑い風・油ぎった水・陽に揺れる遠景・金属製の塔壁パイロン・伸び上ったり縮んだりする起重機の媚姿ポウズ・その煽情的な会話――かた・かた・かた――と、黒い荷船の群集・乾燥した地表の展開・業病に傾いた建物の列・目的のはっきりしない小船の戦争・擾乱と狂暴と異臭の一大渦紋・そのなかを飛び交すあらびや語の弾丸・白い樹木・黄色い屋根・密雨のような太陽の光線――PORT・SAID。
 ポウト・サイド。
 倫敦ロンドンから三五八八カイル。十一日二時間五十分。
 横浜まで八四七〇カイル。三十六日。
 西洋の出口であるこの奇妙な門は、同時に、東洋への入口のより奇妙な門である。だから、PORT・SAIDは、白・黒・黄・赤の各人種によってアラビヤ風に極彩色された、二面神の象徴模型なのだ。
 スエズ運河はここからはじまる。
『明朝早くポウト・サイドに着きますが、入港と同時に石炭の積込みを始めますから、今夜おやすみになるまえに窓を閉めたほうがいいでしょう。よく忘れて開けて置いたため、窓から石炭の粉が舞い込んで、部屋じゅう真黒になった人があります。』
 と、昨夜の食卓でナイフとフォウクの間からこういうBROADCASTをした人があった。
 で、窓を締めたきりにした船室で、寝苦しい一夜を明かす。
 それでも、朝になってうとうととしたらしい。

わ・わ・わっ!
わ・わ・わっ!
 という不可思議な叫喚を、最初私は夢のように聞いていた。が、気が付くと、私の耳には、慣れたエンジンの鼓動がない。停まってるな! と思うや否、その時まで遠くの蓄音機のようにぼやけていた「わ・わ・わっ!」が、急に恐ろしい正確さで一度に私を揺り起した。
 ポウト・サイドの町が、ほこりっぽく騒ぎ立てながら、船窓から私を招いていたのだ。
 とっくのむかしに石炭の荷役が開始されて、幾艘となく両側の船腹に横付けされたたらいのような巨大な荷船から、あんぺらの石炭ぶくろを担いだ半裸体の土人のむれが、甲板へ渡した板を伝わって一個師団ほど上下している。それはじつに、規則立った鎖の動作だった。二枚並べて架けた板梯子を踏んで、一定の間隔を置いた黒人たちが、一つを駈け上って他の一つから走り降りる。めいめい石炭を詰めた袋を運んで、それを、投げるように炭庫バンカアの口へあけては、遅れまいと熱狂している。見てると、まるで一連の機械のように、後からあとからと続いてるのだ。立ち昇る石炭の粉に、人も船も言語も真っくろである。「わ・わ・わっ!」は彼らの掛け声だった。私は、この、細い脚を持ったありのような人たちの、驚くべき多数の努力を目前にして、同じような光景を呈したであろうピラミッド工事の当時を思った。
 そこで、私もいそいで、ジレットを揮い、コルゲエトの泡を吐き、オウトミイルに首を突っ込み、ヘルメットを頭に、追い立てられるようにA甲板へ出る。
 粉炭の濃霧を通して、ポウト・サイドは砂漠の蜃気楼だ。
 そして甲板は、いつの間に乗船して来たのか、土耳古トルコ人・埃及エジプト人・あらびや人の大雑沓である。とるこ帽・金いろの腕輪・赤銅の肌・よごれた白衣・じゃっぱん大阪製竪縞たてじまの木綿洋服・陽に光る歯・動物的な体臭――。
 そのあいだを縫って、久しぶりに陸地に昂奮した船客達が、眼の色を変えて右往左往している。畢竟ひっきょう人間は土の上の生物だ。一刻も早く大地を踏みたい衝動に駆られて、みな無意識に脚がむずむずしているのだ。一同誰もかれも、非常に重大な要事をもって人を探してると言ったように、そのくせ、ただわけもなく甲板を歩きまわりながら、先刻から何度も訊き合った無意味な質問を、会う人ごとに、双方同時に発している。
『上陸なさいますか。』
『上陸なさいますか。』
『は。ちょっと。』
『は。ちょっと。』
 向うでもやってる。
『上陸なさいますか。』
『上陸なさいますか。』
『は。ちょっと。』
『は。ちょっと。』
 相手の返事を聞かないうちに反撥するように別れる。と思うと、出あいがしらにまた「上陸なさいますか」なのだ。何という軽跳な、無責任に晴れ渡った寄港者の感情――それはそのままポウト・サイドの空の色でもある。
 後部の舞踏甲板は、欧羅巴ヨーロッパ人によって黄金の威力を実示された被征服民族の商隊で一ぱいだ。
 狡猾な微笑で全身を装飾した宝石売り――独逸ドイツ高熱化学会社製の色硝子ガラスの小片を、彼らは「たくさん安いよ」の日本語とともに突きつけて止まない――と、二、三げんさきからお低頭じぎをしながら接近して来る手相見の老人――「往年倫敦ロンドンタイムス紙上に紹介されて全世界の問題となれる科学的手相学の予言者バガト・パスチエラ博士その人」と印刷した紙を、証明のため額に入れて提げている――と、絵葉書屋と両替人――これは英語で、人の顔を見次第、「両替はチェンジ・モネ? 旦那マスタア」とか「長官ガヴァナア」とか「大佐カアネ」とか、対者の人品年齢服装で呼びかけの言葉を使い別けする――と、埃及エジプト模様の壁掛け行商人と出張煙草屋と、そうしてふたたび、宝石売りと、手相見と、絵葉書屋と両替人と、壁かけ行商人と出張煙草商と、これらはどこにでも気ながに潜伏していて、甲板上のあらゆる意表外の物蔭から、砂漠の突風のごとく自在に現れて各自その商行為を強要する。奇襲された船客は逃げながらも楽しそうである。“No ! No thankyou,”「のん・めあし・ぱぶそあん――。」
 愛すべき寄港地の猥雑さ!
Galla ! Galla ! Galla ! Galla !
Galla ! Galla ! Galla ! Brrrrr !
 声がする。
 やはり土人だ。奇術師である。
 若い黒人が甲板に胡坐あぐらをかいて、真鍮のコップみたいなものを二つ並べて伏せては、大声に呶鳴っているのだ。
 人寄せの呪文であろう。
がら・がら・がら・がら
ぶるるるるるるるるる
 Brrrrと唇をふるわして、彼は、金属性の扣鈕ボタンを二つ三つコップへ入れて振る。するとそれが、一羽のひなっ子に早変りして出て来る。見物が集まる。今度は手品師は、船客の女の一人にひよっこを握らせて置いて、また「GALLA・GALLA・GALLA」をやる。女が手をひらくと雛は解けて空気になっていた。
 ぽかんとしてる女の顔へ、一同の爆笑が集中する。なくなった雛鳥は、一番大きな口をあけて笑った、女の同伴者の紳士の咽喉のどの奥から、黒い魔術師の指さきにつまみ出された。真昼間のアラビアンナイト。
がら・がら・がら・がら!
ぶるるるるるるる!
 黒人の眼は異様に輝きを増し、扣鈕ボタンだけでは面白くないからと客に投げ銭を求める。あちこちからお金が降る。その白銅や銀貨がつぎつぎに彼のポケットへ消えて、代りに何羽ものひよっこが甲板を這い出す。「もっとお金を! もっとお金を!」と黒人が叫ぶ。ようやく気が付いた観客は、金のかわりに苦笑を与えて散らばりはじめる。この浮き足立った群衆を食い止めようとして、黒人の額には黒い汗の粒々がにじみ、その一つ一つをかっと照りつけて、ポウト・サイドの太陽は麺麭屋ベエカリーの仕事場のように暑い――「がら・がら・がら・がら」船客中の子供達のあいだに、直ぐもう甲板の方々でこの真似が流行はやり出している。
 船の周囲は、商隊の乗り捨てた小舟で埋立地のようだ。遠くからは、せみの死骸に蟻がたかったように見えるに相違ない。海上のそこここに同じ集団が散在している。青煙突ブルウ・ファネル英吉利イギリスの貨物船・黄地にQ字の検疫旗を揚げたメサジェリイのふらんす船・デラクサ号は伊太利イタリー船だ。下に、船籍港ナポリという字が運河の水に白く揺れている。
 九時半上陸。
 桟橋までさんばん
 甲板給仕デッキ・スチュワアド船腹梯子ギャング・プランタに立って艀舟はしけを呼ぶ。声に応じて、幾つもの赤い土耳古トルコ帽がを操って殺倒する。上陸する女客たちは、大げさに怖がって、水夫の手で小舟へ助け下ろされる。彼女らは、ボア・ドュ・ブウロウニュへでも散歩に行くつもりで澄し込んだのだ。みんな、これから探検しようとする異国空気の期待に上気して、頬を紅くしている。どの小舟も、そういう女達を満載して、用もない嬌笑とはしゃいだ歌声が水面を流れる。
〔Pardonnez a` mon bavardage
J'en suis a` mon premier voyage.〕
 BRAVO!
 形式として、一まず税関の柵内を通り過ぎる。
 ち・ち・ち・ち――と手のなかの土耳古銀ピアストルを鳴らして往手に立ち塞がる両替屋の群、掴み掛るように乗用を促す馬車屋の一隊、それらを撃退して市街へ出ると、町角、店先、往来のいたるところに同じ船の連中が三々伍々している。寄港は、長い航海中での祭日だ。誰もかれも必要以上に着飾って、石炭の風と起重機クレインの唸りの本船から脱出して来たらしい。
 婦人客たちは、久しぶりに帽子をかぶったので、すっかり顔違いがしてまるで別人のようだ。みんな悪戯いたずら好きらしい眼つきをして歩道の石畳を蹴っている。
 私達の一行も、児童のような驚異と好奇で一ぱいだ。
 やあ! 来たぞ! 来たぞ! アラビヤ人が来たぞ! うふっ! 堂々たる髯だなあ!
 そうかと思うと――。
 あ! 何だいあれあ! え! 埃及エジプトの女だって? 鼻柱へ輪のついた棒みたいな物を立てて、黒いヴェイルを垂らしてるじゃないか。おい君、そばへ寄ってそのあらたかなヴェイルを引っ張ってみたりしちゃあいけないよ。だから外国人は下品だって言われるんだ。黙って遠くから感心して居給え。通る人が笑ってるじゃないか――。
『あのアラビヤ人はにせものね。』
『なぜ?』
『だって駱駝らくだに乗ってないじゃありませんか。』
 なんかと、きょろきょろ立話していると、その問題のあらびや人が引返して来て、そっと私の肘を突ついた。そして「堂々」たる白髯の奥から彼がささやく。
旦那マスタア! 春画オブシイン! 春画オブシイン!――ちょっと婦人方に背中を向けて、まあ、一眼でいいから私の手許を御覧なさい。ほう! これ! 素敵だね! え? 早く! 旦那マスタア春画オブシインだよ、ほら!』
 辟易して、出鱈目に歩き出そうとする。
 と、何か足に引っ掛るものがある。人間だ。人間の子だ。うっかりしてるうちに、この少年は無断で私の足に掴まって、靴磨きを開始していたのだ。危く踏まれそうになるのも構わず、膝で追っかけて来て、すっかり磨かせてくれと言う。そしてもう片手では、代金を要求しているのだ。
 こうなると、立ちどまることは許されない。停まるが早いか、くだんの靴磨き少年をはじめ、例の春画売り、絵葉書屋、煙草屋、両替屋、首飾屋、指輪屋、更紗さらさ屋、手相見、人相見のやからが翕然きゅうぜんと集合して来て、たちまち身動きが取れなくなる。街上をあるいていてさえ、どこからともなくいきなり駈けて来て、足下に平伏するやつがあると思うと、すでにそこで二つの真鍮のコップを叩いて「がら・がら・がら・ぶるるるる」をり出している。蹴り飛ばして前進するわけにもゆかず、と言って、愚図々々立往生をしていて見給え。直ぐさま背後うしろには物売りが人垣を作り、まえの商店からは腕力家の番頭が走り出て来て、有無を言わさず君を店内へ拉致するだろう。
 ポウト・サイドは、都会と呼ぶべくあまりに統一を欠いている。それは、欧羅巴ヨーロッパでもなし、亜細亜アジアでもなし、そうかといってあふりかでもない。言わば、この三つの大陸を結ぶ運河の口の共同バザアなのだ。白色と有色と、二つの文明のどちらから見てもせきに当っている。だから、まるで蛇籠のように、両系統の文化の流れの汚物ばかりが引っかかってポウト・サイドはこんなにもこの強烈な日光に臭く蒸れているのだ。
 これは、商店だけで出来ている町なのかしら。住宅というものが眼に付かない。
 安宝石の店の猶太ユダヤ人の鼻、菓子屋の女のよごれたエプロン、仏蘭西フランス語の本屋の窓に出ている裸体写真、東洋煙草店、大道でメロンの切売り、果物屋のはえ、自動車庫の油の小川、塵埃ごみだらけの土産物店の硝子ガラス箱、その中の銅製花瓶、象形文字の敷物、ダマスカス鉄の小武器、すふぃんくす形の卓灯スタンド、金箔塗りの装飾網、埃及柱オベリスクかたどった鉛筆、その他考え得られるすべてのナンセンスが、憧憬の東洋の夢として売りに出ている――BRAVO!
 それにしても、全市民が家をからに、街頭に伏兵して私たちを待ち構えていたに相違ない。
 裸足はだしの少年靴みがき団を筆頭に、花売り娘、燐寸マッチ売子、いかさまさいの行商人、魔窟の客引き――そう言えば、このポウト・サイドには、土人区域の市場を抜けて回教堂モスクの裏へ出ると、白昼、数時間寄港の船員や旅行者を相手にする、陰惨な点で世界的に有名な一廓がある。波止場で馬車に乗ってただ黙って笑えば、馬車屋のほうで心得ていてそこへ案内するにきまってるほどの名所である。
 では、レディ達をルウ・ドュ・コマルス街の珈琲コーヒー店の椅子へ一時預けにしておいて、出帆前にちょっとそのポウト・サイドの奥の奥と言うのを覗いて来るとしようか。
 馬車で行こう。
 がら・がら・がら・がら――焼けた敷石に車輪を鳴らして、僕らはいま、あらびっくで何々シアリ―― Sharieh ――と呼ばれる大通りを走らせている。
 両側は、マホメッドの人種市だ。
 店という店から人が飛び出して声をかける。
“Thisway monsieur colonel !”
“Here you are,anata―anata !”
 片眼を残して顔半分潰瘍かいようし去った埃及エジプト人が、何かを売りつけようとして馬車を離れない。が、これでまだ動いてるからいいようなものの、もし、そこのキャフェの張出タレスにでも腰を下ろして、これでまあ行商人達を撃退してよかったなどとほっと安心していようものなら、たちまち蠅のような彼らに包囲されて靴磨きの子供は足へ取りつき、春画売りは恐るべき色眼を使って袖の陰から絵を覗かせ、宝石屋は君の鼻先へ首飾りをぶら下げ――そうして君は、君はとうとう癇癪を起して靴みがきの耳を引っ張り、春画売りを大声叱咤し、宝石屋を殴り飛ばして、あわれ逮捕の憂眼うきめを見ることとなるであろう。
 通行の群集はまるで世界中の敗残者から成り立っている。希臘ギリシャ人・東邦人レヴァンテン・あらぶ・埃及エジプト人・とるこ人・シリヤ人・回教を信じようとしない「西方から来た白い悪魔」たち・遊牧の貴族べずいん人。その黒くうるんだ大きな瞳・鼻筋から両眉のあいだへ円く巻いて渡した銅の針金・房付帽タアブウシュ長袖下衣キャフタン・薄物・布頭巾タアバン冠物附外衣プルヌウス・頬を線状に焼いた装飾・二の腕の桃の刺青ほりもの
 狭い東洋の門戸――PHARAOHの国。
 Rue du Nil 街は、木造建築の銀行と煙草の屋台店――ここを下って、土人区へ這入る。
 巴里パリーでいえば古着古物屋町ラグ・ピッカアス・セクションだ。半暗と湿気と悪臭の横町が、迷園のように縦横に走り、やけにひさしの突き出た、原色塗りの低い建物がお互いにけあって並んで、誰かの言った「天刑病市ポウト・サイド」の感じを適切に裏書きしている。砂と埃・半裸体の街上の少年少女・トラホウムで赤い彼らの眼と・細い腕・病菌の沈澱してる路傍の黒い水溜り・胴だけで地べたに笑ってる乞食・骨と皮と耳ばかりの驢馬ろば・その脚の関節の真赤な傷口に群れているあぶ・邪悪そのもののようなキャフェの土間口・そこの軒下に立ってねぎかじっているアラビヤ人の木炭売り・往来の中央で反芻はんすうに口を動かしている山羊のむれ・通りを隔ててわめき合う会話・これら一切のうえに往き渡るむっと鼻をつくにおい――おまけに、ここらの台所は共同で、しかも野外である。道路の横に大釜が据えられて、口きり一ぱいに羊の脂肪が沸騰している。この釜のまわりの子供と蠅・それを叱る母親・一せい哄笑する町の人々・じつに盛大に混沌雑沓を極めている。
 波止場の附近では行商人に悩まされた。しかし、彼らはそれでも売るべき何ものかを持っていたが、もうここまで来ると、人は、売るべき何ものをも所有していない。だから、乞食は黙ってその病毒の患部を示し、子供達はわけもなく馬車を追って競争し、女はしきりに車上の行人にはだをあらわす。
 肉屋がある。血だらけな肉切り台は銀蠅で覆われてる。何という反食慾的な腐爛した臭気! そして、これはまた、何と悲しい麺麭屋ベイカリーだ! 店頭のぱんは、数度の発疹に蒼白く横たわって息づいている。不潔と醜怪。狭い往来は病気の展覧会だ。狼瘡ルウパス、風眼、瘰癧るいれき、それからあらゆる期程の梅毒――。
 馬車は急ぐ。
 老人の忘八ホア・マスタが、馬車と平行して走る。
『あらびやの女がいますよ。アラビヤの女が――。』
 右からも左からも色んな声が馬車を包囲する。
仏蘭西フランスの女! 大佐さんムシウ・カアネル!』
モハメッドのために!
モハメッドのために!

 と祈るように私語ささやくのは、盲目の老婆の手を引いた、ベズイン族の少女である。両頬に三本細く文身いれずみしてるのが、青い鬚のように見える。「モハメッドのために」幾らかくれと言うのだ。乞食には違いないが、それは表面で、内密には、即座に物好きな旅行者の求めに応ずる。道理で、乞食のくせに、ここらの住民のどれよりも小ざっぱりした服装をして、顔には白粉のようなものをまだらに叩いていた。
 この辺一帯がその町なのである。
 よろめいて立つ塔婆パゴダの並列。家々の窓から覗く土耳古宮廷妾オダリスクス王公側室サルティナス回教女ファティマ。何と貧しい淫楽の巷であろう! 植民地兵営の喫煙室みたいな前庭。その奥に、薔薇色の壁紙に広告用の掛け暦と、ひびの入った鏡とを飾った客間。全然生の興味を欠いた女たちの顔。洞穴のようにうつろな胸、睫毛まつげのない眼、汚点だらけの肌、派手なKIMONO、羅物うすもの下着シミイズ、前だけ隠すための無花果いちじくの葉の形の小エプロン――そんなものが瞥見される。
 彼女らは先を争って戸口から走り出てくる。キモノが宙に飛んで、皮膚の大部分に直接陽が当る。が、慣れた光景とみえて、誰も何らの注意を払おうとしない。ある一軒の家からは、純粋のあらびや女がふたり、せこけた両腕を伸ばして何か盛んに我鳴り立てた。英語の解る御者に訊くと、土地特有の生ぬるいビイルを一杯ずつ飲ませろと言ったのだそうだ。
 この恐るべきポウト・サイドの後宮ハレムをPASHAのごとく一順して、私たちは港へ帰った。
 あらゆる天候によごれたSS・H丸の姿が何と有難く見えたことよ!
 午後一時、石炭補充を終って出帆。
 がら・がら・がら・がら――錨を上げる。
 これから、今夜おそくまでスエズ運河がつづく。
 右舷スタボウドの岸を船とならんで、白く塗ったカイロ行きの汽車が、沙漠と熱帯植物を背景にことこと這っていた。

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