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踊る地平線(おどるちへいせん)05白夜幻想曲

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-27 6:50:19  点击:  切换到繁體中文


 ちょっと諾威ノウルエーのホルテン港へ寄る。海軍根拠地のあるところだ。飛行機がマストとすれずれに船をかすめる。ひくい丘の中腹にお菓子のような色彩的な家の散在。無線電信の棒に大きな鳥が何羽も群れとんでいる。

ミュレル・トュルベンテ!
ミュレル・トュルベンテ!
 声がする。はだしの子供たちが船の下の桟橋で何か呼び売りしているのだ。
みゅれる・とゅるべんて!
 一種の桜んぼである。ミュレルがさくらんぼなのか、それともトュルベンテがそれなのか、とにかく、
桜んぼ一束十銭ミュレルトュルベンテ
 というところであろう。彼らじしん、船の入港するのを山の上から見て、そこで早速そこらに成っていたのをんで売りに来たものに相違ない。いささかの木の実を大きな葉へのせて、昂奮に眼の色を変えながら右往左往している。
ミュレル・トュルベンテ!
ミュウ――レル・トュルベエインテ!
 That's that.
 フィヨルドへ這入る。木の生えた岩石の島がちらばって、ジグ・ザグの小半島が無数に突出し、端倪たんげいすべからざる角度に両側から迫っている。ところどころに石油のタンクが見える。低い島を浪が洗って、船は、そのあいだをかわして進む。高い寒い空、無そのもののように澄みきった大気、赤と青と黄色の別荘、モウタ・ボウトの上から手を振っていく人。すっかり秋――というよりむしろ冬のはじめのひやりとする気候だ。
 早朝から一日いっぱいフィヨルドは舷側について走る。
 夕方ちかくオスロ。
 OSLO――もとのクリスチャニア。諾威ノウルエーの首府だ。タキシがないので大学通りのホテルまで古風な馬車を駆る。
 雨後。坂みち。さむぞら。
 何という北へ近い感じであろう! なんたる、生れのいい孤児のような、気品ある「もののあはれ」がこのオスロであろう!
 そこへ、夜だ。暮れるともなくぼんやりと明るい北の白夜――そうすると、街角に立つ人影も、尾を垂れて小路へ消える犬も、港の起重機のかすかなひびきも、すべてがひとつの浪漫のなかに解けこんで、人はごく自然に、最も陰鬱な人生のトラジディさえ肯定出来る心状ムウドに落ちるのだ。
 雨後。坂みち。さむぞら。
 以下、オスロ探検記。
 一ばん先にブロガアドという場末のある横町へ行ってみる。十五世紀に出来た町と、家と、人と風俗がそのままに残っているというのだ。アケルス河の小流れを渡るとすぐのところに、珍奇な木造の小家屋が、すっかり考えこんで並んでいる狭い町がある。これだ。歩道には大きな自然石が出鱈目に敷かれて、漁村のような原始的な建物が櫛比しっぴしている。通りの巾は一けんもあろうか。それが、じっさい十五世紀の眼抜きの場所はこうであったに相違ないと思われるほど、クエイントな商店街の形式をそなえているんだから、十五世紀のメトロポリス! what a find ! というんで、大いに勇んだ私たちがどんどん這入りこんで行こうとすると、そばの家の軒をくぐってばかにせいの高い若者があらわれて出た。これも確かに十五世紀の人物とみえて、びっくりするような大男で、何かしきりに話しかけるんだが、十五世紀にしろ現代にしろ、諾威ノウルエー語は私には少しも通じない。で、ことばの判らない時の用意にもと絶えず貯蔵してある奥の手を出して、例のにやにやをやってみたが、先方には一から反響しないどころか、しまいには自分でいらいらして来て何やら耳のそばで我鳴り立てる始末。巨人だから声も大きい。しかも、ゆっくり言えばわからないはずはないとでも思ってるらしく、一語々々はっきり句切って噛んで含めるように言うんだが、早く言ったって遅くいったって、知らない言葉は解りっこない。どうも馬鹿なやつで、世界じゅう諾威ノウルエー語をしゃべってると信じてるらしい。いつまで経ってもこっちがへらへら笑ってるもんだから、十五世紀の住人はとうとう癇癪を起して一そう大声を発する。すると、海のむこうからノルマン族かゲルマン族でも攻めて来たと思ったのだろう。家という家から十五世紀の老若男女と猫と魔物が飛び出して来て、見るとそこに、一組の黄色い夫婦が不得要領ににこにこしているのを発見したので、さすがに今度は十五世紀のほうがぎょっとしたらしく、一同鳴りをひそめて凝視している。よっぽど引っ返して通弁兼護衛でも雇って出直そうかと考えたが、私だって意味の判然しないことでそうやすやすと追っぱらわれるのは業腹ごうはらだ。第一、十五世紀の建造物なんかはざらにあるが、ひとつの町の体裁をそなえて現存しているのは珍しい。これあ何とあっても踏みこんでやろう。こう決心して、気味わるがる彼女を引っぱって突入しようとすると、眼のまえの群集がさあっと逃げて、そこへ、最初の若い巨人と、もうひとり中年の男とがひどく英雄的態度で立ちはだかった。そして、憤怒ふんぬ形相ぎょうそうもの凄くひとりで勝手にたけり狂っている。
わ・わ・わ・わ・わあっ!
る・る・る――う・るう!
 というようなことをつづけさまにわめくのだ。のみならず、驚いたことには、一人はしきりに桃色の上着のポケットを示威的に叩いている。それも十五世紀のことだからピストルじゃあるまい。ナイフだろう。が、とにかくこれは立派な威嚇である。この聖代に容易ならない事件だ。とは言え、何だか訳のわからないことおびただしいが、察するところ彼らは、自分たちの町へ外来者、ことに異人種の私達なんかが見物にくるのを好まないらしい。そんならそうと早く言えばいいのに――もっとも、むこうにしてみれば散々いったんだろうが、なにもこっちだってそんなに嫌がる所へ無理に侵入しようとは言やしない。
『何だ? 君たちは一たいなにを騒いでるんだ? 帰ったらいいんだろう。帰るよ。』
 こうなると私も日本語だ。
わ・わ・わ・わわあっ!
 と一つ呶鳴り返しておいて、私は、出来るだけ悠然と彼女の腕をとってまた通りへ退却した。そうしたらやっぱり二十世紀の日光と安心と感謝が私によみがえった。が、覗いただけで私は満足している。十五世紀なんて、ちょっと聞くと浪漫的だが、なあに、いやに原色が好きで、気が利かなくて、不潔で不備で喧嘩けんか早くて、田舎者がみんなわいわい言うばかりちっともわけの判らない、要するにおそろしく滅茶苦茶な時代だったにきまってる。私は現に見てきて、このとおりひどい目にあったんだから――。
わ・わ・わ・わ・わあっ!
る・る・る・る・るうっ!
 Hush ! What a hell !
 雨後・坂みち・さむぞら。
 郊外へ出ると到るところに植民住宅コロニイ・ハウスというのがある。ちいさな田園に小さな家が建っていて、一季節四百クロウネで夏のあいだ労働者の避暑に貸す。そして、二十年経つと家も土地も自分のものになるという仕くみ。市の経営である。
 ホルメンコウレンの山へ行く途中に市の病院を見る。貧富にかかわらず一日二クロウネ半が、手術から医薬から看護から間代まだい食費まですべてをふくむ入院料だという。植民住宅といいこの病院といい、スカンジナヴィアの国々はどこへ行ってもこうした社会施設が完備して発達しているのを見る。土地の人は、だから赤化しないんだと威張っている。
 野外博物館。オスベルグの海賊船ヴァイキング・シップ
 雨後・坂みち・さむぞら。
 フログネルセテレンとフォクセンコウレンの山へのぼる。郷土偉人トマス・ヘフティの公開寄附した森林公園で、ほうぼうにオスロ青年団の建てたへフティを記念する石柱がある。白樺、落葉松フウ・ルウの木。桔梗ききょう、あざみ、しだの類。滝、小湖、清水のながれ、岩――首に鈴をつけた牛が森の小路で人におどろいている。かみの毛の真白な子供たち。山上からフィヨルドは一眼だ。鳥瞰すると小群島と半島の複雑さ。
 カアル・ヨハンス・ガアドのつき当りに宮殿がある。そのまえの公園にイブセンの物で有名な国民劇場。両側にイブセンとビョルンソンの像。両方とも考えぶかそうに直立して、イブセンの肩に落葉が一枚引っかかっていた。
 イブセンと言えば、諾威国立博物館ノルスク・フォルクミウザム本館の階上で、イブセンの書斎を見た。死後そのままここに移したもので、窓かけも椅子も敷物も茶っぽい緑の一色、簡素な部屋だ。原稿もすこし保存してある。
 ウレウェルストファイエン街の墓地に、イブセンとビョルンソンのお墓詣りをする。
 広い墓地内をうろうろしてようよう探し当てたイブセンの墓は、白樺の疎林を背に生垣と鉄鎖の柵をめぐらした広さ六坪ほどの芝生の敷地に、左右の立木に挟まれて高さ三げんあまりの上のとがった黒い石が立っていた。石の表面に鉄槌てっついの彫刻、根にダリヤとデエジイと薔薇と百合の花束をりぼんでしばった鉄の鋳物、下の平石に HENRIK IBSEN と読める。右に祭壇、左に夫人の墓石――枯葉が散りかかって、ごみのような小さな羽虫はむしが一めんに飛んでいた。
 すこし離れた小高いところに、ビョルンソンの墓。これは巨大な平面石が、白樺の大木の下に半分つたにおおわれて倒れている風変りなものだ。階段が上部をかこみ、石の旗が下を飾って、中央に Bjornson, 1832-1910 と彫ってある。すべてが立体的に凝った感じである。
 小さな松の林に小鳥が下りて、朝日にあおいが咲いていた。土の香と秋晴の微風。参詣の人がちらほら見えて、喪服の女が落葉を鳴らしてゆく。赤や黄の前掛に手拭てぬぐいのようなものをかぶった老婆達が、そこにもここにも熊手を持ってそのポプラと白樺の葉をかいている。私達はいつまでもベンチに腰かけていた。
 雨後・坂みち・さむぞら――これが私のオスロ風物詩だ。
 では、これから陸路瑞典スエーデンへ出て、ストックホルムへ行こう。
 というので、オスロ・ストックホルムのあいだに退屈な一日の車窓を持つ。
 アモトフォス――イダネ――ファエラス――スクラトコフ――スタフナス――オルメ――スワルタ――ファラ――これがみんな停車場の名。すでに名だけで充分なところへ一々とまって、おまけに長く休むんだからやり切れない。
 この間、満目の耕野に灌漑かんがいの水の流るるあり。田園の少婦踏切りに群立して手を振るあり。林帯小駅に近く、線路工事の小屋がけの点々として落日にきらめくあり。夕餉ゆうげの支度ならん。はるか樹間このまの村屋に炊煙すいえん棚曳たなびくあり。べにがら色の出窓に名も知れざる花の土鉢をならべたる農家あり。丘あり橋あり小学校あり。製材所・変圧所・そして製材所。アンテナ・アンテナ・アンテナ。それらを遠景に牛と豚と牧翁の遊歩するあり――で、ようやくにして宵やみとともにストックホルム市に着けば、巷の運河に一〇〇八の灯影がゆらめいて、見慣れない電車に灯がついて走り、タキシの溜りへ旅行者とスウツケイスが殺到し、それを巡査が自信と熟練をもって整理し、柳の幹に寄席の広告が貼られ、その下に恋人を待って女が立ち、橋をゆるがせてトラックが過ぎ、運河の遊覧船からラジオのジャズが漂い、帆柱は交錯し、建築はあくまでも直角に―― Here we are in STOCKHOLM.

   三つの王冠

 未知の町を掴もうとする場合、最初の方法として一ばんいいのは高いところに上って見おろすことだ。
 これに限る。そして、それにはストックホルムは有難いというわけは、ジュルガルデン市街島の丘にスカンセンなる公園兼屋外博物館オウプン・エア・ミウゼアムがあって、そこにべらぼうに高いブレダブリクの塔――二四六フィート――が立っているから、その頂上へ登るとストックホルムとその近郊は指顧しこのうちだ。
 ストックホルムのぷろぐらむからこのスカンセンは省略出来ない。北欧諸国の動植物と民族的記録の実物がここ七十英町の変化に富む地形に集まっていて、ことにヴィスビイ島の模形市街、ラップ族の生活状態などは学術的にも著名である。出かけるには夕方を選ぶといい。それも、ダンスプランという瑞典スエーデン各地方の踊りのある日でなければ駄目だ。この民俗だんすは、女たちが昔ながらのその土地々々の服装をつけて踊るんだから一度は見る必要がある。晩餐はイデュンハレン料理店の戸外そとの一卓でしたためること。音楽と夕陽と郷土服の女給たちが、スウェイデン料理とともに一夕の旅愁を慰めるだろう。
 こうして陽の沈みかけるのを待って、さ、ブレタブリックの塔へのぼろう。
 塔上、北欧のネロを気取る。
「北のヴェニス」は脚下にひろがって、バルチックの入江とマラレンの湖水。みどりの沃野よくやにかこまれた「古い近代都市」のところどころに名ある建物がそびえ、水面に小蒸汽がうかび、白亜はくあの道を自動車が辿り、この刹那凝然としているストックホルムのうえに、北の入日は七色の魅魍みもうを投げる。
 寺院が見える。いくつも見える。そのなかで「瑞典スエーデンのパンテオン」と呼ばれる、リダルホルムス教会キルカ――騎士の島リダルホルムスという語意だが――この歴代の王様をまつってある壮麗な拝殿の内部、古い木の尖塔スパイアの反対側の角のところに、日本先帝陛下を記念し奉る御紋章が安置してある。菊の御紋の周囲に王冠と獅子頭が互いちがいに鎖状をなしている金の装飾、おそれ多くも下にこう書かれてあった。
H. M. Kungleg
de Japon
YOSHIHITO
Dec. 25-1926
 御崩御の電報がストックホルムへ達したとき、この「騎士島リダルホルムス」の寺の鐘は半日市の低空に鳴りひびいたという。私たちが参拝したのはあとのこと。いまはまたスカンセンの塔へ帰ろう。
 三つの王冠――瑞典スエーデンの国章はどこにでも見受ける――が陽にきらめいている水辺高層の楼閣――ストックホルムが世界に誇る新築の市役所である。旅人はこの町で誰にでも「もう市役所はごらんになりましたか」と訊かれるだろう。正面入口まえの芝生にストリンドベルグの裸身像。抜け上った額に長髪、両手を胸に陰惨な顔をして立っている。それはいいが、この市役所の時計台には大金をかけてユウモラスな仕掛けがしてある。高い壁に小さい戸があって、支那人みたいななりの人形が番人然と構えているから、何かと思ったら、正十二時に金製の小人形が四つ、流れるように順々に出てきて向側の戸へ消えるのだ。私達はわざわざ正午に出かけて行って見たんだが、その四個の時計人形は士農工商を象徴しているらしい。単なる好奇な飾りだろうけれど、それにしても、生真面目な金いろの小さな人形が四つ、ひょこひょこ出てきて引っ込むところはいかにも現代ばなれがしていて、北の水郷の大人たちのお伽噺とぎばなし趣味をよくあらわしていて面白いと思った。諾威ノウルエーから来てどことなく明るい感じのするのは、ことによるとこの人形のせいかも知れない。
 さて、ふたたび塔の上から眼を放つと、市のはずれの小高い坂の角に、城塞めいたまるい家が注意をひく。
 これはグルドブロロプス・ヘメットという国営のアパアトメントで、大いにいわくがある。一九〇七年に死んだオスカア二世が、その前年の結婚五十年記念に、国民のお祝い金で建てて一般公衆へ寄附したもので、結婚五十年の歴史――再婚や三婚や四婚や五婚、以下略、はすべて資格がないんだろうと思うが――を有する老夫婦――五十年経てばたいがい老夫婦に違いあるまいが――なら誰でもはいれて、間代だけは国家もちで生活出来るのだ。つまり、よく五十年も我慢した、両方ともえらい! というんで、国家的勇士としての栄誉と待遇をあたえるわけなんだろう。これを目的にして国じゅうの「われなべにとじぶた」が鍋も蓋もじっとして、あんまり「自由」を求めたり急に「自由意識にめざめ」たりしないとすれば、人間オスカア二世は、仲なかどうして世話なおやじだったと言われなければならない。
 塔をおり、木の下路のうすやみをくぐってスカンセンを出る。ある日、ぶらぶら町を歩いている。
 と、突然歩道に立ちどまった彼女が眼を円くして言った。
『あらっ! おみおつけのにおいがする!』
 とこれはじつに容易ならぬ発表である。私は思わずきこんだ。
『え? ほんとうかい――。』
 が、ひるがえって常識に叩くに、このストックホルム市の真ん中にぷうんとお味噌のにおいがするということは首肯しゅこう出来ない。しかし、この彼女の一言はにわかに私たちふたりを駆って発作的ノスタルジアの底に突き落すに充分だった。それによって私は、北の都の中央にあって豆腐のらっぱを聞き、夕刊配達の鉢巻きを見、そうして日本の「たそがれ」を思ったからだ。あまりの表情のない石と鉄と機械の生活――自然はすべて西洋の世界を見すてている――なんかと、そんな述懐はあとまわしにして、そこで私は考えたのである。これはきっと日本の神様が彼女をしてかく叫ばしめ、つまり「味噌汁のにおい」なる一つの民族感覚を中介ミデヤとしていま何事か私たちに知らせようとしているのではあるまいか――。
『ことによるとその近処に日本料理の家があるぜ。』
『まさか――。』
『支那めしでもいいじゃないか。とにかく御飯が食べられるんだから――。』
 というので、夫婦相携えてやたらにそこらを歩きまわっていると――またもや彼女が眼をまるくして叫んだ。
『あ! ありますよあすこに!』
 見ると、なるほど広場の角に大きな看板が出ている。MIKADOとパゴダ式に縦の電気文字だ。やれ嬉しやと手に手を取って駈けつけて見ると、なあんだ! 飾り窓にやくざな色ちぢみのキモノが並んで、けちな東洋雑貨の店だった。みそ汁のにおいはついに彼女の錯覚だったのである。だってほんとにしたんですもの――と、彼女はいまだに頑張ってはいるが――。
 アルセナルスガタン通りを散歩していたら、そこの一番地に「日本美術」と日本字の看板が下っていた。これは! と思って入口を覗くと、ちゃんとこう御丁寧な日本語の標札まで貼ってある。
瑞典スエーデン国ストックホルム市
 ヤポンスカ・マガジネット支配人
   エスキル・アルトベルグ

 アルトベルグさんは学者肌の中老の紳士で、私達が戸を排したときは、ちょうどお客のお婆さんに日本の紡績がすりを一尺ほど切って売っていた。店内は日本の品物をもってうずまり、ござ・雨傘・浮世絵・屏風・茶碗・塗物・呉服・小箱・提灯ちょうちん・人形・骨董・帯地・着物・行李こうり・火鉢・煙草盆――一口に言えば何でもある。ことにつばと「ねつけ」の所蔵は相当立派なものらしい。写楽、歌麿、広重なんかも壁にかかっている。珍客――私達――の出現にすっかりよろこんで、お客のほうは女店員に任せっきり、いろいろ江戸時代の絵を出して来たり、自分の著した“Netsuke”と題する研究的な一書を見せたり、そのあいだも、何にするのか女中のお仕着せみたいな染め絣が一尺二尺とよく売れて行く。
 アルトベルグさんは非常な論客だ。ほとんど完全に近い知識階級の日本語でまくし立てる。

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