四
翌朝になって為作は、女一人の夜歩きは物騒だから時刻を見はからって迎えに往くと云うことにしてお勝を出し、その後で源吉の守をしながら他家から頼まれてある雨戸をこしらえていた。
為作は庭前の日陰に莚を敷いて其処で仕事をしていた。源吉は為作の傍にいたりいなかったりした。
夕方になって為作が仕事をおいて、夕飯の準備をしていると源吉がひょいと庭前へ来て立った。
「お祖父さん」
為作は囲炉裏の傍にいた。
「おう、源吉か、何処へ往っておった、お祖父さんは探しに往こうと思いよったぞ」
「お諏訪様へ往ってたよ、お祖父さん、今日はお諏訪様が出て来たよ」
「なに、お諏訪様が」
「そうよ、おいらが、お諏訪様の前へ往って、お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょうっていったら、出て来たのだよ」
為作は何のたあいないことを云ってるだろうとは思ったが、源吉が如何にも真面目であるから、鍋の中を掻き混ぜていた手を止めた。
「出て来たって、何が出て来たのか」
「お諏訪様だよ」
「お諏訪様って、どんなお諏訪様じゃ」
「白い蛇よ」
「白い蛇が何処から出て来たよ」
「おいらが、お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょうと云ってたら、神様の下の石の間から出て来たのだよ」
「それからどうした」
「おいらは、はじめはおっかなかったから、逃げちゃったが、追っかけて来ないの、横に寝たり、とぐろを巻いたりしてるから、おいらが、お諏訪様、輪になっておくんなと云うと、輪になったり、おいらが、お諏訪様、這っておくんなさいと云うと、這ったよ」
「そ、そりゃ、ほんとうか」為作は縁側の方へ這いだすように出て来て、「ほんとうか、源吉」
「ほんとうだよ、それからおいらが、お諏訪様、蟹を伴れて来ておくんなさいと云ったら、たくさん蟹を伴れて来てくれたよ」
「ほんとうか、ほんとうなら、もったいないことじゃ、そんなことをしちゃ神様の罰があたる、神様へお詫びに往かねばならん」
為作はもう夕飯のことも忘れていた。彼は庭におりて桶の水で両手を洗い、へぎを出して塩と米を盛った。
「源吉、さあ、これからお諏訪様へ往こう」
「またお諏訪様へ往くの」
「往って、お詫びをせんと罰があたる」
「そう」
為作は前に立って歩いた。源吉は後からちょこちょこと歩いた。外は樺色にくすんでいた。二人は出揃うた穂の真直に立っている麦畑の間を出て草原へ入ったが、草原の立木の下は暗かった。
二人はその暗い下を往った。お諏訪様の祠を抱くようにして立った榎の古木はすぐであった。其処は月の光であろう四辺が明るくなっていた。為作は怖いような尊いような気がして、平生のように平気で往くことができなかった。彼は祠から二間位離れた処へ坐って塩と米を盛ったへぎを前に恭しく置きながら、べったりと両手を突いて頭をさげた。
「今日は、何も知りません孫奴が、畏れ多いことをいたしまして、何ともお詫びの申しあげようがございません、それに悴が亡くなりまして、未だ一年の忌ぶくのかかっておる身でございます、がんぜない小供とは申せ、お詫びの申しようもございませんが、そこが父親なしの哀れな小供でございますから、どうかお赦しくださいますように、この爺から幾重にもお詫びをいたします」
為作は平蜘のようにしていた頭をちょっとあげて、左脇に並んで坐っている源吉の横顔を見た。
「お前もお詫びをしろ」
源吉は平気であった。
「お諏訪様は、怒りゃしないもの、呼んでみようか」
「こ、これ、何を云う」為作はあわてて遮って、「そ、そんな、もったいないことをしてはならんぞ、なんぼ何も知らん小供じゃ云うても、そんことをしては、神様のきついおとがめがあるぞ」
「だってお諏訪様は、おらの云うとおりにしてくれるのだもの」源吉はすまして云って手を合せながら、「お諏訪様、お諏訪様、ちょいと出ておくんなさい」
「しっ、これ、そ、そんなことを申しあげては、ならんと云うに、聞きわけがない奴じゃ」為作はそう云ってからまたべったりと平蜘のように頭をさげて「お聞きくださいまし、こんな物の判らん小供でございます、どうかお気になされないようにお願いいたします」
一心になってあやまっている為作の耳に嬉しそうな源吉の声が聞えて来た。
「お諏訪様が出て来た、お諏訪様が出て来た、お祖父さん、お諏訪様が出て来た」
「なに」為作はお詫びの詞を忘れたように顔をあげて前を見た。
「見えるでしょう、お諏訪様が、おいらの方を向いて来る」
しかし、為作には中も見えなかった。
「見えるでしょう、白いな蛇よ」源吉は前に指をさして、「それその蛇よ」
草、祠、祠を抱いた榎もはっきり見えるが、他には何もなかった。
「お祖父さんには見えない、見えなくても、も、もったいない」為作はとり乱したように云って地べたへ頭をつけて、「こんな小供の云うことをおとりあげくださいまして、ありがとうございます、ありがとうございます」
「お祖父さんは眼やにをつけてるだろう、顔を洗って来ると見えるのだ」
為作は顔をあげなかった。
「もったいない、もったいない、お祖父さんはどうでもええ、ありがとうございます、ありがとうございます、どうかお引取を願います、お前も何時までももったいないことをしてはならん、早う神様にお引取を願うがええ、もったいのうございます、もったいのうございます」
「お祖父さん、お諏訪様は、今輪になったよ」
「これもったいない、もったいないことを云うてはならんぞ」
「お諏訪様、お祖父さんは、お諏訪様が見えんと云います、蟹を伴れて来て見せてやっておくんなさい」
「罰あたり奴が、そ、そんな我がままを申しあげてはならんと云うに、神様、どうぞ、もう、こんな小供の云うことはおとりあげになりませんように」
「蟹が出た、蟹が出た、お祖父さん、お諏訪様が呼んだから、蟹が木の穴からぞろぞろ出て来たよ」
「もったいないと云うに、罰あたり奴が、そんなことを申しあげてはならんぞ」
「出て来たわ、出て来たわ、お祖父さん、一ぱいの蟹よ、見なさい」
「もったいない、もったいない、もったいないことを申しあげてはならんぞ」
為作の頭はその時何かに持ちあげられるようになってふいとあがった。たくさんの小さな沢蟹が紫がかった鋏をあげてぞろぞろと来るところであった。為作はまたべったりと頭を地べたにつけた。
「もったいない、もったいない、こんなもったいない目にあっては、この老人の命を、たった今召されても惜しくはありません、神様もったいのうございます」
為作の感激に充ちた詞は忽ち遮られた。
「この老いぼれ犬、どうも素振りが怪しい怪しいと思っておれば、こんな処でばてれんをやってけつかる」
為作は顔をあげた。其処には前夜の林田が二人の男を伴れて立っていた。林田は前夜の復讐をかねて女を奪いに来たところであった。
「江戸から来ておる花魁あがりが、てっきりばてれんを持って来たにちがいない、すんでのことに、昨夜はばてれんの蟹の鋏で、この大事の眼を、衝き刺されるところであった」
為作はそれよりも神の奇瑞に心を奪われていた。為作はそのまま頭を地べたにつけたのであった。
「お諏訪様、もったいのうございます、誠に何とも申しようがございません、お諏訪様、どうかお引とりを願います」
林田は伴れて来ている二人の男を見て嘲笑った。
「何処にお諏訪様がおるのじゃ、孔夫子は、怪力乱神を語らずと云われた、今の世の中に、神なんかが出て来てたまるものか、今の世にばてれん以上に、怪しいものはない、この比、ばてれんが無うなって、蜃気楼もあまり立たないと思うておりゃ、またばてれんをやりだした」
「もったいない、もったいない、お諏訪様を拝んでおります、お前さんがたの曲がった眼には見えますまいが、孫の眼には見えます、そんなことを云うと罰があたります、お諏訪様もったいのうございます」
林田に随いて来ている一方の男が云った。
「へっ、そんな鳥の巣のような箱の中に、神様がおってたまるものかい」
泰然と坐って傍視もせずに前の方を見ていた源吉が云った。
「お諏訪様は、其処にいるのだよ、蟹を伴れて来ているのだよ」
「何処におる、この寝ぼけ小僧」
林田が叱りつけるように云って前へ一足出た。
「其処にいるのだよ」源吉は静に一間ばかり前に指をさした。
「今輪になっているのだよ」
「寝ぼけ小僧、何を見てそんなことを云う、地べたに草が生えているより他に何がある」
「お祖父さんも見えないというから、お前さんも見えないだろう、顔を洗ってくるがいいや、お諏訪様は白い蛇になっているのだよ」
「ほんとうにおると云うなら、俺がこの足で踏み潰してやる」
林田はそのまま進んで源吉の指をさしている辺をぐさと踏んだ。
「お諏訪様が、足に巻きついた」
源吉の詞と同時に林田はあっと云う叫び声を立てながら、毬を投げたように為作の鼻の前をくるくると転げて往った。
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