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二十五、六の、どっちかと言うと大柄な、素晴らしい美人であった。
ここはどうあっても素晴らしい美人でないと埒が開かないところだし、また事実素晴らしい美人だったんだから、私といえども事実を曲げることは出来ないわけだが――で、その二十五、六の、どっちかというと大柄な素ばらしい美人が――。
とにかく、最初からはじめよう。
巴里浅草のレストラン千客万来の「モナコの岸」は誰でも知ってるとおり昔から美人女給の大軍を擁し、それで客を惹いてるんで有名だが、この「モナコの岸」の浜の真砂ほど美人女給のなかでも、美人中の美人として令名一世を圧し、言い寄る男は土耳古の伯爵・セルビヤの王子・諾威の富豪・波蘭土の音楽家・ぶらじる珈琲王の長男・タヒチの酋長・あめりかの新聞記者・英吉利の外交官――若い何なに卿――日本の画家なんかといったふうに、なに、まさかそれほどでもあるまいが、まあ、すべての地廻りを片端から悩殺し、やきもきさせ、自殺させ蘇生させ日参させ――その顔は何度となく三文雑誌の表紙と口絵と広告に使われ、ハリウッドの映画会社とジグフィイルド女道楽とから同時に莫大な口が掛って来たため、目下この新大陸の新興二大企業間に危機的軋轢が発生して風雲楽観をゆるさないものがある――なあんかと、いや、つまりそれほど一大騒動の原因になっているくらいの「巷のクレオパトラ」、「モンマルトルのヴィナス」、「モナコの岸」の金剛石とでも謂つべきのが、今いったこの「二十五、六の、どっちかと言えば大柄な素晴らしい美人」なんだから、たといどんなに素晴らしい美人だと力説したところで一こう不思議はないわけで、どうだい、驚いたろう。
名もわかっている。マアセルというのだ。
そしてこのマアセルは、怒涛のように日夜「モナコの岸」へ押し寄せてくる常連の誰かれにとって、すこしでも彼女の内生活への覗見を持つことは、そのためには即死をも厭わない聖なる神秘であった。とだけ言っておいて、先へ進む。
ところで、二十五、六の豊満な金髪美人マアセルだが――。
も一度、最初からはじめよう。
誰も居ない真っ暗な部屋だった。しばらくするとがちゃがちゃと鍵の音がして、戸があいた。廊下の光りが流れ込んだ。それと一しょに人影が這入って来た。人影は女だった。女は、手さぐりに壁のスイッチを捻った。ぱっと明るい電灯の洪水が部屋を占めて、桃色に黒の点々のある壁紙が一時に浮き立った。部屋はマアセルの寝室だった。女はマアセルだった。
マアセルは今日夕方の番だったので、いま「モナコの岸」から、近処に貸りてる自分の部屋へ帰って来たところである。
あたふたと自室へはいってきたマアセルは、うしろの戸をばたんと閉めて鍵をかけると、これで完全に自分ひとりになった安心のため、急に仕事の疲れが出て来たようにすこしぐったりとなった。そして、第一に靴を取ると、緩慢な動作で部屋を突っ切って、衣裳戸棚の大鏡のまえに立った。天鵞絨に毛皮の附いた外套の下から、肉色の靴下に包まれた脚が長く伸びている。マアセルは鏡へ顔を近づけたり、離したり、曲げてみたり横から見たりした。やがてようよう満足したように手早く帽子を脱って帽子を眺めた。その帽子を大事そうに向うの卓子の上へ置いて、ちょっと栗色の断髪へ手をやると、そのまま崩れるように椅子へかけて「あああ!」と小さな欠伸をした。
そうしてじっと何か考えてる様子だったが、そのうちに独り言のようなことをいいながら、立ち上って外套を脱いだ。それを乱暴に寝台へ投げかけた。それから直ぐに着物をぬいだ。ぱちんぱちんとホックの外れる音がすると、着物はだらりと椅子の背にかかっていた。下着とブルマスとコルセットと靴下だけのマアセルだった。が、間もなく彼女は、部屋のまん中でかなぐり捨てるように――上半身に柔かい電灯が滑って、光った。そして顎を引いたマアセルは、ちょこちょこと小走りに急いで、寝台の横へ行った。そこですべてを下へ抛った。さあっと電灯の滑って光る部分が俄かに広くなった。あとは――マアセルはいま寝台の端に腰を下ろして――
美人マアセルの私生活。
SHhhh!
みんなの眼がずらりと壁に覗いているのを彼女は知らない。
ここで、マアセルを愕かせないように、しずかに、ごく静かに、いささか話しを後へ戻す必要があるのだ。
SHhhh! もう一度最初からはじめよう。
これより先、その夜九時半、中天に月冴え渡るセエヌ河畔はアルキサンドル橋のたもとに、三々伍々、黙々として集っている影坊子のむれがあった――と言うと、千八百何年かの革命党員の策動みたいで、これから暗殺でもはじまりそうでいかにも物騒だが、なあに同じ物騒は物騒でも、そんな時代めいた固っ苦しいんじゃない。その中のひとりが、今日私によって九月四日通りで捕獲された若い英吉利紳士である一事に徴しても判るとおりに、この群集こそは、これから一晩がかりで「夜の巴里の甘い罪悪」を探り歩こうという、世にも熱烈な猟奇宗徒の一団であった。群集といったところで全十四人である。一たい巴里というところは、いつだってこの種の、アンリ親分に従えば「物欲しそうな面の金持ち」で、こんなことのためには即座に幾らでも投げ出そうという意気込みでふわふわとなっている連中――多くは中年過ぎた外国人――をもって充満しているんだが、こういう「生きている幽霊」には、本国で紳士ぶっていなければならないせいか、妙にいぎりす人が多い。つぎは亜米利加人だが、これあまあ大概の事物には興味を持つんだし、ことに金を出すことにかけちゃあ何にだって人後に落ちない気でいるんだから、この今夜の一隊も、例によってほとんど、英米両国の旅行者だけだったと言っていい。もちろん男ばかりである。
アンリ親分はまだ来ていない。
ところで、私が捕まえたのは若い英吉利人ひとりなのに、どうしてこう十何人も現れて鉢合せを演じているかというと、これは勿論、ゆうべLA・TOTOで親分が「なあにジョウジ、お前のほうはそんなに当てにしやしねえ。俺が半日ぶらつけば何十人でも網にするんだ」と豪語したように、他はすべて今日親分が街上で網にかけたものであろう。見渡すところ、私の若い英吉利人をはじめ独身らしいのも二、三居るようだが、どうも大部分は妻子と社会的地位のありそうな分別顔だ。それがみんな、自分一人と思って出かけて来たところが、意外にも未知の同好者がこうたくさん集合しているので、相互にすっかり照れちまって、或る者は、アレキサンドル橋の欄干からセエヌの銀流へ唾をして、果して真直ぐ落ちるかどうか試験したり、他は恐ろしく澄まし返って、中天に冴え渡る月をそぞろに仰いだり、または、あわてて憐寸をくわえて煙草を擦ろうとしたり―― in a word、どの影法師も困り入ってただやたらにうろうろしている――。
大入満員「ラ・トト」の一卓でアンリ親分が打ち開けた言葉を、僕は思い出す。
『なあジョウジ、』と親分がいったのである。『この巴里って町にゃあ物凄えとこがあるってんで、早え話が、いぎりす人やめりけんなんか、汗水流して稼いだ金で遥ばるそいつを見にやって来るてえくれえのもんだ。だからよジョウジ、だから俺の商売てえのは、まあ早く言えば案内者だが、この物欲しそうな面の外国の金持ちをあつめて、一晩そんなところを引っ張りまわしてやるんだ。お前のめえだが、それあすげえところがあるよ。何しろお前、巴里だからなあ――もう十何年もやってるんだが、いくら馬鹿金が儲かっても、そこはよくしたもんで馬鹿金を費うから、俺って人間はいつまで経っても同じこった。あははははは、ま、明日からお前にもそっちのほうへ働いてもらうさ。』
さて、これですっかり解ったろうと思うが、つまり親分アンリ・アラキは、「脱走船員」の私を助手に十余人の「生ける幽霊」を引具し、今から朝まで順々にその物凄えところを廻ってあるこうというのだ。妙な稼業もあったものだが、これも需要あっての供給だろうから仕方がないとして、この肝腎な親分はまだ姿を見せない。
料金は九百九十八法。千法に二法足らないきりだが、千法よりあずっと安く聞える。まるで年の暮れに猶太人の莫大小屋が、一弗の股引を九十九仙に「思い切り値下げ」して、「犠牲的大廉売」、「自殺か奉仕かこの英断!」なんかと楽隊入りで広告するような、猶太心理学派の遣り方だが、事実どう算えたって千法には二法足らないんだから、やすいこた安いわけで、誰だって文句は言えまい。
こういうわがアンリ・アラキ親分である。寄らば大木のかげで、この人の身内だからこそ、私もこうしてちったあ利いたふうなことが言えるというものだ。
まあ、it は it として――。
「夜の巴里」の探検隊、同勢十四人。こうなると、ひとり者は世話はないが、運わるく細君のあるやつは苦しがって種々悪計をめぐらし、やれ「近頃運動不足で不眠だから一晩夜の空気を吸って歩くようにと医者の厳命だから」ことの、やれ「お前も知ってるとおり今やあたらしく生れ出ようとしている英仏合同一大毛織物会社の設立相談会があってことによると今夜は帰らないかも、たいていは遅くなっても帰るつもりだが、或いは、ひょっとすると帰らないかも知れないが決して心配しないで先に寝てるように」だの、やれ「今の電話でちょっとシャルロアへ出張しなくちゃならない。商用だ。大急ぎだ。多分あすの朝は帰れるだろう」ことの、やれ「土耳古の伯爵に招待された」ことの「セルビヤの王子が来た」ことのと、その他曰く何、曰くなにと、それぞれ大奮闘の末、やっとのことで銘々の「マギイ」を鎮撫納得誤魔化し果せた「ジグス」たちが、期待と覚悟と解放のよろこびに燃え立ちながら、こうしてここ、音に聞くアレキサンドル橋の袂で、ある者はやたらに煙草をふかし、或いはしきりに欄干から唾をし、他はいやに遊子ぶって中空に冴えわたる月を眺めたりなんかしてると、なかにひとり人見知りをしないお饒舌りなのがいて、
『じっさい巴里にあ大変なところがあるそうですからなあ――それに、今夜のは特選ぞろいだと言いますから、まあ、私たちは幸福人ですよ。ははははは、これでどうやら国の悪友達にも土産話が出来ますからね。』
などとあちこち話しかけて歩くもんだから、それをきっかけに一同いつの間にやら同じ上機嫌に解け合って、何物をも辞しない探検家の精神が埃及尖塔みたいに高く天に沖していると――義士の勢揃い宜しくなこの騒ぎに、義士のことは知らないが何がはじまったのかとびっくりして、通行人が足をとめている。
折しもあれ――というほどのことでもないが――そこへ大殿堂ET小殿堂の方角から一台の遊覧用大型自動車が疾駆して来て、待ち兼ねたみんなを拾い上げたのである。探検隊長――まるでアムンぜンかノビレみたいだが――アンリ・アラキが、運転手と並んで腰かけていた。
午後九時四十五分。彼は、出発に際して隊員に一場の訓示を与えた。仏蘭西大使のように流暢なふらんす語だった。
『出かける前に広告はしません。すぐに実物が証明するからです。またどこどこへ行くかということもわざと明言しません。好奇心のためです。ただ必要上、最初の一つだけをここにお話ししましょう――。すでにあなた方も御存じの通り、巴里浅草のレストラン千客万来「モナコの岸」は、昔から美人女給の大軍を擁し、それで客を惹いてるので有名でありまするが、そのなかでも美人中の美人として令名一世を押しつけ、「モンマルトルのクレオパトラ」と呼ばれているのが、マアセルと申す当年取って二十五、六――割引無し――のどっちかというと大柄な、素晴らしい美人でありまして――。』
と、つまり、マアセルに関して、はじめに私が説明した全部は、そっくりこの時の親分の言なんだが、えへん! と親分はここで咳払い――もちろん流暢な仏蘭西語で――をして、あとを続けた。
『で、この万人――いや、厳正には万男――渇仰の的たるマアセルの私生活をこっそりお見せ申すのが、本計画の第一歩でありまするが、前もって特に御注意申し上げたい一事は、私はマアセルの泊っているアパルトマンの夜番に莫大な金を掴ませて特別にその仕掛けをほどこし、それでこうして皆様をお伴れ申すことも出来るわけですが、いま言ったように、夜番の男は抱き込んでありますけれど、当のマアセルはもとより、他の止宿人は何も知らないのでありますから、先方へ参りましたならば、いやが上にも御静粛に、咳くしゃみ等はもちろん、物音一つお立てにならないよう、これだけは切にお願い申す次第であります。「モナコの岸」の美人女給マアセルが、誰も見ていないと思って自分の寝室でいかなる行動に出るか――聖なる神秘はあなた方の行手に! これによってまず些かの御満足を与え得れば、案内するわたくしとしては幸福そのものであります。くれぐれも規則を厳守下さるよう――では、出掛けます。』
というんで、規定の案内料を徴集したのち、一同を乗せてぶうと動き出した探検自動車が、夜の巴里を走りに走り、廻りに廻って、やがてぶうと停止したところが、モンマルトルの山の下なるこの貸間館のまえ。
ぞろぞろ降りる。夜番が横手の戸をあける。親分の先頭でMAIを含み、跫音を窃取して上って来たのが、三階のこのマアセルの部屋の隣室。マアセルの室内の壁紙に黒いぽちぽちの模様があって、その点々に、眼に見えないほどの小さな穴が開いている。そこへ外側から一つずつ覗き眼鏡みたいなものが取りつけてあるから、マアセルの有する全部は各人の鼻っ先だ。
親分は廊下に立って待っているんだが、出発に際しての彼の心配は全然杞憂に帰して、隊員は、しわぶきどころか呼吸を凝らしている。鬚と奥さんを持つ紳士にとって、女の生活なんてとっくに卒業して飽きあきしてるはずなんだが、度々いうとおり相手が「モナコの岸」の女王なのと、その、誰も見てるものがないという確信で、着物と一しょにすべての気取りを除去したあとの赤裸々さと、また別の興趣が期待出来るとみえて、こうしてみんなじっと覗きながら、固唾を飲んで待ち構えた。ところへ――前に言ったように、「モナコの岸」から美女マルセルが帰って来て、竹の子みたいに一枚々々着衣を脱して、そうして、そうして、ええと――どこで話が後退したんだったけな?
――そうだ、マアセルは今や寝台に腰かけてするすると靴をぬいでいる――。
やがて、ざあっと水の音がし出した。
壁の穴は模様のぽちぽちに隠れて内部からは気がつかない。
誰も見てないと思うから、マルセルだって平気だ。部屋を横切って、浴室の扉をあけ放したまんま、お湯の栓を捻っている。お湯は直ぐ一ぱいになった。ちょっと手を入れてみて、マアセルは、熱う! というように顔をしかめた。見ている隊員が躍起になって「水をうめろ水を」と心中に絶叫する。言われるまでもなく、マアセルは事務的に水を出した。そして、ゆっくりお湯につかって、しずかに天井を研究している。
「女給生活の一日」――なんてことを考えているに相違ない。
と、突然立ち上った。赤くなったマアセルだ。それが、いきなり自暴にそこここ洗い出した。石鹸の泡が盛大に飛散する――と思っていると、ざぶっとつかって忽ち湯船を出た。烏の行水みたいに早いおぶうである。
あとはもっと簡単だった。丁寧にタオルで拭いたマアセルは、浴室をそのままにして寝室へ帰って来た。鏡台のまえで顔に何か塗りつけた。そして今は、姿見に全身を映してみて、さかんに嬌態を作っている。
両手を腰に片っぽの肩を上げて爪立ちしたり、真直ぐに立って体操の真似をしたり、櫛を持ってきて髪を色々にアレンジしてみたり――そのうちにふふふと思い出し笑いをした。同時に、何か低声に唄い出した。
笑っているマアセル。
唄っているマアセル。
ちらと――どころかすっかり裸身を見せている「モナコの岸」のマアセル。
AaaaAH! とマアセルは伸びをした。寝台が大きく浪をうって、マアセルの全体重を受け取った。そしてマアセルは、好きなように安楽な姿態で赤本を読み出した。しばらく読んでいたが、いつしか本を持つ手が横ちょにさがり、やがてその本がぱったりと床を打つと、マアセルは床覆の上で眠り出した。すこし口を開けた大の字なりの金髪美人を照らして、室内には、消し忘れた電灯がいやにかんかん氾濫している――。
拡大鏡の向うで、白い大きな脚がさまざまに動いて、マアセルは寝返りを打った――隊員は誰も壁の穴を離れようとしない。親分が這入って来て、そっと肩を叩いて廻る。
これが、アンリ・アラキの夜の日程――てのも変だから夜程だ――における第一の場処「マアセルの寝室」。
モンマルトル、RUEドュ・マタンの五一番ブウランジェ裁縫店の隣りである。
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