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第二の場処「すすり泣くピエロの酒場」――モンパルナス羅典区、27, Avenue du Ch
neau。
再び一同を載せて、ぶうと山下を動き出した探検自動車は、またもや夜の巴里を走りに走り、廻りに廻って、空にはちかちかする星と赤い水蒸気と、地には、タキシの激流と歩道の散歩者と、光る街路樹と暗黒のベンチと、その上の男女の影とその下の野良犬と、ある広場にはあせちりん瓦斯をともして、襯衣一枚の大力士が次つぎに分銅を持ち上げて野天に人と鳥目を集めていたり、くらい横町に立つ女の口にシガレットの火がぽうっと浮かんだり消えたり、名だけ壮麗なHOTELルイ十四世――お泊り一人一晩。七法・種々近代的御便宜あり――の狭い入口に、毛布をかぶった老婆が占いの夜店を出していたり、それへ子供を伴れたお神さんが何やら煩悶を打ちあけていたり、一つの窓から、
Il est cocu, le chef de gare !
Il est cocu, cocu, COCU !
なんかとどら声の唄と一しょに笑いと葡萄酒――ボルドオ赤・一九二八年醸製――の香が流れてきたり、街角の巡査がその唄に合わして首を振ったり、その巡査に売春婦が「今晩は」して通ったり、灯の河の大街を横断したり眠ってる往来を過ぎたり、エッフェルが見えたり見えなくなったり、遠くの町を明るい電車が走っていたり停まっていたり――とにかくぶうとセエヌを渡って、昼ならば、古本・古物の市の立つ川端から、また暫らく走りに走り、廻りに廻ったわが探検自動車が、やがてぶうと漸遅したのが、これなる古い建物の玄関――外見は平凡な一住宅に過ぎない。
Montparnasse だ。ここは。
羅典区の夜――何という国境と習俗を無視した――もしくは無視した気でいる――智的巴里、芸術巴里の「常夜の祭り」がこのかるちえ・らたんであろう!
珈琲一ぱいで一晩かけているキャフェの椅子のやるせなさ。
――夜更けてあおるカクテル・ガラスのふちに、ほんのり附いたモデル女の口紅。
――向う通るはピカソじゃないか顔がよう似たあの顔が。
――絵の具だらけのずぼん・蒼白い額へ垂れさがる「憂鬱」な長髪・黒りぼんの大ネクタイと長いもみあげ・じっと卓上のアブサンを凝視している「深刻」な眼つき・新しい派の詩人とあたらしい派の画家と、新しい派の女と、軽噪と衒気と解放と。
――広い道の両側に「円い角」、「円屋根」、「円天井」と三つの珈琲店が栄えて、毎晩きまってる自分の卓子に、土耳古の詩人・セルビヤの詩人・諾威の詩人・波蘭土の画家・ぶらじるの画家・タヒチの画家・日本の画家が宵から朝まで腰を据えて、音譜と各国語と酒たばこの香と芸術的空気を呑吐して、芸術的興奮で自作の恋の詩を――隣の女に聞えるように――低吟したり、そうかと思うと、おなじく芸術的興奮で真正面から他人の顔を写生したり、やがて出来上ったスケッチを珈琲一碗の値で当の写生の被害者へ即売に来たり、あらゆる思索・議論・喋々喃々・暴飲・天才・奇行・変物――牡蠣の屋台店と鋪道をうずめる椅子の海と、勘定のかわりに長髪族が掛けつらねた「円い角」内部の壁の油絵と――畢竟らてん区は、それ自身の法律と住民をもつ芸術家――真偽混合――の独立国である。詩人と画家とその卵子たちが、笈を負って集まる桃源境なのだ。
ま、それはいいとして、アンリ・アラキの探検隊にはいま俄かに用のないところだから、自動車はこの詩人と絵かきの小父さん達の国を突破しておそろしく暗いここの小路に停車したわけだが――円い角や円天井の騒ぎが遥か彼方、盛り場の夜ぞらにどよめいて、あたりは莫迦にしんと静まり返っている。
親分のノックで戸があく。
一行勇気りんりんとして直ぐ二階の一室へ通る――「すすり泣くピエロの酒場」。
これがその酒場なんだろう。あんまり広くもない部屋にびっしり椅子テーブルが立てこんで、正面に酒台があるきり、装飾もなんにもない、外観以上に平凡というより、むしろ殺風景すぎる室内だ。なるほど酒場と銘打ってあるだけに、申訳みたいに売台のむこうに酒壜の列が並んではいるが、公衆に開けてるんじゃないとみえて、この、酒場の書入れ時刻というのに、客といっては一人もなかった。
魔法使いのような、きたない服装の無愛想なお婆さんが出てきて電灯をひねったので、はじめてみんな、がやがやと卓子に就くことが出来たくらいである。
で、一同、思い思いに狭い酒場の椅子に腰かけて、妙にぽかんとしている。なあんだ馬鹿らしい! こんなところか、何も変ったことはないじゃないか――と言いたげな、狐につままれたような、だからちょっと不服らしい顔つきだ。例のお婆さんが、むっつりしたまま売台の向うに立った。これが酒番だとみえる。
親分が、隊員とお婆さんへ半々に言った。
『とにかく、まだ早いですから、ここで何か飲って行きましょう。御銘々にお好きなものを御註文下さい――おい、婆さん、おれに黒麦酒!』
団員中の人見知りをしない饒舌家が、すぐ親分に倣った。
『それでは、と。わたしは赤を頂きましょうかな。』
仕方がないから皆それぞれに註文を発する。お婆さんは黙ったまま、片っぱしからそれを注ぎはじめた。
奥から五、六人の女給が出て来て、お婆さんの突き出すのをテエブルへ運ぶ。厚化粧をした若い女たちだったが、妙なことには、それが一人ひとり違った型と服装で、ちょいとした若奥様みたいなのや、良家の令嬢と言ったのや、お侠な女学生風なのや、白エプロンの女給々々したのや、踊子のようなのや――この近所の人達の内職にしても些とどうも様子が変だと思っていると、その女たちが、卓子と卓子のあいだの細い通路をすり抜けるようにして酒を配って歩く。普通の酒場やカフェの光景で、べつだん何の珍奇もない。
アンリ親分は知らん顔して麦酒を飲んでいる。
待ちきれなくなったように、一行の代弁をもって自任している饒舌家が口を切った。
『何かあるんですか、ここに。』
コップの底のビイルをすっかり流しこんで、ハンケチで丁寧に口のまわりを拭いてしまうまで、親分は答えなかった。
『詰らないじゃありませんか、こんなところ。』
饒舌家が全員を代表してぶつぶつ言っている。
遮るように親分が大声を出した。
『ちょっとそのあなたのテエブルの隅へ、巻煙草でも何でもいいから置いてごらんなさい。』
『え?』と、饒舌家は不思議そうな顔をして、『何でもいい? ここへですか――。』
言いながらポケットから十法の紙幣を掴み出して、卓子の隅っこへ載せた。
『こうですか――。』
すると、その言葉の終らないうちに、一同は唖然とした。というのは、ちょうどそのとき饒舌家の傍に立っていた女学生ふうの女が、いきなり高々と――上げたのである。下には――彼女だった。それが――と思うと、やにわにテエブルの角を跨いで、しばらく適度に苦心惨憺したのち、その十法札を挟んで悠々と持って行ってしまった。それはじつに、習練と経験を示す一つの芸だったと言わなければならない。
瞬間の驚きから立ち返ると同時に、みんなは争って卓子の隅へ金を出した。だから同時に、あっちでもこっちでも、狭いテエブルの間にこの白い曲芸が演じられている。奥様ふうなのも踊子も、令嬢みたいなのも女給々々したのも。みな一せいに――。
へんに眼の光る、圧迫的な沈黙がつづいた。そのなかで、高く着物を押さえた女たちが、卓子から卓子へ移って秘奥をつくし、男たちはすべて、誰もかれも無関心らしく頬杖なんか突いていた。じっさいそれは、私達の持つ文明と教養を蹂躙しつくして止まない、奇異な悪夢の一場面であった。
みんないつまでも金を置くから限りがない。
酒番のお婆さんは、語らなそうにそこらを拭いている。
アンリ親分は超然として壁に煙草を吹きつけていた。
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