4
翌日、曇り。
午前十時、非常時の予行としてボウト・ドリルと消火演習がある。船客一同救命帯を着用してA甲板上のそれぞれの短艇位置へ整列する。汽笛や銅鑼が暗い海面を掃き、船員達が走り廻り、マストには発火現場眼じるしの旗があがり、稽古とは知っていてもさすがに好い気もちはしない。
めいめい紙片を渡される。
「海上の安全を期するため、船客各位に対する重要告知」とあるから、何を措いてもあわてて読んでみる。
一 御乗船後まず第一に左の件々御承知置きを願います。
イ 各自割当の端艇の位置。
ロ それに乗る場処、並びにそこに到る順路。
ハ 救命胴衣或いは救命浮帯の着用方。
右に就き御不審の廉がありましたら、船員にお尋ねを願います。
二 万一本船遭難の際は、汽笛長声一発とともに銅鑼を連打致します。この信号をお聞きになりましたら、直ぐ救命胴衣あるいは救命浮帯を御着用の上、甲板上に御参集を願います。
三 もし各自割当の端艇を降ろすことが出来ない場合には、反対側の甲板上に御参集を願います。
四 遭難の際には始終受持指揮者の命を固くお守り下さい。
五 端艇内に手荷物お持ち込みの儀は堅くお断り致します。
六 端艇操練。
平素端艇操練を行う場合には、予めお知らせ致します。しかして愈々開始の際には汽笛長声一発とともに銅鑼を連打致します故、直ぐ救命胴衣あるいは救命浮帯を御着用のうえ、定めの場所へ御参集を願います。
私たちのボウトは第二号艇である。
曇天つづき。
寒いので、まだ甲板ゴルフも輪投げもテニスもはじまらない。雑談と喫煙。酔っているのか、船室に閉じ籠ったきり顔を見せない人も多い。
倫敦から乗込みの日本人客はたった四、五人で、他はすべて西洋人だ。
ビスケイ湾――ここの荒れないことはないと言われている。例外なく、今度もかなり
がぶる。が私は勿論、彼女もすこしも酔った気分を知らずに過ぎる。
倫敦から三日目の朝。船はビスケイを済まして
葡萄牙の海岸近く南下する。私達が去年の冬を送って、何艘ものこの航路の船を望遠したエストリル村の家々と、あのホテルの建物さえはっきり見える。私達は双眼鏡に
獅噛みついて、三階の窓と、そこに張り出ているヴェランダを発見して狂喜した。そして、やがてリスボンの町の空と一しょに海岸全体が水平線のむこうに消えるまで、眼のまわりに眼鏡のあとを赤くつけて、いつまでも立ちつくしていた。
倫敦・じぶらるたる――一三一八
浬。所要時間、三日と二十三時五十分。
船のへさきに
赭茶けた土と、緑の樹木と、無線電信の高柱と、山鼻の大岸とをもったジブラルタルが海の夢のようにぽっかりと浮かび上った。
私は、小学六年生の頃に、何てことなしにこのジブラルタルという地名の響きが無性に好きで、当時の小学生らしくこんな短歌みたいなものを作った記憶がある。
赤き帆のヨット走れり波分けて
ジブラルタルの夏の海をば
というのだ。私が妻にこの話をすると、彼女は断髪を薫風に与えて微笑した。
夏ではないが、このへんはもう夏げしきである。ヨットも走っていた。
英吉利海軍の
快走艇だ。が、幼い歌人の幻滅にまで、帆の色は赤ではなかった。陽に
褪せて白っぽくなったカアキイいろだった。
同船の誰かれ――日本人学生N氏とN氏夫人の英吉利婦人、T大学医学部教授T博士、などとみんな一緒に上陸して、出帆までの町の内外をドライヴする。坂・植物・狭い
大通り・不可思議な活動常設館・両側の土産物店・貝細工・
卓子掛け・
西班牙肩絹・大櫛・美人画・闘牛士装束など。ムウア土族の市場を見、郊外の国境を越えてちょっとすぺいん領へ這入り、山下の道を一巡して帰船する。
出港後間もなく、岬をかわしたところで、横浜からマルセイユを経て来て、これから
倫敦へ行こうとしている同じNYKのH・Z丸に出会した。巨船二艘、舷々
相摩さんばかりの壮観である。
往き大名と帰り乞食が洋上に挨拶する。マストに高く信号旗がひるがえるのだ。
赤と黄の
斜の染分け・白に青の先が切れ込んだの・赤白青の縦の三色――この三旗はそれぞれにO・A・T
羅馬字を示し、O・A・Tはここに一つの意味を綴る。I am glad to see you,「お眼にかかって嬉しい」というのである。これに対する応答――T・D・Lの三つの旗。即ち Bon Voyage !「安全なる御航海を祈る」。
同時に
相方で、Y・O・Rの旗を上げる。「
多謝」である。そして、
擦れ違う。
海の通行人は騎士のごとく
慇懃だ。が、全船員は各自その船べりに重なり合って、船同士の儀礼を破壊して日本語で叫びかわす。
わあい!
やあい!
しっかりやってこううい!
ばかやろううっ!
さきへけえるぞううっ!
うまくやれよううっ!
ジブラルタルから馬耳塞まで――六九七浬。二日と一時間五十分。
マルセイユ――「世界悪」の輸出港。朝は灰色、正午は暗く、夜は明るい市街。雨で蛇の鱗のように光る歩道。それを反映して赤い空。キャナビエルの大街。裸女見世物の勧誘人。頬の紅い女達の視線。酔ってふざけ散らして歩くP・Oの水夫連。はだか人形を並べた煙草屋の飾窓。MATTIの緑色タキシ。ヴォウ・ポルトの入江の帆柱。花環を担いだ男たち。笑って来る陽やけした女の一軍。点々と彼女らの腕から溢れる花。諸霊祭の夜。ケエ・デ・ベルジェの混雑。シャトオ・ダフ往きの小蒸汽船。星と街灯に装飾された新聞売台。ジョリエットや聖ラザアルの貧民街から出て来る船乗りの遺族たち。海岸の木棚の共同墓碑。「故何のたれ――海で死んだ。その父のごとく、また祖父のごとく。」午後は満潮を待って花流しの式。毎年の例。長い桟橋の列。重い貨物自動車の縦隊運動。後からあとからつづく満員電車。石炭の山。荷物の丘。塵埃の塹壕。汗をかく起重機。耳を突く合図の呼子。骸骨のような貨物船。赤く錆びた鉄材の荒野。鳥打帽をかぶって首に派手な布を巻いた波止場の伊達者。眼の円い労働者たち。脚の太い駄馬の下を潜って遊び狂う子供らの群。蒼いアウク灯の堵列。鎖の音。汽笛。マンドリンで「君が代」を奏しながらH丸の下で投げ銭を待つ伊太利人の老夫婦。ドックに響く夜業の鉄鎚。古着と安香水を売りに船へ来る無帽の女。尼さんの一行。白衣の巴里ベネデクト教団。黒服の聖モウル派。ノウトルダムの高塔。薄陽。マルセイユ出帆。
錨を上げる。
ナポリまで四六二浬。一日半の地中海だ。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] 下一页 尾页