元の末に方国珍という者が浙東の地に割拠すると、毎年正月十五日の上元の夜から五日間、明州で燈籠を点けさしたので、城内の者はそれを観て一晩中遊び戯れた。
それは至正庚子の歳に当る上元の夜のことであった。家々の簷に掲げた燈籠に明るい月が射して、その燈は微赤く滲んだようにぼんやりとなって見えた。喬生も自分の家の門口へ立って、観燈の夜の模様を見ていた。鎮明嶺の下に住んでいるこの若い男は、近頃愛していた女房に死なれたので、気病のようになっているところであった。
風のない暖かな晩であった。観燈の人びとは、面白そうに喋りあったり笑いあったりして、騒ぎながら喬生の前を往来した。その人びとの中には若い女の群もあった。女達は綺麗な燈籠を持っていた。喬生はその燈に映しだされた女の姿や容貌が、自分の女房に似ていでもすると、いきいきとした眼をしたが、すぐ力のない悲しそうな眼になった。
月が傾いて往来の人もとぎれがちになってきた。それでも喬生はぽつねんと立っていた。軽い韈の音が耳についた。彼は見るともなしに東の方へ眼をやった。婢であろう稚児髷のような髪をした少女に燈籠を持たせて、その後から若い女が歩いてきたが、少女の持っている燈籠の頭には、真紅の色の鮮やかな二つの牡丹の花の飾がしてあった。彼の眼はその牡丹の花から後ろの女の顔へ行った。女は十七八のしなやかな姿をしていた。彼はうっとりとなっていた。
女は白い歯をちらと見せて喬生の前を通り過ぎた。女は青い上衣を着ていた。喬生は吸い寄せられるようにその後から跟いて行った。彼の眼の前には女の姿が一ぱいになっていた。彼はすこし歩いたところで、足の遅い女に突きあたりそうになった。で、左斜にそれて女を追い越したが、女と親しみがなくなるような気がするので、足を遅くして女の行き過ぎるのを待って歩いた。と、女は振り返って笑顔を見せた。彼は女と自分との隔てがなくなったように思った。
「燈籠を見にいらしたのですか」
「はい、これを連れて見物に参りましたが、他に知った方はないし、ちっとも面白くないから帰るところでございます」
女は無邪気なおっとりした声で言った。
「私は宵からこうしてぶらぶらしているのですが、なんだか燈籠を見る気がしないのです、どうです、私の家は他に家内がいませんから、遠慮する者がありません、すこし休んでいらしては」
「そう、では、失礼ですが、ちょっと休まして戴きましょうか、くたびれて困ってるところでございますから」
と言って、燈籠を持った少女の方を見返って、
「金蓮、こちらでちょっと休まして戴きますから、お前もおいで」
少女は引返してきた。
「すぐ、その家ですよ」
喬生は自分の家の方へ指をさした。少女は燈籠を持って前へ立って行った。二人はその後から並んで歩いた。
「ここですよ」
三人は喬生の家の門口へきていた。喬生は扉を開けて二人の女を内へ入れた。
「あなたのお住居は、何方ですか」
喬生は女の素性が知りたかった。女は美しい顔に微かに疲労の色を見せていた。
「私は湖西に住んでいる者でございます、もとは奉化の者で、父は州判でございましたが、その父も、母も亡くなって、家が零落しましたが、他に世話になる、兄弟も親類もないものですから、これと二人で、毎日淋しい日を送っています、私の姓は符で、名は淑芳、字は麗卿でございます」
喬生はたよりない女の身が気のどくに思われてきた。
「それはお淋しいでしょう、私も、この頃、家内を亡くして、一人ぼっちになっているのですが、同情しますよ」
「奥様を、お亡しなさいました、それは御不自由でございましょう」
「家内を持たない時には、そうでもなかったのですが、一度持っていて亡くすると、何だか不自由でしてね」
「そうでございましょうとも」
女はこう言って黒い眼を潤ませて見せた。喬生はその女と二人でしんみりと話がしたくなった。
「彼方へ行こうじゃありませんか」
女はとうとう一泊して天明になって帰って行った。喬生はもう亡くなった女房のことは忘れてしまって夜のくるのを待っていた。夜になると女は少女を連れてきた。軽い小刻みな韈の音がすると、喬生はいそいで起って行って扉を開けた。少女の持った真紅の鮮やかな牡丹燈がまず眼に注いた。
女は毎晩のように喬生の許へきて、天明になって帰って行った。喬生の家と壁一つ隣に老人が住んでいた。老人は鰥暮しの喬生が夜になると何人かと話でもしているような声がするので不審した。
「あいつ寝言を言ってるな」
しかし、その声は一晩でなしに二晩三晩と続いた。
「寝言にしちゃおかしいぞ、人もくるようにないが、それとも何人か泊りにでもくるだろうか」
老人はこんなことを言いながらやっとこさと腰をあげ、すこし頽れて時おり隣の灯の漏れてくる壁の処へ行って顔をぴったりつけて好奇に覗いて見た。喬生が人間の骸骨と抱き合って牀に腰をかけていたが、その時嬉しそうな声で何か言った。老人は怖れて眼前が暗むような気がした。彼は壁を離れるなり寝床の中へ潜りこんだ。
翌日になって老人は喬生を自分の家へ呼んだ。
「お前さんは、大変なことをやってるが、知ってやってるかな」
老人は物におびえるような声で言った。喬生はその意味が判らなかったが、女のことがあるのでその忠告でないかと思ってきまりが悪かった。
「さあ、なんだろう、私には判らないが」
「判らないことがあるものか、お前さんは、大変なことをやってる、気が注かないことはないだろう」
女のことにしては老人の顔色や言葉がそれとそぐわなかった。
「なんだね」
「なんだもないものだ、お前さんは、おっかない骸骨と抱きあってるじゃないか」
「骸骨、骸骨って、あれかね」
「笑いごとじゃないよ、お前さん、おっかない骸骨と、何をしようというのだ、お前さんは、邪鬼に魅いられてるのだよ」
喬生も薄気味悪くなってきた。
「ほんとうかね」
「嘘を言って何になる、わしはお前さんが、毎晩のようにへんなことを言うから、初めは寝言だろうと思ってたが、それでも不思議だから、昨夜、あの壁の破れから覗いて見たのだ、お前さんは、邪鬼に生命を取られようとしてるのだ」
「観燈の晩に知りあって、それから毎晩泊りにきてたが、邪鬼だろうか」
「邪鬼も邪鬼、大変な邪鬼だ」
「奉化の者で、お父さんは州判をしてたと言ったよ、湖西に婢と二人で暮してると言うのだ、そうかなあ」
「そうとも、邪鬼だよ、わしがこんなに言っても、ほんとうと思えないなら、湖西へ行って調べてみるがいいじゃないか、きっとそんな者はいないよ」
「そうかなあ、たしかに麗卿と言ってたが、じゃ行って調べてみようか」
その日喬生は月湖の西縁へ行った。湖西の人家は湖に沿うて彼方此方に点在していた。湖の水は微陽の射した空の下に青どろんで見えた。そこには湖の中へ通じた長い堤もあった。堤には太鼓橋になった石橋が処どころに架って、裸木の柳の枝が寒そうに垂れていた。
喬生は湖縁を行ったり、堤の上を行ったりして、符姓の家を訊いてまわった。
「このあたりに、符という姓の家はないでしょうか」
「さあ、符、符といいますか、そんな家は聞きませんね」
「若い女と婢の二人暮しだということですが」
「若い女と婢の二人暮し、そんな家はないようですね」
何人に訊いても同じような返辞であった。そのうちに夕方になって湖の面がねずみがかってきた。喬生はいくら訊いても女の家が判らないので、老人の言葉を信ずるようになってきた。彼は無駄骨を折るのが馬鹿馬鹿しくなったので、湖の中の堤を通って帰ってきた。
湖心寺という寺が堤に沿うて湖の中にあった。古い大きな寺で眺望が好いので遊覧する者が多かった。喬生もそこでひと休みするつもりで寺の中へ行った。
もう夕方のせいでもあろう、遊覧の客もいなかった。喬生は腰をおろす処はないかと思って、本堂の東側になった廻廊へあがって行った。朱塗の大きな柱が並木のように並んでいた。彼は東側の廻廊から西側の廻廊へ廻ってみた。その西側の廻廊の行き詰めにうす暗い陰気な室の入口があった。彼は好奇にその中をのぞいてみた。そこには一個の棺桶が置いてあったが、その上に紙を貼って太い文字を書いてあった。それは「故奉化符州判女麗卿之柩」と書いたものであった。喬生は眼を瞠った。棺桶の前には牡丹の花の飾をした牡丹燈が懸けてあった。彼はぶるぶると顫えながら、牡丹燈の下の方へ眼を落した。そこには小さな藁人形が置いてあって、その背の貼紙に「金蓮」と書いてあった。
喬生は夢中になって逃げ走った。そして、やっと自分の家の門口まで帰ってきたが、恐ろしくて入れないので、その足で隣へ行った。
「ああ帰ったか、どうだね、判ったかね」
老人はこう言って訊いた。喬生の顔は蒼白くなっていた。
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