五
お勝は牧野の主人の治左衛門に送られて牧野家から帰っていた。それは前夜の事件を話して舅の迎いに来てくれるのを待っていようとすると、治左衛門が月が良いから月を見ながら送ってやろうと云うので、しかたなしに送ってもらうことにしたのであった。
二人は人家を離れて畑路に入ったところで、治左衛門がおずおずした詞で思いがけないことを云いだした。
「お勝殿、わしが今晩、お前を送って来たのは、すこし聞いてもらいたいことがあったからじゃ」
「はい」
「わしは、お前と小供の世話をしたいと思う、お前も知ってのとおり、わしは三年前に妻室に死なれて、親類や知人から後妻を勧められたが、小供に可哀そうじゃからと、どれもこれもことわって今日まで来たが、お前がわしの家に手伝いに来てくれてから、その決心がにぶって来た」
お勝は困ってしまった。
「どうかわしに、世話をさしてくれ、小供はきっと立派な者にしてみせる、為作老人もお前に代って、一生不自由なく世話をしてみせる」
「はい」
「わしは、神に仕える地位じゃ、決して嘘いつわりは云わん」
「それは、もう、お志のほどはよく判っておりますが、これは私の一存にはまいりませんし、それに私は賤しい身分でございますから」
「それはかまわない、わしはお前の素性も聞いて知っておる、わしは、それも承知のうえじゃ、人の魂は、その人の心がけしだいで清められる、どうかわしの世話になってくれ」
「それはもう、旦那様のお志のほどは判っておりますが、まだつれあいが亡くなって一年にもなりませんし、私はそんなことは一切考えないようにしております」
「それは、わしにも判っておる、わしもまだ云う時ではないと思うたが、昨夜のようなことがあって、お前の心が他へそれるようなことがあっては、とりかえしがつかんと思うから」
「ありがとうございます」
二人はその時畑路の岐路の処へ来ていた。その路を右に往くと諏訪神社のある草原で非常に近かった。二人は路の遠近のことは思わなかったが、そうした姿や話を村の人に見られ聞かれしたくないのでそのまま草原の方へ往った。松や榎の木立が月の下に隈をこしらえていた。
「お勝殿、お前の返事を聞かしてはくれまいか」
「はい」
お勝が返事に困った時、むこうの方で騒がしい人声が起った。
「何かある」
治左衛門はもうその話を続けることはできなかった。彼は二人で其処へ駈けつけることは憚られたが、お勝に対して躊躇することができないので、平気をよそおうて歩いて往った。
祠の前には為作と源吉が立ち、その前の草原の外には冷たくなった林田の体を二人の男が引起そうとしていた。
六
地下浪人の林田がお諏訪様の蛇を踏んで死んだという奇怪な噂が広まるとともに、町の人の諏訪神社に対する尊崇の念が高まって来て、祠を改築して高壮な社殿にすることになったが、それには諏訪神社の思召にかなっている小供の身内の者が良いと云うことになって、為作が棟梁になって建築にかかった。
源吉はその建築の最中でも、お諏訪様と遊ぶことがあった。
社殿はその年の歳末になって落成したので、遷座式を行うことになった。神主は初めから係りあいになっている治左衛門であった。
その日拝殿の正面には、神主の治左衛門が祭壇の方に向って坐り、そのすこし後に源吉が為作に伴れられて坐っていた。そして、町の頭だった人達は拝殿の昇口の方を背にして頭を並べていた。
時刻が来ると治左衛門が祝詞をはじめたが、その声が切れてしまった。町の人達は不思議に思った。と、源吉が云った。
「あ、牧野の旦那の首に、お諏訪様がいらあ」
拝殿の中はしんとなった。その時治左衛門の体は背後向きになった。
「私の心に穢れがあって、明神の思召にかなわない、今日からこのお社の神主は、源吉殿にやらして、私が後見することにします」
そこで源吉は治左衛門の被ていた水干を被て祭壇の前に据えられた。
この少年神主は、その後も時どきお諏訪様と拝殿の前で遊んだが、町の人は其処に沢蟹の群や蛙の群を見ることがあった。
●表記について
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