第一日。
新しい寺院の屋根が、灰色の家の海の上へ、陽を受けてぴかぴか光って、線路にそって大都会の場末らしいごみごみした景色が展開し出した。と思ったらモスコウだった。ばかに好いお天気で、ばかに寒い。波蘭国境へ直行の人はここで乗りかえてきょうの午後アレキサンダア停車場から出発するんだが、私たちは、さいわい今この莫斯科「北部停車場」のプラットフォウムに現実に立っているという好機を利用し、急にしばらく滞在することに決して改札口を飛び出す。また出直して外部から露西亜入りをするには、じつにうるさい――そのいかにうるさいかは神さまが御存じだ――数々の手続きと極くすこしの可能性しかないというので、にわかに旅程を一変して「赤い都」の何日かを持つべく、保護色のために私たちもせいぜい赤い顔をして赤い群集に混り、赤い――じつは黒い――石だたみを踏んで最初の赤い空気を呼吸したのだ。mind you 私たちは現世紀を吹きまくる赤色颱風の中心にいるのだ。気のせいか提げている鞄まで赤くなりつつある。その重みでよろけながら、停車場の石段のうえで私は心中に絶叫した――ははあ! これが莫斯科か!
“So this is Moscow, the city of hidden hopes and treasured secrecy !”
そうすると驚いたことには、社会意識にめざめた馬車屋が社会意識にめざめた馬を駆って、たちまち私たちを包囲してしまう。
イズポシク・ダ?
クダア?
ルウブリヤア・カペイカ!
いろいろに聞える声が雨のように降る。ほんとに赤くなってそのすべてを辞退した私達は、「役人」の赤帽に「役人」の運転手を呼んでもらって政府直営の自動車に避難し、政府直営の商店が並んでいるあいだを政府直営の――まあ、とにかく市中へ出た。自動車がうごき出しても馬車屋が馬車を下りて追跡してくる。まけるから乗れというのだ。にちぇうぉ!
何という高い空、なんという中世紀じみた市街、なんという緩慢な雑沓、そしてすべてが何という「無産さ」であろう! 多くの外国人を知らない住民たちが、どこへ行っても私達を見てささやきあっている。ことによるとアフガニスタンの王様がまた来たのかと思ったのかも知れない。移転した旅行局のあとをあちこち捜し歩いて、とうとうバルシャヤ・モスコウフスカヤ旅館の隣りに発見する。寝台券の取消しだ。両替は国定相場で一円が九十三哥。ずいぶん虫のいい率である。が、これもにちぇうぉ!
ホテルはバルシャヤ・リュビヤンカ街のセレクト。労農政府の法律に準拠して戸を排すると、労農政府の法律に準拠して番人が案内し、労農政府の法律に準拠して哀訴嘆願の末ひとつの部屋を貰う。すべてが労農政府の法律に準拠して動くのだ。もし法律が足らなければいくらでも拵える。こしらえると言ったって法律や組合は金がかからないからどんどん産業的に多量製産している。このホテルだって全露移動人民宿泊便宜組合莫斯科支部第何区所属で、略称セレクトフスカヤとか何とかいう実はお役所の一種に相違あるまい。無産の料理を与えられて、無産のお湯へはいり、無産の寝台に寝る。どうせいままで「略取」されて来たと信ずる「階級」の仕事だから、今度はさかんに「略取」する。無産の室代八留。無産の牛酪一片――厚さ二分弱一寸四方――五十哥――牛乳――とよりも些さか牛乳に似た冷水――が一合日本の二十四銭。チョコレイト――わが国において金五十銭ぐらいのもの――が約八円。女の靴最低四十留より。
第一日の印象。そぃえと・ろしあに多すぎる物、議論。すくな過ぎるもの、麺麭。
第二日。モスコウのあけ方は眼を射るように美しい。新寺院――これはどこからでも見える――をはじめ寺々の尖塔が金に銀に青に光って、金と銀と青を溶かした陽線が室内の大鏡に反映する。そうすると平凡な国の平凡な朝ぼらけと同じに鶏と赤ん坊が泣いて、巷の騒音が油然と唸り出すのだ。広場へでると煙草と果物の露店が並んでいる。巻煙草はべらぼうに吸口が長い。露西亜人は冬外套の襟を立てるのでそのために特にこう出来てるんだそうだが、私の考えでは、これは例の過激派鬚を焼かない用心だと思う。そのほか靴墨やら野菜やらぼたんやら皮帯なんかも大道で売ってる。これらの店は儲けがほそいのでこうして個人にも許しているのだ。大通りの商店――その多くは空っぽであり、ほとんど一軒おきにあき家だが――はみんな言うまでもなく国営で、売子も番頭もここではお役人である。だから歯みがき一つ買うにも、まず政府へ願書を差し立て、何が故に歯磨きに興味を感ずるか、年齢は幾つか、既婚か未婚か既婚ならば妻もしくは夫の人物・性行・嗜好の一般、家族は何人か――各写真一葉添附のこと――共産党政府に異心なきことの証明。それに生年月日と署名、そして、もちろんほかに七人の保証人を必要とする。髪を刈るにも芝居を見るにもこの手続きを踏まなければならない――なに、ただそれほどぎごちない感じのする「労働者の天地」だといいたいだけだ。と言ったところで、個人経営の商店もあるにはある。が、許可を得るのが難しいうえに税が高く、第一その筋を商売がたきに廻してやって往けるわけがない。だから微々として振わず片っぱしからつぶれちまう。ちょうど私有財産もまんざら認めないではない、六十万留までは立派にゆるしているんだが、四十万の相続税を取るといったように――。
きょうは滞在許可を受けに、旅券と写真と金を持ってホテルの男に伴れられて莫斯科庁へ出頭におよぶ。やたらに速力を出して自動車を飛ばしてゆくと、田舎の中学みたいな建物のまえへ出た。それがモスコウ・ソヴェイトの政庁だった。庭をまわって人事課旅券係といったような別棟へ顔を出す。いかに政府が人のうごきを気にして監視しているかが窺われるほど、ここは不安げな群衆でいっぱいだ。めいめい書類のようなものを持ってうろうろしている。列を作って順番を待つんだが、私は日本人だから――だろうと思うが――特別にさきにやってくれた。第一の机から第二の机、第三第四と引きまわされる。どこの机に控えているのも子供みたいな若い男か女ばかりだ。ばかにつんけん威張っている。女は、べらべらの長着をだらしなく引っかけて乳まで見えそうなのが紙巻をくわえながら判をついていたり、女工のようなのが人民を訊問していたり、裏店のおかみ然たるのが願書の不備を指摘して突っ返したり、これがみんなお役人なんだから何とも奇抜な光景である。ウクライナのお百姓が韃靼人に、「ちょっくらものを伺いますだが」をやったり、その韃靼人が首を振ってにやにや笑ったり――私のところへも仏蘭西語で何か訊きにきたやつがある。首をふってにやにや笑ってやる。
『お前は何のためにモスコウで降りたのか。』
私の前の女中のような十八、九の女が威丈高に声をかける。
『芝居を見に。』
ホテルの男が代弁する。心得たものだ。これが一ばんいいらしい。
『職業は何か。』
私がもじもじ困っていると、そばから肥ったお婆さんが口を出した。
『芸術家?』
そうだ! 何と便利なことばを思いついてくれたろう!――と私がよろこんでいるうちに、むこうでさっさとそうきめてアルチスト・アルチストと私語きあっている。どうも見たところ比較的好意を寄せてるらしいから、だいたい大丈夫だろう――それから例によってさんざん戸籍しらべみたいなことを繰返したあげく、
『署名出来るか。』
と肥ったお婆さんがおっしゃる。あとで聞くとこれが上役だそうだ。私はまた洗濯婆さんが油を売りに来てるのかと思った。
やがてのことに別室へ呼び込まれる。カラハンみたいな大男が鼻眼鏡をかけ直して写真と私を見くらべて首実験をする。ラスコウリニコフの部屋のような暗い陰惨な事務室に、硝子ごしに青葉がうつろい、天井に陽の斑がおどって、解剖台を思わせる大きな机のうえに、たった一つ、あまりに周囲とかけ離れた物が置いてある。金に宝石をちりばめた高さ一尺ほどの時計だ。革命のときにどこか貴族の家からでも持ち出したものだろう。十時三十二分。ふと見ると正面の壁にレニンの像が飾ってある。
それからそこに長いこと待たされて、それから何度も同じような質問に返答して、それから、それから、それから――とうとうお前はもう帰れという。滞在をゆるすか許さないか、いずれゆっくり相談のうえで知らせるから――と。
にちぇうぉ! 仕方がないから帰宿。ぶらぶら町を見物する。
夜。競売市へ行く。共産党が宮廷や富豪の邸から担ぎ出した貴重品類を、革命十年後のこんにちまだ小出しにしてこうして売っているのだ。個人が頼んで売ってもらうのもある。講演会のように並んで掛けていると、競売係の役人が壇に立って色んな物を次つぎに指さしながら饒舌り立てる。ほしい人は手をあげて、五哥、十哥、五十哥、一留、二留三留とたちまちあがってゆく。置物・衣裳・煙草入れ・皿・花瓶・傘・でっさん・敷物・時計、何でもある。五留からは二十五哥上り、十留からは一留あがりである。帝政時代にはつねに宮廷に五万人分の大晩餐用食器が用意してあったそうで、だからこうして毎月曜日の夜、プラアガを開いても種がつきないわけだ。貴族の使った長椅子が十八留で落ちる。何もかも飛ぶように売れていくのを見ていると、露西亜の財政的困窮がうなずけなくなる。ことによると、食べものをたべなくても芝居見物と買物だけはかかさないのかも知れない。にちぇうぉ!
私たちも競り抜いて二枚の油絵を買った。グジコフ筆「窓の静物」とガボリュボフの「クレムリン」「雪景」。グジコフは人気のある若い静物画家だが、今日のプラアガを当てこみに一晩で塗りまくったものとみえて、まだ絵の具が乾いていない。粗末なアトリエでおなかのへったグジコフがぱんのために徹夜しているところが表現派の映画面のように心描される。東洋の一旅人がそれを競りおとしたのだ。なんとぼへみあんな莫斯科の一夜であることよ!
第二日の印象。古い器物と家具は露西亜の持つうつくしい幽霊だ。
第三日。
小雨。ホテルに閉じこもってやたらにお茶を喫む。新寺院―― again ! ――円屋が遠く霞んで窓から見るモスコーは模糊としている。雨のなか、ホテルの前のバルシャヤ・リュビヤンカの大通りを「赤い守備兵」の一隊がゆく。赤旗が濡れて、人の靴は重い。常備六十万、戦時百万と号す。莫斯科市史のうえに眠る。「年代記にモスコウの名のはじめて見ゆるは一一四七年にして、一一五六年大公爵ウラジミル・ドルゴルキイ、市の外周に堀と木塁をめぐらし――。」
第四日。
朝飯の献立。ズワ・チャイ。アペルシナ。ガリャアチエ・マラコ。ヤイチニツァ・ウェッチイナ。ブウロチキ。マスロ――何だか誰にもわからない。食べたはずの私にも判然しないくらいだから。
第五日。
トウェルスカヤ街五九番に革命博物館を見る。社会運動者の奮闘と度々の革命の犠牲を歴史的にみせて、十月革命の成功におわっている。古い刑具と、死体の写真。レイニンの像。呪詛と反感と狂望と歓喜。ゴウルキイの原稿。ゲルツェンの原稿。地下室に監房と蝋人形の囚徒。秘密運動のじっさい。
この建物は一八一四年に出来たラスモヴスキイ邸宅で、のち英吉利倶楽部になっていたこともある。露西亜革命の博物館だが、ろしあ共産党の歴史博物館でもあり、同時にまたレイニンの個人博物館をも合わせているのだ。
小劇場はきょう革命劇「一九一七年」を上演している。行きたいが今夜はすでに切符が買ってあるので直ぐまえの大劇場へまわる。出しものはプロコウヒフの作曲「三つの蜜柑への恋」。バレイだ。金ずくめの壮麗な殿堂。座席四千百。左右にもとの貴族席、正面に宮廷席のボックスがある。いまはそこに共産党員とその家族が頬杖をついて、今昔の感あらたなるものがある。日本の故老SK氏なども、近くはニコライ二世が観衆の歓呼に答えたであろう元の玉座から観るのだそうだ。舞台のうえに鎌と鉄槌と麦と星のソヴィエトの大紋章が掲げてある。革命成就と同時に共産党員が押しこんで、旧露西亜の鷲と王冠のしるしを下ろし、かわりにこの労農のマアクをあげたのだという。すばらしい音楽と大道具。割れっ返る声量と衣裳美の夢幻境。幕あいに廊下を歩くと、ここにもいたるところにレイニンの像が飾ってあるのを見る。ハルビンで同じホテルに泊り合わせ、東支倶楽部の舞踊会でも私たちのまえにいた独逸人の老夫婦が、こんやも私達の前に掛けている。両方で気がついて奇遇をよろこぶ。
閉ねて出ると、高い劇場の破風に、有名な四頭の馬がひく戦車の彫刻が、夜の雲をめざして飛ぼうとしていた。露のおりた石の道を馬車で帰る。霧のなかから浮かび出て霧へ消える建物。ひづめの音。半月。第五日の印象。いまのSSSR、コサックと農民と労働者が美装の史書へしるした大きな黒い手のあとだ。
第六日。
終日散歩。古物店をまわり歩く。百貨店モストログの入口で、コウカサスの花売娘がすみれの花束を妻のポケットへ押しこむ。おしこんで置いてあとからお金をねだる。苦笑して一留を献ずる。
ダイヤモンド一カロット約三百留。九百留も出せばちょっとしたものがある。ウラルの七宝、ことに銀細工がいい。ロマノフ家の紋のついた皿・洋杯・ナイフの類、どこでも安く売っている。
かえりに路傍に人だかりがしていた。乞食のような男が、生れたばかりの犬の子を売っているのだった。
第七日。
昼。トレチヤコフスキイ美術館。
夜。第二芸術座。
私の好きな絵はスリコフの「引廻し」とレヒタンの「白樺」、彼女はロコトフ作「見知らぬ人」。
芸術座ではイフゲニイ・ザミアチンの「蚤」をやっていた。
第八日。
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