その婚礼の席には秋山長右衛門夫妻、近藤六郎兵衛がいたが、酒宴になったところで、伊右衛門の朋輩今井仁右衛門、水谷庄右衛門、志津女久左衛門の三人が押しかけて来た。そして、酒の座が乱れかけたところで、行灯の傍から一尺位の赤い蛇が出て来た。伊右衛門は驚いて火箸で庭へ刎ねおとしたが、いつの間にかまたあがって来て行灯の傍を這うた。伊右衛門はまたそれを火箸に挟んで裏の藪へ持って往って捨てたが、朝ぼらけになって皆が帰りかけたところで、天井からまた赤い蛇が落ちて来た。伊右衛門は何だかお岩の怨念のような気がして気もちが悪かった。伊右衛門はやけにその蛇の胴中をむずと掴んで裏の藪へ持って往って捨てた。
物縫い奉公に住み込んだお岩は、伊右衛門のことを思い出さないこともないが、それでも心は軽かった。某日お岩が庖厨の庭にいると、煙草屋の茂助と云う刻み煙草を売る男が入って来た。この茂助はお岩の家へも商いに来ていたのでお岩とも親しかった。
「田宮のお嬢様でございますか、この辺にいらっしゃると聞いておりましたが、こちらさまでございますか、いかがでございます、左門殿町の方へも時どきいらっしゃいますか」
「わたしは、もう、道楽者の夫とは、縁を切って、こちらさまの御厄介になっておるから、往ったこともないが、さすがの比丘尼も、あの道楽者には困っておりましょうよ」
「おや、お嬢様は、何も御存じないと見えますね、伊右衛門様は、伊藤喜兵衛様のお妾のお花さんを御妻室になされておりますよ」
「え、それはほんとかえ」
「ほんとでございますとも、それも人の噂では、喜兵衛様のお妾のお花と、伊右衛門様をいっしょにするために、喜兵衛様、長右衛門様、伊右衛門様の三人が同腹になって、伊右衛門様に道楽者の真似をさして、それでお嬢様をお出しになったということでございます」
「そうか、そうであったか、そう云えば、読めた、鬼、外道」
お岩の眼はみるみる釣りあがった。顔の皮が剥けて渋紙色をした眼の悪い髪の毛の縮れた醜い女の形相は夜叉のようになった。茂助は驚いて逃げだした。お岩の炎の出ているような口からは、伊右衛門、喜兵衛、お花、長右衛門の名がきれぎれに出た。お岩の朋輩の婢達はお岩を宥めようとしたがお岩の耳には入らなかった。伝六と云うそこの若侍がつかまえようとすると、
「おのれも伊右衛門に加担するか」
と、云ってその若侍を投げ飛ばしたのちに、台所へ往って台所用具を手あたり次第に投げ出してから狂い出た。御家人の家ではそのままにしておけないので、大勢で追っかけさしたがどこへ往ったのか姿を見失ってしまった。そして、辻つじの番人に聞いて歩いていると、
「二十五六の女が髪をふり乱しながら、四谷御門の外へ走って往くのを見た」
と、云うところがあったので、またその方を探したがとうとう判らなかった。
お岩が奉公先を狂い出て行方の判らなくなったことは伊右衛門達の方へも聞えて来た。伊右衛門はそれを聞くとその当座はうす気味が悪かったが、結局邪魔者がいなくなったので安心した。
翌年の四月になって女房のお花は女の小供を生んだ。それは喜兵衛の小供であるのは云うまでもない。伊右衛門の家はそれから平穏で、お花は続いて三人の小供を生んだが、その小供の総領になっているお染と云うのが十四、次の男の子の権八郎と云うのが十三、三番目の鉄之助と云うのが十一、四番目お菊と云うのが三つになった時、それは七月の十八日の夜であったが、伊右衛門初め一家の者が集まって涼んでいると、縁の端にお岩のような女が姿をあらわして、
「伊右衛門、伊右衛門、伊右衛門」
と、三声続けて云いながら往ってしまった。伊右衛門は邪気を払うために、家の中で弾の入ってない鉄砲を鳴らした。すると四番目の女の子がその音に驚いて引きつけ、医師にかけたが癒らないで八月の十五日に歿くなった。
それから伊右衛門の家には怪異が起って、お染の許へ男が来るような気配があったり、夜眼を覚して見ると女房の傍に男が寝ていて消えたりしているうちに、某日の黄昏三番目の男の子が家の後へ往ってみると、前年歿くなっている四番目の女の子がいて負ってくれと云った。男の子は怖れて逃げて来たが、それから病気になり、日蓮宗の僧侶に頼んで祈祷などもしてもらったけれども、とうとう癒らずにその年の九月十八日になって歿くなった。
伊右衛門はますます恐れて雑司ヶ谷の鬼子母神などへ参詣したが、怪異はどうしても鎮まらないで女房が病気になったところへ、四月八日、芝の増上寺の涅槃会へ往っていた権八郎がその夜霍乱のような病気になって翌日歿くなり続いて五月二十七日になって女房が歿くなった。伊右衛門はお染に源五右衛門と云うのを婿養子にしたところで、その年の六月二十八日、不意に暴風雨が起って雷が鳴り、東の方の庇を風に吹きとられた。伊右衛門はしかたなしに屋根へあがって応急の修繕をしようとしたが、足を踏み外して腰骨を打って動けなくなったうえに、耳の際を切った疵が腐って来て膿が出るので、それに鼠がついて初めは一二匹であったものが、次第に多くなって防ぐことができないので、長櫃の中へ入れておくうちに七月十一日になって死んでしまった。
田宮の家では源五右衛門が家督を相続したが、そのうちにお染が病気になった。年は二十五であったと記録にある。そのお染が歿くなってから源五右衛門は、家についている怪異が恐ろしいので、己の後へ養子をして別居しようと思っているうちに、邸の内の樹木を無暗に斬りだした。源五右衛門は発狂したのであった。それがために扶持を召し放されて田宮家は断絶した。
田宮家がこうして断絶する一方、伊藤喜兵衛の家では喜兵衛が隠居して養子に名跡を継がしてあったが、その養子も隠居して新右衛門と云うのに名跡を継がしたところで、二代目の喜兵衛は吉原へ通うようになり、そのうちに遊び仲間が殺された罪にまきぞえになって、牢屋に入れられた末に打ち首になったので、家はとり潰されて新右衛門父子は追放になった。そして、一代目の喜兵衛は乳母の小供の覚助と云う者の世話になって露命を繋いでいたが、暮の二十八日になって死んでしまった。
また、秋山長右衛門の家では、女のおつねが食あたりのようになって歿くなり、続いて女房が歿くなった。その時田宮源五右衛門の家が断絶になったが、その田宮の上り邸はすぐ隣であったから、長右衛門に御預となった。
そのうちに長右衛門は組頭になった。御先手支配の浅野左兵衛は長右衛門を呼んで、田宮の後をとり立てるように命じたので、長右衛門は総領の庄兵衛を跡目にした。すると己の跡目を相続するものがないので、御持筒組同心の次男で小三郎と云う十三になる少年を養子にした。そして、庄兵衛が御番入りをして三年目になった時、庄兵衛は十人ばかりの朋輩といっしょに道を歩いていると、年のころ五十ばかりに見える恐ろしい顔をした女乞食がいた。庄兵衛といっしょに歩いていた近藤六郎兵衛はその乞食に眼を注けて、
「かの女非人は、田宮又左衛門の女に能く似ている」
と云った。すると他の者は、
「お岩は、あれよりも背も低かったし、御面相も、あれよりよっぽど悪かった」
と云った。庄兵衛は小さい時から種々の事を聞かされているので気味悪く思ったが、それから三日目の夕方になって病気になった。長右衛門は驚いて庄兵衛の家の跡目の心配をしていると、六日目の夕方から長右衛門自身が病気になって八日目に歿くなり、続いて庄兵衛が十日目になって歿くなったので田宮家は又断絶した。
小三郎は養父の二七日の日になって法事をしたところで、翌朝六つ時分になって庖厨に火を焼く者があった。それは五十ばかりの女であった。小三郎は不思議に思って声をかけるとそのまま消えてしまった。
その怪しい女の姿は翌朝また地爐の傍に見えた。その時小三郎はまだ眠っていたので小三郎の父の家から付けてある重左衛門と云う小男が見つけた。小三郎は起きてその話を聞いて縁の下を検べたが、黒猫が一ついたばかりで別に不思議もなかった。しかし、怪異が気になるので大般若経などを読んでもらったりしているうちに、これも病気になって歿くなったので秋山家も断絶した。そして、秋山と田宮の建物がとりこわしになったので、左門殿町の妖怪邸と云って好事者が群集した。
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