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『馬耳塞からでも逃げて来たかね?』
『はあ。マルセイユから逃げてきました。』
『船は辛いだろうな。なに丸かね?』
『日本船じゃありません。英吉利です。』
『英船か。食いものが非道えからね。』
『食い物がひでえです。』
『しかしお前、そんなことを言って巴里へ潜り込んでどうする? 領事館へ泣きついて、移民送還ででも帰るか。こいつも気が利かねえな。』
『そいつも気がきかないです。何とかして巴里で一旗上げたいと思うんですが――故里にあおふくろもいますし――。』
『どこかね? 国は。』
『鹿児島です。』
『おれあ下谷だ。もっとも子供の時に出たきり帰らねえんだが――しんさいはひどかったろうなあ!』
『震災はひどかったです。わたしも知らないんですが――。』
『AH! OUI! 新聞で見たよ。』
いやに星のちかちかするPARISの夜、聖ミシェル街の酒場、大入繁盛のLA・TOTOの一卓で、数十年来この巴里の「不鮮明な隅」に巣をくっている大親分、日本老人アンリ・アラキと、親分のいわゆる「脱走いぎりす船員」たるジョウジ・タニイとが、こうして先刻からボルドオ赤――一九二八年醸造――の半壜をなかにすっかり饒舌りこんでいるのだ。
何からどう話を持って行っていいか――ま、とにかく、いやに星がちかちかしてタキシの咆哮する晩だったが、カラアを拒絶して一ばん汚ない古服を着用した私――ジョウジ・タニイ――が、多分の冒険意識をもって徹宵巴里の裏町から裏まちをうろつくつもりで、ちかちかする星とタキシの――に追われ追われて真夜中の二時ごろ、このサ・ミシェル――サン・ミシェルなんだが巴里訛はNが鼻へ抜けるためほんとうはこうしか聞えない――の「ラ・トト」へ紛れ込んで、国籍不明の「巴里の影」の一つになりすました気で大いに無頼な自己陶酔にひたっている最中、先方にしてみれば何もそこを狙ったわけじゃあるまいが、まったく狙撃されたように飛び上ったほど――つまり私はびっくりしたんだが、いきなりしゃ嗄れ声の日本言葉が私の耳を打ったのである。
『やあ! 一人かね?』
というのだ。断っておくが、この場合、その質問者は何も特に当方における同伴――男女いずれを問わず――の有無に関して興味を感じてるわけではなく、第一、ひとりか二人か見れあ直ぐ判るんだし、これは、言わばただ、おや! こいつあ何国の人間だろう? お国者かな? 一つ探りを入れてやれ、と言ったくらいの外交的言辞に過ぎないのだ。これでむっつり黙り込んでいると、何でえ、支那か、ということになって、鑑別の目的は完全に達せられる。じっさい頭から「お前は日本人だろう?」では放浪紳士に対して露骨に失するから、そこでこの挨拶のような挨拶でないような、ばかに親密な質疑の形式がいつの世からか発見されたもので、これは私たち世界無宿のにっぽん人間における一つの「仁義」である。つまり「港のわたり」なんだが、そんなことをしなくても日本人同士は一眼で判りそうなもんだと思う人があるかも知れないけれど、どうしてどうして一歩日本国を出てみると、早い話が、支那人だの馬来だのハワイアンだの印度だの、西班牙だの伊大公だの91――9+1=10で猶太――だのと「その他多勢」いろいろと紛らわしいやつが出没しているから、何事も必要は発明のおっかさんなりで、ちょいと石を投げる心もちでこの「やあ! 一人かね?」をやる次第で、これによって日本人という事も確定出来れば、また、忽ちこのとおり十年の知己のごとく、一つ卓子でこの場合ではボルドオ赤――半壜。一九二八年製――をSIPしようてんだから、これは仲なかどうして地球的に荒っぽい意気さの漲るじんぎだと言わなければならない。
事実、馬耳塞でもリスボンでもハンブルクでもリヴァプウルでも、未知の日本人――そして日本帝国外務大臣発行の旅券を持たない人々――のあいだの最初の会話は、魔窟でも酒場でも波止場でも、必ずこうして開始されることにきまってる。
『やあ! 一人かね?』
これに対する応答も約束により一定している。
『やあ! 一人かね?』
とおもむろに同じ文句を返してやるのだ。だからA「やあ! 一人かね!」B「やあ! 一人かね?」とこう一見まことに無邪気な、昨夜の悪友が今朝また省線で顔を合わしたような平旦な一街上劇の観を呈するんだが、こいつをいま「市民のことば」に翻訳してみると、A「やい! 手前はにっぽんだろう? 白状しろ!」であり、Bは「日本人だがどうした。大きにお世話だ!」となる。
どこから傍道へ外れたのか忘れちまったから、再び「夜の酒場、暗いLA・TOTO」へ引っ返して出直すとして――で、つまりその、そこで私が精々ぱり・ごろめかして独りで凄がっているところへ、突然この「港のわたり」をつけたやつがあるんだが、そんなに心得てるなら何もびっくりすることはないじゃないかと言うだろうけれど、私をどきんとさせたのは、その場所――誰だってこの深夜の巴里サミシェルの「隠れたるラ・トト」でよもや日本語をぶつけられようとは思うまい――と、何よりもその声の主なる一人物の風体相貌とであった。
と言ったところで、べつに異様ないでたちをしていたわけじゃない。異様どころか、じろりと出来るだけ陰惨な一瞥をくれてこの「やあ!」の出所を究明した私の眼に朦朧と――紫煙をとおして――うつったのは、何のへんてつもない、薄よごれた服装の日本のお爺さんだったが、それがにこにこしながら自分の酒杯ひとつ持って私の食卓へ移ってきたのを見ると、私だって相当苦労を積んでるから三下か親分かくらいは一眼で識別出来る。その、先生ばくちの貸元みたいに小柄なくせにでっぷり肥った巴里無宿のアンリ・アラキ老――これは間もなく名乗りを聞いてわかったんだが――の身辺には、「七つの海」の潮の香がすっかり染みこんで、酸も甘味も舐めつくしたと言ったような、一種の当りのいい人なつこさが溢れ、そしてその黒い細い眼の底に、若えの、ついぞ見ねえ面だが、近頃めりけんからでも渡んなすったかね? といいたげな、いかさま大胆沈着・傍若無人の不敵な空気が、世慣れたこなしとともにうっそりと漂っているんだから、瞬間にして、私は思った。ははあ! これはただの旅人ではない。まさしく何のなにがしというれっきとした名のある大親分であろう、と。
だから、彼のあいさつに対しても咄嗟に私は幾分の敬語を加味して答えたくらいである。
『やあ! 一人かね?』
『は。お一人ですか。』
こうして私の前にどっかと――じっさいどっかという親分的態度をもって――腰を下ろしたアンリ・アラキは、どういうものか最初から私を「馬耳塞から脱船してきた下級船員」に決めてかかっていたのだ。いつだって親分にさからうことは幾分の危険を意味するし、ことにこの際、べつにNON! なんかとわざわざ反対の意思を表明して立場をあきらかにする必要もないから、長い物には巻かれろで、そのままおとなしく「脱走船員――海の狼」に扮し切った私は、さてこそで、ちょいとこう船乗りらしく肩を揺すってぽけっとから紙を取り出し、そこは兼ねて習練で煙草を巻き出したんだが、この私の手の甲にさしずめ錨に人魚でもあしらった刺青でもあると大いに効果的で私も幅がきくんだけれど、無いものはどうも仕方がないとは言え、私はすくなからず気が引けている。が、その間も私と親分は「故国にほんのこと」、私の「今後の身の振り方」等々々につき非常にしんみりと語らいをかわしているのだ。
『この頃の若い人は意気地がねえな。仕様がねえじゃねえか。石炭船ぐれえ辛棒が出来なくちゃあ――。』
『どうも済みません。』
『ははははは。済みませんじゃないぜ。が、まあ、若いうちは何をしてもいいさ。困ってるならうちへ来なさい。何とかするし、用もないことはないから――。』
愉快になったアンリの親分は、心から「この頃の若い人」を持てあましてるように、舌打ちのかわりにぐいと私のMEDOC――ボルドオ赤――をあおりつけてぺっと唾をした。
そうすると、巴里の午前二時はほかの町の午後二時だ。LA・TOTOの暗い電灯に仏蘭西語の発音とベネデクティンの香が絡み、「工業の騎士」の労働者たちの赭ら顔を Gauloises の煙りがぼやかし、誰かの吹く普仏戦争当時の軍歌の口笛に客の足踏みが一せいに揃い、戸外には、ちかちかする星とタキシの呶号と、通行の女と女の脚と、脚の曲線とその媚態と――AH! OUI! 深夜の「巴里」はいま聖ミシェルの鋪道に流れている。
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