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羅馬のホテルから廻送して来た、彼女の手紙を、私は、ナポリで見た。
『私は、あなたに報告しなければならない、一つの誤謬を発見しました。それは、いつか申し上げた、私の尾行者に関してです。彼は、確かに、私を尾行していました。けれど、彼の尾行の意思は、決して私が思ったような、政争的な、物騒なものではなかったのです。あなたは、羅馬で、スカラ・サンタという寺院の内部を御覧になったことがあるでしょう。あそこの正面の大理石階段は、十字軍の末期に、エルサレムから持って来たもので、基督が、ピラトの審判を受ける時に上った階段であると伝えられています。ですから、参詣の女は、あの階段だけは、必ず跪ずいて昇らなければならないことになっているのですが、あの、急な二十八段を膝で上るのですから、洋袴の短い、この頃の若い女などは、随分余計な苦心をしなければなりません。
以前はよく、男達が、それを下から見上げていて、これという狙いを付けたものです。そして、お寺から、その女を尾行して行って、住処を突き留めます。それからは、毎日女の家を見張っていて、女が外出する度びに、尾行を続けるのです。そして、いつからとなく、そのうちに交際が始まって、やがて、目的を達するかも知れない日を、男は、根気よく待つのです。この習慣は、何もスカラ・サンタの寺院にだけ限られているわけではありません。これは、一つの例で、伊太利では、どこでもやっていることです。結婚も、野合も、この経路から生れるものが、かなりに多いようです。私は、この「服装」でスカラ・サンタへお詣りしたわけではありませんが、私の尾行者は、どこかで私を見初めて、それから、この尾行を始めたものに相違ありません。彼は、私を恋していると言うのです。恋だそうです! 何という馬鹿な男でしょう! あなたは、そうはお考えになりませんか。』
シシリイ島、ソレント、カプリ島、フロウレンス、ミランと、私は、この「長靴」に、予定以上の日数を持ってしまった。
そして、ヴェニスで、私は、春の跫音を歓迎した。
ヴェニスの春は、第一に、温みかけたグラン・キャナルの水が、親切に知らせてくれた。
私は、長靴の伊太利から、明るい春の煙りが、カラカラ浴場跡の雑草のように、生々と沸き上るのを見た。
ゴンドラを繋ぐ、理髪屋の標柱のような彩色棒の影が、水の上で、伸びたり縮んだり、千切れたり附着したりして、一日遊んでいた。
裏町では、毎日、窓から窓へ、夥しい洗濯物の陳列会が開催された。
泥柳が、岸に堵列して、晴天を祝っていた。
私は、溜息の橋の下に、ゴンドラを流して、ヴェニス市民の全生活を、そこの石垣の根に眺めて暮らした。ヴェニス市民の全生活が、その、赤土沼のような水の表面を、ゆるく旋廻して通り過ぎつつあったのだ。それは、古靴の片っぽ、破れた洋傘、果物の皮、死んだ箒、首のない人形、去年の雑誌、無生物になった仔猫など、すべて、この町の春の支度に用のないものばかりだった。
こうして、一九二九年の春は、長靴から立ち昇っていた。
が、このヴェニスのホテルの酒場で、私は、ルセアニアの商人に化けて、密かに這入り込んだ「黄色い嘴」の若い論説部員が、羅馬へ着くと同時に、逮捕されたことを聞いた。彼は、前夜から同室していた刑事に、徹宵警戒されていたのだということだった。
しかし、私は、それ以上、いろいろなことに思い当った。
第一、その論説部員は、同室の刑事に、徹宵警戒のため抱擁されていたのだ。
そして、刑事は、外国人のひとりとして、私をも注意視し、私の行動を追うために、車内で問わず語りにベニイのことを饒舌したり、ホテルを嗅ぎ当てたり、自動車会へ呼び出したり、ナポリへ手紙を送ったりしたのではなかったか。
私の眼に、ヴァンテミイユ羅馬間の国際特急を移動管轄している、ムッソリニ直属の外事課高等刑事の乳房と、彼女の下腹部の黒子が、瞬間、浮かんだ。
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