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踊る地平線(おどるちへいせん)10長靴の春

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-27 7:02:20  点击:  切换到繁體中文


     3

 トラモンタナと呼ばれる狂暴なアルプスおろしが、窓の外に汽車の轟音と競争して、私達に、今夜は暗いばかりでなく、恐らくは、粉雪を含んで寒いのであろうことを、間断なくらせていた。
 しかし、私達のコンペアメントは、感謝すべき装置で一ぱいだった。そこにはまず、万国寝台会社が、旅行好きな公衆と同業者とに誇る、そして誇っていい、照明と煖※だんぼう[#「火+房」、203-1]と装飾とが、好意ある経営をもって往き届いていた。
 模様入りの人造革を張り詰めた室内の壁には、白樺材を真似た塗料がせてあった。びょうが、掃除婦の忠実を説明して、光っていた。窓では、眼科医の色盲検査布のようにいろいろに見える、が、その実ただの緑いろの厚いカアテンが、私達の賞美を得ようとして、大げさに揺れていた。その下に、折曲げ式の、皮張りの板が立てられて、机の代用をしていた。それは、ルセアニア人の旅行用香水壜と、私のクック版大陸時間表とを支えていた。大陸時間表は、いくら私が注意して離して置いても、五分もすると、汽車の動揺に乗じて革の上を滑って行って、しきりにルセアニア人の香水壜に接吻しては、恋をささやいていた。が、この事実に気が付いたのは、私だけらしかった。で、私は黙って、二つを放任することにした。仏蘭西フランス語の文法から言えば、煤煙臭い大陸時間表は男性で、香水は、もちろん女性に相違なかったから。
 そのほか、私の正面には、ルセアニア人の羸弱フラジルな眼鼻立ちがあった。彼は、くびへ青い血管を巻いて、蓴菜じゅんさいのような指を組んでいた。そして、国際裸体婦人同盟員の耳へ、訳の解らない口笛を吹きつけていた。
 私が、視線を移動すると、今度はその尖端に、アストラカンの間から電灯へ微笑している彼女の胸部が、ぶら下った。光線は、何度反撥されても、露出している彼女の部分を愛撫しようと試みた。それは、酔った好色紳士のように、しつこかった。
 とうとうしまいに、我慢し切れなくなって、彼女は、外套を脱ぐと言い出した。そして、その弁解として、この部屋は熱帯性の怪物であると論断した。実際、室内は、万国寝台会社の心づくしのために、まるで赤道下の貨物船の釜前ダウン・ビロウのように暑かったのだ。が、この、彼女に外套を脱がれることは、私達の一番恐れているところだった。そこで、私は、ルセアニア人と素早く無言の評議を交したのち、二人を代表して、彼女に申し入れたのである。
『私たちは、もう暫くの間、表面古風な女としてのあなたを眺めていたいと思うのですが――。』
『なぜでしょう。』
 アストラカンを肩まですべらせたまま、彼女が反問した。
『こんなに理解のある方々とだけ、排他的に同席出来るということは、私にとって珍しい名誉です。私は自分の健全な自由さを極度に享楽出来る、こういう好機会を逃がしたくありません。』
御尤ごもっともです。しかし、ほんとのことを言うと、その、あなたの健全な自由に価値するほどの、教養も、準備も、自信も、まだ私達には出来ていないのです。私は決して、伝統という幽霊に屈服しているのではありません。ただ、あなた方の採用した新しい生活様式と、その刺戟には、まだすこしばかり慣れていないというだけのことなのです。言い換えれば、あなたの「服装コスチュウム」の前に、私達は、私たち自身が恐ろしいのです。お解りになりましたか。お解りになりましたら、外套を脱ぐことだけは見合せて下さい。もし強いて脱ぐと仰言おっしゃるんでしたら、私とこの名前は知りませんが、私の同室者は、きっと、私達の大嫌いな徳律の命令に服従して、寝台車掌コントロルウを呼んで、あなたを、あなたの車室まで送り届けなければならないことになるでしょう。それは、実に不愉快な事業で、私達も、その必要に迫られたくはないのです。』
 この駁論が作用して、一時彼女に、外套をぬぐことを中止させたらしかった。
 すると、そこへ、いま私が引用したばかりの寝台車掌が、飲酒の形跡と一しょに、顔を出した。もうこの部屋が最後だから、寝台を作らせてくれと言うのだ。
 私達は、眼で合議した。そして、私が答えた。
『困ったことには、私はまだちっとも眠くないのだ。』
『それからここに一つの告白がある。』
 ルセアニア人が続いた。
『この頃、頑固な不眠症が取っいていて、僕を離れないのです。』
『そう来なければうそです。』彼女がアストラカンの中から叫んだ。『多分私たちは、羅馬ローマへ着くまでのこの一晩を、自由に語り明かして使うことでしょう。共通の新しい思想に昂奮している私達にとって、寝て過ごすべくあまりに惜しい今夜ですから――。』
 車掌は、勝手にと言うように、帽子へ手をやって、廊下へ退いた。車扉ドアが流れて、音とともに外部を遮断した。
 彼女は、私達に向き直った。
『私は、多くの愉快な話材を、旅行用として、身体からだのあちこちに隠しているのです。』
 こう言って、彼女は立ち上った。
『何という常識のない暑さ! 私の判断では、確かにこの汽車は機関の余剰スチイムを車内へ向けて濫費しています。』
 そうして、彼女は、私達が抗議するひまもなく、今まで彼女を、外見上ほかの女と同種に呈示プレゼントしていた、その唯一のアストラカン外套の扮装を、とうとう見事に拒絶してしまったのである。
 私たちは、恥じ入った。ルセアニア人は、自分の神経と感覚を保護するために、出来るだけこの国際裸体婦人同盟から遠ざかって、窓ぎわの壁に密着した。彼は、溜息をいた。
 無警告に、裸体の全身が上へ伸びた。そして、彼女の手が、壁のスイッチに触れた。それが、もう一つ、万国寝台会社の到れり尽せりの魔術的設備となって現われた。車室の電灯が、緑色に一変したのだ。天井に、二つの電灯が一つずつくように仕掛けしてあって、釦鈕スイッチを捻ると、白い光りが自動的に消えて緑いろのが生き出すのだった。
 こうして、室内を濃い緑色に落して置いて、彼女は、その裸体を元の位置に返した。
 空気は、青苔の細胞で充満された。その密度を通して見る彼女の皮膚は、日光を知らない深海の海草のように、不気味に濡れていた。
 彼女は、脚を組んで、両手を膝へ挟んだ。
『これでいいでしょう。緑いろの光線は、正しいことを考えるのに相応ふさわしいものです。』
 私たちは、一時紛失した落着きを、すこしずつ取り戻して、国際裸体婦人同盟員の示威運動が、あまり邪魔にならなくなり出した。
 それでも、ルセアニア人は、先刻さっきから、ZIPの手鞄を開けて取り出した嗅ぎ塩スメリング・ソルトを、しきりに鼻へ当てていた。これは、気付けのためである。彼は、それを、まだ続けていた。
 汽車は、レイルを噛んでは、うしろへ吐き出した。外部の重い闇黒くらやみのなかで、もうジェノアが近づいているに相違なかった。どこかに港のにおいがすると、私は思った。しかし、それは、過度の熱気に一層発散し出して、この狭いコンパアトメントを今にも爆破しようとしている、窒息的な彼女の体臭を、私がそう誤認したのかも知れなかった。
 暫らくは、快活な汽車の奏楽と、緑いろの半暗電灯だけの世界だった。
 彼女は、自分の乳首の検査に熱中していた。が、直ぐ、彼女の顔が、私の方向へ起き上った。
『あなたは、新聞記者ジョナリスタですね。』
 驚きを隠すために、私は、答える前に、自然らしく耳の背部を掻いた。
『もしそうだとしたら、あなたはどうしてそれを御存じですか。』
『簡単なことですからです。ヴァンテミイユの旅券係のまえで、私は、あなたの直ぐうしろに立っていました。』
 これは、じつに満足な解答である。私は、そう言って笑い消すことによって、この話頭の転化を計ろうと望んだ。が、結果は、かえって彼女の追求を招いただけだった。なぜと言うに、彼女は、急に非常な秘密を打ち明ける人のように腰をずらして、出来るだけ浅く寝台に掛け直したからだ。
 そして、緑色の舌の先で、下唇をめた。
『あなたはジョナリスタです。その他、私には、あなたに関するいろいろなことが判ります。第一、あなたはこれから、羅馬ローマへ行って、シニョオル・ムッソリニに面会を申込もうとしている――そうでしょう?』
『何らの根拠もない、恐るべき断定だ!』
 私は、ルセアニア人に、援助を求める眼をやった。しかし、彼は、彼の嗅ぎ塩スメリング・ソルトといっしょに非常に多忙だった。私は、単独で彼女に対抗しなければならなかった。
『一体誰が、そんなことを言いました。』
読心術テレパセイです。私は、ノルマンディの漁村で、不思議な力を有する一人のお婆さんから、読心術テレパセイ手解てほどきを受けたことがあります。』
『おやおや? あなたの裸体に対する僕の心持だけは、読まれると困る瞬間がある。』
 ルセアニア人が、彼の楽しい塩壜の上から、声を持った。
『どうぞ茶化さないで下さい。ですから、私には、大概の人が、その希望も、その個人的難境も、一眼で判断出来るのです。そこで、当面の問題へ帰るとして、第二のあなたは、ムッソリニに会ったら、政治哲学上の議論などを吹っかけることは極度に排斥して、飽くまでも、亜米利加アメリカ産の訪問記者手法で往こうとしているでしょう。つまり、専門の智識なんかすこしも持ち合わせていない、無邪気な顔をして、莫迦げ切った質問ばかり発します。そうして、それによって、その返答を素材に、こっちで勝手に、あなたの好む通りの「人間」をこしらえ上げる。それは、この上なく賢明なり方です。公衆パブリックは、自分達の偶像との、こういう電光石火的面談記ライトニング・インタヴュウに胸を躍らせて愛読すべく、ジャアナリズムの英雄達によって、もう充分に教育され尽していますから、今あなたが、ムッソリニに対して、この方法を採用すれば、或る程度までの効果は期待していいはずです。』
 私は、一々自分の意図が、この国際裸体婦人同盟員の口から繰り出されるのに、新奇な驚異を経験しながら、それなら、仮りに私がムッソリニに会うとしたら、私は、果してどんな質問を次ぎつぎにポケットから取り出して、ムッソリニのどこを狙って投げつけべきであろうかと、彼女に訊いてみた。
 彼女は、そこから名案を叩き出そうとでもするように、一つの握りこぶしで、暫らく手の平を打ち続けたのち、やがて、注意深い小鳥のように、首を曲げて、言い出したのだった。

『1 一日に何時間眠りますか。或いは、何時に寝て、何時に起きますか。
 2 一番好きな食物は?
 3 一番嫌いな食物は?
 4 一番好きな葡萄酒は?
 5 一番好きなスポウツは?
 6 一番好きな格言は?
 7 一番好きな史上の人物は?
 8 一番好きな煙草は? そして、それを一日に何本おいになりますか。
 9 本はいま何をお読みですか。
 10 あなたの養生法は何ですか。
 11 もし、日課的に散歩なさるなら、規則ルウルとして犬をおれになりますか。
 12 あなたは、何個国語を話しますか。
 13 物心ついてからの、最初の記憶は何ですか。
 14 何があなたの少年時代の野心でしたか。
 15 あなたの一番幸福な瞬間はいつでしたか――今のほかに。
 16 あなたは、新しい靴のために足が痛む時は、いつもどういう方法を講じますか。
 17 忘れましたが、珈琲コーヒーには砂糖をお入れになりますか。お入れになるようでしたら、一つですか。二つですか。
 18 私は、あなたから読者への伝言メセイジとして、何を伝えたらいいでしょうか。
 19 このあなたのプロマイドに署名して下さい。
 20 いろいろ有難う御座いました。さよなら。

 そして、必ず正面を向いたまま、戸口まで後ずさりに歩いて、退出するのです。しかし、これには、絨毯に蹴躓けつまずいたり、出口のつもりで書棚の硝子ガラス戸に手をやったりしないように、大変な注意を要します。が、これだけ引き出せば、どんな偶像でも、人間の片鱗へんりんは覗かせるだろうから、そこを掴めばいいと、あなたは簡単にお考えのようですね。ところが、ムッソリニの場合だけは、例外なのです。』

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