「いや、大変なことがあった、お前さんの言った通りだ」
「そうだろうとも、ぜんたいどんなことがあったね」
「どんなことって、湖西に行って尋ねたが、判らないので、帰ろうと思って、あの湖心寺の前まで来たが、くたびれたので、一ぷくしようと思って、寺の中へ行ってみると、西の廊下の行き詰めに、暗い室があるじゃないか、何をする室だろうと思って、覗いてみると、棺桶があって、それに故奉化符州判の女麗卿の柩と書いてあったのだ、麗卿とはあの女の名前だよ」
「じゃ、その女の邪鬼だ、だから言わないことか、お前さんが骸骨と抱き合っているところを、ちゃんとこの眼で見たのだもの」
「えらいことになった、どうしたらいいだろう、それにあの女の連れてくる婢も、藁人形だ、牡丹の飾の燈籠もやっぱりあったのだ、どうしたらいいだろう」
「そうだね、玄妙観へ行って、魏法師に頼むより他に途がないね、魏法師は、故の開府王真人の弟子で、符にかけちゃ、天下一じゃ」
喬生は家へ帰るのが恐ろしいので、その晩は老人の許へ泊めてもらって、翌日玄妙観へ出かけて行った。魏法師は喬生の顔を遠くのほうからじっと見ていたが、傍近くへ行くと、
「えらい妖気だ、なんと思ってここへ来た」
喬生は驚いた。そしてなるほどこの魏法師は豪い人であると思った。彼はその前の地べたへ額を擦りつけて頼んだ。
「私は邪鬼に魅いられて、殺されようとしているところでございます、どうかお助けを願います」
魏法師は喬生から理由を聞くと朱符を二枚出した。
「一つを門へ貼り、一つを榻へ貼るがいい、そして、これから、二度と湖心寺へ行ってはならんよ」
喬生は家へ帰って、魏法師の言ったように朱符を門と榻へ貼ったところで、怪しい女はその晩から来なくなった。
一月ばかりすると、喬生の恐怖もやや薄らいできた。彼はある日、袞繍橋に住んでいる友達のことを思い出して訪ねて行った。友達は久しぶりに訪ねてきた喬生を留めて酒を出した。
二人はいろいろの話をしながら飲んでいるうちに、夕方になって陽がかげってきたので、喬生は驚いて帰りかけたが、遠慮なしに打ちくつろいで飲んだ酒が気もちよく出てきたので、彼は伸び伸びした気になって歩いていた。蛙の声が聞えてきた。
喬生は湖縁の路を取らずに湖の中の堤を帰っていた。堤の柳は芽を吐いて、それが柔かな風に動いていた。彼の体は湖心寺の前へ来ていた。いつの間にか日が暮れて夕月が射していた。
喬生はふと魏法師の戒めを思いだした。彼は厭な気がしたので、足早に通り過ぎようとした。
「旦那様」
それは聞き覚えのある女の声であった。喬生は驚いて眼をやった。金蓮が来て前へ立っていた。
「お嬢さんがお待ちかねでございます、どうぞいらしてくださいまし」
喬生の手首には金蓮の手が絡ってきた。喬生はその手を振り放して逃げようとしたが逃げられなかった。金蓮は強い力でぐんぐんと引張った。喬生は濁った靄に脚下を包まれているようで足が自由にならなかった。
「旦那様は、ほんとうに薄情でございますのね」
喬生は金蓮の手を振り放そうと悶掻いたが、どうしても放れなかった。
「そんなになさるものじゃございませんわ」
喬生はもう廻廊の上へ引きあげられていた。
「さあ、お入りくださいまし、ここでございます」
喬生は室の中へ引き込まれた。真紅の色の鮮やかな牡丹燈が微白く燃えていた。
「あなたは、妖道士に騙されて、私をお疑いになっておりますが、それはあんまりじゃありませんか、ほんとうにあなたは、薄情じゃありませんか」
麗卿が燈籠の下にしんなりと坐っていた。喬生はまた逃げようとした。
「ほんとにあなたは、薄情でございます、ね、でもこうしてお眼にかかったからには、どんなことがあっても、お帰ししませんから」
女は起ってきて喬生の手を握った。と、その前にあった棺桶の蓋が急に開いた。
「さあ、この中へお入りくださいまし」
女はその棺桶の中へまず自分の体を入れてから、喬生を引き寄せた。棺桶は二人を内にして、そのまま閉じてしまった。
翌日になって喬生の隣の老人は、喬生が帰ってこないので心配して彼方此方と探してみたが、どうしても居処が判らない。いろいろ考えた結果、湖心寺の棺桶のことを思いだして、付近の者を頼んでいっしょに湖心寺へ行って、棺桶のある室へ行ってみた。
棺桶の蓋の間から喬生の着ていた衣服のはしが見えていた。老人は驚いて住職を呼んできた。住職は棺桶の蓋を取った。喬生はまだ生きているような若い女の屍と抱きあうようにして死んでいた。
「この女は奉化州判の符君の女でございますが、今から十二年前、十七の時に亡くなりましたので、かりにここへ置いてありましたが、その後、符君の処では、家をあげて北へ移りましたから、そのままになっておりました」
住職はそれから女と喬生を西門の外へ葬ったが、その後、雨曇りの日とか月の黒い晩とかには、牡丹燈を点けた少女を連れた喬生と麗卿の姿が見えて、それを見た者は重い病気になった。土地の者は懼れ戦いて、玄妙観へ行って魏法師にこの怪事を祓うてくれと頼んだ。
「わしの符は、事が起らん前なら効があるが、こうなってはなんにもならん、四明山に鉄冠道人という偉い方がおられるから、その方に頼むがいい」
土地の者は魏法師の言葉に従うて、藤葛を攀じ、渓を越えて四明山へ行った。四明山の頂上の松の下に小さな草庵があって、一人の老人が几によりかかって坐っていた。草庵の前には童子が丹頂の鶴の世話をしていた。人びとは老人の前へ行って拝をした。
「わしは、こんな処へ籠っている隠者だから、そんなことはできない、それは何かの聞き違いだろう」
人びとは玄妙観の魏法師から教えられて来たと言った。
「そうか、わしは、今年で、もう、六十年も山をおりたことはないが、饒舌の道士のために、とうとう引っぱり出されるのか」
道人は鶴の世話をしている童子を呼んで、それを伴れて山をおりかけたが、鳥の飛ぶようで追いついて行けなかった。人びとがへとへとに疲れてやっと西門外へ行った時には、道人はもう方丈の壇を構えていた。
やがて道人は壇の上へ坐って符を書いて焚いた。と、三四人の武士がどこからともなしにあらわれてきた。皆黄いろな頭巾を被って、鎧を着、錦の直衣を着けて、手に手に長い戟を持っていた。武士は壇の下へきて並んで立った。
「この頃、邪鬼が祟りをして、人民を悩ますから、その者どもを即刻捕えてこい」
武士は道人の命令を聞いてどことなしに行ってしまったが、間もなく、喬生、麗卿、金蓮の三人の邪鬼に枷鎖をして伴れてきた。
武士は邪鬼にそれぞれ鞭を加えた。邪鬼は血塗れになって叫んだ。
「その方どもは、何故に人民を悩ますのじゃ」
道人はまず喬生からその罪を白状さして、それをいちいち書き留めさした。その邪鬼の口供の概略をあげてみると、喬生は、
伏して念う、某、室を喪って鰥居し、門に倚って独り立ち、色に在るの戒を犯し、多欲の求を動かし、孫生が両頭の蛇を見て決断せるに効うこと能わず、乃ち鄭子が九尾の狐に逢いて愛憐するが如くなるを致す。事既に追うなし。悔ゆとも将た奚ぞ及ばん。
符女は、
伏して念う、某、青年にして世を棄て、白昼隣なし。六魄離ると雖も、一霊未だ泯びず、燈前月下、五百年歓喜の寃家に逢い、世上民間、千万人風流の話本をなす。迷いて返るを知らず、罪安んぞ逃るべき。
金蓮は、
伏して念う、某、
殺青を
骨となし、
染素を
胎と成し、
墳に埋蔵せらる。是れ誰か
俑を作って用うる。面目
機発、人に比するに体を具えて微なり。既に名字の称ありて、精霊の異に乏しかるべけんや。因って計を得たり。
豈敢て妖をなさんや。
武士はその供書を道人の前へさしだした。道人はこれを見て判決をくだした。
蓋し聞く、
大禹鼎を
鋳て、
神姦鬼秘、その形を逃るるを得るなく、
温犀を燃して、水府竜宮、
倶にその状を現わすを得たりと。
惟れ幽明の異趣、
乃ち
詭怪の多端、之に遇えば人に利あらず、之に遭えば物に害あり。故に
大門に入りて
晋景歿し、
妖豕野に啼いて
斉襄す。禍を降し妖をなし、
を興し
薜をなす。是を以て九天邪を斬るの使を設け、十地悪を罰するの司を列ね、
魑魅魍魎をして以てその奸を容るる無く、
夜叉羅刹をして、その暴を
肆にするを得ざらしむ。
矧んやこの清平の世、
坦蕩の時においておや。而るに
形躯を変幻し、草木に
依附し、天
陰り雨
湿うの夜、月落ち
参横たわるの
晨、
梁に
嘯いて声あり。その室を窺えども
睹ることなし、
蠅営狗苟、
羊狠狼貪、
疾きこと
飃風の如く、烈しきこと猛火の
若し。喬家の子生きて猶お悟らず、死すとも何ぞ
恤えん。符氏の女死して尚お
貪婬なり、生ける時知るべし。況んや金蓮の怪誕なる、明器を仮りて以て
矯誣し、世を惑わし民を
誣い、条に違い法を犯す。狐
綏々として蕩たることあり、
鶉奔々として良なし、悪貫已に
盈つ。罪名宥さず。陥人の坑、今より
填ち満ち、迷魂の陣、此より打開す。双明の燈を
焼毀し、九幽の獄に
押赴す。
武士達は泣き叫ぶ邪鬼を曳いて行った。そして、武士達が見えなくなると、道人も起ちあがって童子を伴れて行ってしまった。
翌日土地の者は、道人に昨日の礼を言おうと思って、四明山頂の草庵へ行ったが、草庵は空になって何人もいなかった。土地の者は道人の行方を訊こうと思って玄妙観へ行ってみると、魏法師は口が利けなくなっていた。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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