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踊る地平線(おどるちへいせん)10長靴の春

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-27 7:02:20  点击:  切换到繁體中文


     7

 羅馬ローマのホテルから廻送して来た、彼女の手紙を、私は、ナポリで見た。
『私は、あなたに報告しなければならない、一つの誤謬を発見しました。それは、いつか申し上げた、私の尾行者に関してです。彼は、確かに、私を尾行していました。けれど、彼の尾行の意思は、決して私が思ったような、政争的な、物騒なものではなかったのです。あなたは、羅馬で、スカラ・サンタという寺院の内部を御覧になったことがあるでしょう。あそこの正面の大理石階段は、十字軍の末期に、エルサレムから持って来たもので、基督キリストが、ピラトの審判を受ける時に上った階段であると伝えられています。ですから、参詣の女は、あの階段だけは、必ずひざまずいて昇らなければならないことになっているのですが、あの、急な二十八段を膝で上るのですから、洋袴スカア卜の短い、この頃の若い女などは、随分余計な苦心をしなければなりません。
 以前はよく、男達が、それを下から見上げていて、これという狙いを付けたものです。そして、お寺から、その女を尾行して行って、住処じゅうしょを突き留めます。それからは、毎日女の家を見張っていて、女が外出するびに、尾行を続けるのです。そして、いつからとなく、そのうちに交際が始まって、やがて、目的を達するかも知れない日を、男は、根気よく待つのです。この習慣は、何もスカラ・サンタの寺院にだけ限られているわけではありません。これは、一つの例で、伊太利イタリーでは、どこでもやっていることです。結婚も、野合も、この経路から生れるものが、かなりに多いようです。私は、この「服装」でスカラ・サンタへおまいりしたわけではありませんが、私の尾行者は、どこかで私を見初みそめて、それから、この尾行を始めたものに相違ありません。彼は、私を恋していると言うのです。恋だそうです! 何という馬鹿な男でしょう! あなたは、そうはお考えになりませんか。』
 シシリイ島、ソレント、カプリ島、フロウレンス、ミランと、私は、この「長靴」に、予定以上の日数を持ってしまった。
 そして、ヴェニスで、私は、春の跫音あしおとを歓迎した。
 ヴェニスの春は、第一に、温みかけたグラン・キャナルの水が、親切に知らせてくれた。
 私は、長靴の伊太利から、明るい春の煙りが、カラカラ浴場跡の雑草のように、生々いきいきと沸き上るのを見た。
 ゴンドラを繋ぐ、理髪屋とこやの標柱のような彩色棒の影が、水の上で、伸びたり縮んだり、千切ちぎれたり附着したりして、一日遊んでいた。
 裏町では、毎日、窓から窓へ、夥しい洗濯物の陳列会が開催された。
 泥柳が、岸に堵列して、晴天を祝っていた。
 私は、溜息の橋ブリッジ・オヴ・サイの下に、ゴンドラを流して、ヴェニス市民の全生活を、そこの石垣の根に眺めて暮らした。ヴェニス市民の全生活が、その、赤土あかつち沼のような水の表面を、ゆるく旋廻して通り過ぎつつあったのだ。それは、古靴の片っぽ、破れた洋傘こうもり、果物の皮、死んだほうき、首のない人形、去年の雑誌、無生物になった仔猫など、すべて、この町の春の支度に用のないものばかりだった。
 こうして、一九二九年の春は、長靴から立ち昇っていた。
 が、このヴェニスのホテルの酒場で、私は、ルセアニアの商人に化けて、密かに這入り込んだ「黄色い嘴ベッコ・ジャロ」の若い論説部員が、羅馬ローマへ着くと同時に、逮捕されたことを聞いた。彼は、前夜から同室していた刑事に、徹宵てっしょう警戒されていたのだということだった。
 しかし、私は、それ以上、いろいろなことに思い当った。
 第一、その論説部員は、同室の刑事に、徹宵警戒のため抱擁されていたのだ。
 そして、刑事は、外国人のひとりとして、私をも注意視し、私の行動を追うために、車内で問わず語りにベニイのことを饒舌したり、ホテルを嗅ぎ当てたり、自動車会へ呼び出したり、ナポリへ手紙を送ったりしたのではなかったか。
 私の眼に、ヴァンテミイユ羅馬ローマ間の国際特急を移動管轄している、ムッソリニ直属の外事課高等刑事の乳房と、彼女の下腹部の黒子ほくろが、瞬間、浮かんだ。





底本:「踊る地平線(下)」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年11月16日第1刷発行
底本の親本:「一人三人全集 第十五巻」新潮社
   1934(昭和9)年発行
※底本には、「新潮社刊の一人三人全集第十五巻『踊る地平線』を用いた。初出誌および他の版本も参照した。」とある。
入力:tatsuki
校正:米田進
2002年12月9日作成
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