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踊る地平線(おどるちへいせん)12海のモザイク

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-27 7:04:51  点击:  切换到繁體中文

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 踊る水平線へ――!
 がたん!
 ――という一つの運命的な衝動を私達の神経へ伝えて、私たちの乗り込んだNYK・SS・H丸は倫敦ロンドン・横浜間の定期船だけに、ちょいと気取った威厳と荘重のうちにその推進機の廻転を開始した。
 倫敦テムズ河上、ロウヤル・アルバアト波止場ドックでである。
 ここで多くの出帆がそうであるように、一つの劇的な感傷が私たちの心もちに落ちるんだが、それより、まず、どうして私たちがこの特定のSS・H丸に乗船しているのか――その説明からはじめよう。
 葡萄牙ポルトガルの田舎のエストリルという海岸にいた頃だった。ちょうどホテルの私達の部屋が、海へ向ってヴェランダにひらいていた。ホテルは小高い丘に建っていて、その上、私たちのへやは三階だったから、そこのヴェランダからは大西洋に続いている大海の一部が一眼だった。冬だと言うのに毎日初夏のような快晴で、見渡す限りの水が陽炎かげろうに揺れていた。海岸にはユウカリ樹が並んで、赤土の崖下に恋人達が昼寝していた。私たちはいつもヴェランダの椅子にかけて、朝から晩まで、移り変る陽脚ひあしと、それに応じて色をえる海の相とを眺めて暮らした。
 日に何艘となく大きな船が水平線を撫でて過ぎた。その多くは地中海巡航や南米行きだったが、なかには、欧洲航路に往来する日本の船もあるはずだった。こうして日課のように沖を望見しているうちに、私達はいつの間にか、船体の恰好や、煙突の工合で、重な会社の船ぐらいは識別出来るようになった。ことにNYK――日本郵船の船は直ぐにわかった。私たちは、沖を左から右へ、日本から倫敦ロンドンへ往く途中の船を見ては、希望とあこがれに燃える故国の人々を載せているであろうことを思い、その反対に右から左へ、倫敦から日本へいそぐ復航船を眺めては、私たちもやがて、日本へ帰る日のさして遠くあってはならないことに、今更のように気づいた。そして、それらの日本船に乗ってポルトガルの沖を過ぎる人々のうち、船から見える海岸のホテルの一室に私たち日本人夫婦がもう一月の余も住まっていて、いまもこうして望遠鏡を向けていようなどとは、誰ひとりとして考える人もあるまい。こんなことを話し合って、まるで島流しにでもされているように、私達は淋しい気持ちになったものだった。
 で、近いうち、あの船の一つに乗って、この沖を通って日本へ帰ろう――いつしか二人のあいだに、こういう暗黙の契約が成立してしまっていた。
 じっさい、日本を出てから、その時でう一年近く経っていた。したがって、もう一度出直して第二次的な土地を廻ってみることにしても、今度はこれで切り上げてともかく日本へ帰りたいという気が、私たちには強かった。それが、葡萄牙ポルトガルエストリル沖を過ぎる船によって、こうして無意識に刺激されたのだった。
 それから、モンテ・カアロで新年を迎えて、一月の末から二月へかけて、私達は南伊太利イタリーのナポリにいた。ホテルは海岸まえの「コンテネンタル」だった。しかも、二階の私たちの部屋の直ぐ下が、あの、海に突き出ている有名な「卵子の城カステロ・デル・オボ」で、その向こうの水面を、ここでも毎日、東洋通いの巨船が煙りを吐いて通った。なかでもNYKの船は一眼で判った。丸の字のついた名の船がよく桟橋に横付けになったり、小雨のなかを出港して行ったり、這入って来たりしていた。ポンペイを見物に行った日などは、あの、狭い石畳の死都の街上で、その寄港中の船の一つから下りたらしい何十人もの日本人の団体を見かけた。すでに漠然と決まりかけていた私達の帰国ばなしは、このナポリで日本の船を眼近に見ることによって急天直下的に具体化したのだった。私たちは、明日にでも帰るような気になって、代理店エイジェントへ出かけて、倫敦ロンドン横浜間のNYKの航海予告を調べたりした。そして、四月二十日倫敦出帆のH丸ということに、大体心組みを立てたのである。
 が、帰国のことだけはナポリで決定したものの、全欧羅巴ヨーロッパを歩きつくすためには、私たちの前には、まだ残っている土地がある。で、早々に伊太利イタリーを離れた私達は、北上して雪の瑞西スイツルに遊び、そこから墺太利オウスタリー維納ウインナに出て、あのへんを歩き廻ってチェッコ・スロヴキアへ這入り、プラアグに泊り、それから独逸ドイツを抜けて巴里パリーへ帰ったのが三月末だった。巴里は以前に二、三度来ているので、旬日滞在ののち倫敦へ渡って、古本の買集めや、見物の仕残しを済ますために日を送り、やっと二十日のこのH丸に間に合ったのだった。
 切符も買い、支度も調い、暫らくの滞英にも前からいろいろと知友も出来ていたので、そこらへの顔出しも済まして、あとは手をつかねて乗船の日を待つばかりの心算だったのが、ここに急に思いがけない困難が降って沸いたと言うのは、じつは買い込んだ書籍の発送方についてであった。
 というのは、いざという間際に大工でも呼んで来て見せたら、きっと荒削りの板で幾つか木箱でも作ってくれるだろう。それが一番格安でもあり、便利だと、迂闊に日本風に考えていたのだが、出帆の日も迫ったのであちこち聞き合わしてみると、日本と違ってそこらの町角や露路に棟梁のうちがあるわけではなし、さんざ困った揚句、それではと言うので箱から荷作りまですっかり運送屋に一任することにした。ところが、これが、箱一つ造るのに十日あまりもかかるとあっては、とても急場の間に合わない。おまけに、本箱一個十円以上もする。というと、ワニスか何か塗った本棚代用の箱でも想像する人があるかも知れないが、なるほど、馬鹿固い英吉利イギリスの人の仕事だけに、巌畳がんじょうな点は可笑しいほど巌畳を極めたものに相違ないけれど、要するに、送る途中だけ用に足りればいいのだから、第一、そんなに非常識に丈夫であることを必要としないし、何と言っても、石油箱の大きなののような、ろくかんなもかけてないぶっつけ箱が一ポンドもするとは驚くのほかはない。しかし、これも考えてみると無理もない話で、英吉利は、というより欧羅巴ヨーロッパは一般に、石や鉄には事を欠かない代りに、木材には案外不自由している。おまけにべらぼうに手間賃が高いのだから、荷送り用の雑な木箱でさえ、これだけ取らなければ引き合わないのである。早い話が、ちょっと店へ買物に這入っても、売子が品物をすすめながら第一番にいう言葉は、ちゃんときまってる。「これは handmade で御座いますから」と言うのだ。つまり、職人が手で造った物だから恐ろしく贅沢である。従って値段も高いという意味なのだ。この言い草はわれわれ日本人には不思議に響くけれど、機械製品に飽きている向こうの連中にはこの上なく有難いとみえて、ことに亜米利加アメリカ人なんか「手作りハンド・メイド」とさえ聞けば、どんなにけたはずれな高値をも即座に肯定して、随喜の涙とともに否応いやおうなしに買い取って行く。だから各地のお土産店でもすっかり心得ていて、人形一つ出しても「手づくりハンド・メイド」、ハッピイ・コウト一枚見せるにも「手作りハンド・メイド」、灰皿を買おうとしても「手造りハンド・メイド」――そこで、値が張っているのだと言う。こんなふうに、何からなにまで「手づくり」の一枚看板で下らない物を高く売りつけようとするし、また、そう聞いただけで、詰らないものに大枚の金を投じて惜しまない人が、じっさいすくなくないのだ。そんなことを言ったら、日本人の生活品なんか片端かたっぱしから「手作りハンド・メイド」だ。こう言ってやると、みんなびっくりして仲々ほんとにしない。それもそのはずである。たとえば倫敦ロンドンのマンフィイルドで靴を買うにしても、まあ二ポンドも出せば相当なのが手に入るんだけれど、これが、ちょっと底の皮を手で縫いつけたというだけで、公然と五ポンドの値を呼ぶ。するとここに、そこはくしたもんで、何かしら他人と変った高価なものでなければ気が済まないという、ぶるじょあ階級の凝り屋があって、そんなのを探し出して得意になっている。品質も見たところも二ポンドのと同じなのに、単に底が手縫いだというところだけで、三磅も余計に払って怪しまないのである。もっとも、このマンフィイルドの靴の場合は、事実手縫いのほうが遥かに丈夫で長保ながもちすると言うけれど、買う方は、何も長もちさせようと思って買うのではない。要するに「手作りハンド・メイド」だから高値たかい、そして高値が故にのみ手が出るのである。こうなると、日本におけるわれわれの生活なんか、じつに贅沢を極めていて、ざっと身辺を見廻すところ、およそ「手づくりハンド・メイド」でないものはないようだ。考えて見ると、西洋では、ことに亜米利加アメリカあたりでは、人間の工賃が高くて機械による生産費のほうがずっと安く上るから、何でもかんでも劃一的に機械で多量生産してしまうんだが、機械では巧緻こうちな味が出ないとあって、このとおり手工芸品が大歓迎である。言わばこの現象は、近代資本主義制度の世の中にあって過去の産業封建時代の遺物を愛するといった、変態的骨董こっとう趣味の一つのあらわれに過ぎないかも知れないが、一体人には、よかれあしかれ、自分にないものをあこがれ求める共通性があるもので、ちょうど同じことが「あちら」と日本の生活様式の相違についても言えると思う。つまり、むこうでは、粗抹な荷箱が一つ十円以上もするほど、木材がすくなく、したがって値段が高いところへ持って来て、石や鉄の建築材料はふんだんにあるから、そこで、ああいう形の文明が発達したわけで、日本ではちょっとした物がすべて「手づくりの木製である」と教えてやると、「何という高級な!」なんかと心から恐れ入っている。ところが、その本国の日本には、何からかにまで石や鉄で作らなければ文明と思わず、しかも機械製でなければ承知しないで、それをもって西洋風だと信じている感ちがいの亜流者が多いから笑わせる。これはとんでもない穿き違いだ。ほんとに西洋流で往こうと言うなら、すべからく「手作りハンド・メイド」を感謝し、木製物を尊び、そうして日本の生活の手近ないたるところにその極致を発見して、大いに得々とすべきである。これは、私のよく謂う「西洋を知り抜いて東洋へ帰る心」に、形だけにしろ、一脈通ずるものがあるのである。
 ところで、理窟は第二に、帰国の日が近づいたのに書籍を積み出す方便がなくてすっかり困ってしまった。仮りに一個十円でもいいとしたところで、十箱も作らせると百円である。おまけにどう急がせても間に合いっこないのだ。さんざん考えた末、これは新たに造らせるからこんなに高価たかいんだろうということになって、そこで方々の書物商、酒屋、乾物商、葉茶屋などへ人を急派して探させてみたが、どの商店にもほとんどないし、二、三あるにはあっても、小さ過ぎたり、概して弱くてお話にならない。しかもそれが例の「手芸木製品」だとあってなかなか安くないのである。詰らない事柄だが、私はこれによって、今まで気がつかなかった大英国の一欠陥を発見したと思った。気が利かないといおうか、即座の間に合わないと言おうか、とにかく、この時ほど英吉利イギリスの社会を不便だ、間が抜けてると感じたことはなかった。
 そのうちに、或る人の話で、私は早速タイムスのブック倶楽部へ駈けつけた。ここでは、大戦中に英吉利の政府が弾薬の輸送に使った箱を、本を送るためとして一般に売り出していると聞いたからだ。が、飛び込んで行って実物を見ると、やっぱり当てが外れてしまった。第一、四六判の洋書が二十冊も這入ると一杯になるほどの大きさしかなく、それに、本来の目的が目的だけに莫迦に頑固に出来ていて、内部がとたん張りか何かで空っぽでもい加減重いのだ。これで本を送った日には半分以上は箱の郵税になってしまう。送り出すと言っても、私は自分の船へ積んで身体からだと一緒に行くんだから、何もそう堅牢であることは要しないが、そのかわり相当大きくて少数で済むほうがむしろこの際の条件なのである。
 と言ったふうに、乗船近くなってから苦しみ抜いた結果、ふと考えついたのが、どこの店ででも売っている繊維質ファイバアのトランクである。すぐさま近くの百貨店ボン・マアシェへ出かけて行ってみると畳一枚に近い大きさのが、たった十三シリン――約六円半――だ。繊維性の布に防水塗料をかぶせたもので、それでもあちこちに金具が光り、二個所に鍵までかかるようになっている。何しろ、持ってこいの大きさで、しかも立派なトランクだ。で、これだとばかりにそれを六個揃えて立ちどころに用は足りたが、そこで、私は考えたのである。
 ただの板を釘づけにしただけの荷造り用の木箱でさえ、約十円の一ポンド――二十シリン――もする。タイムスの弾薬箱にいたっては、蜜柑みかん箱ほどもなくて十シリン――ざっと五円――である。それだのに、この巨大なトランクは、「巨大」であり「トランク」であるにもかかわらず、「木製」でなく、「手造りハンド・メイド」でなく、「機械による多量生産」であるために、たった十三志なのだ。これほど私のこころを打った東西文化の方向の相異はない。じつによく両者の食いちがいをあらわしていると思う。これを言いたいためにのみ、長ながとこのエピソウドを書いて来たのだが、せんじ詰めると、いたずらに先方の真似をしないで、わが特長を伸ばして往く以外に、私たちの進展の途はないということになる。
 このトランクは非常に重宝した。木箱や弾薬箱は、送って来て日本へ着いてしまうと、こわしてお風呂のまきにするくらいの用途しかないが、トランクなら、物を入れて保存して置くのに子々孫々まで役に立つ。
 これらのトランクは、当分私達の家に異彩を放つことだろう。書物とは限らない。英吉利イギリスから何か送るには、迷わず繊維性ファイバアのトランクに入れることだ。

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