一一
伊右衛門は秋山長兵衛を伴につれて鷹狩に往っていた。二人は彼方此方と小鳥を追っているうちに、鷹がそれたので、それを追って往った。
空には月が出て路ぶちには蛍が飛んでいた。其処に唐茄子を軒に這わした家があって、栗丸太の枝折門の口には七夕の短冊竹をたててあった。
長兵衛がそれと見て中を覗きに往った。中には縁側付の亭座敷があって、夏なりの振袖を著た
な娘が傍においた明るい行燈の燈で糸車を廻していた。長兵衛は伊右衛門にそれを知らせた。
「美しい女が糸車を廻しております」
「なに美しい女」
「さようでござります」
「それでは其の方が案内して、鷹のことを問うてみぬか」
そこで長兵衛が中へ入って往った。
「鷹がそれて行方が判らなくなったが、もしか此方へ」
鷹は行燈の上にとまっていた。娘は莞として鷹を見た。
「此処におります」
長兵衛は驚いた。
「いや、こいつは妙々」
伊右衛門は長兵衛の知せによって中へ入り、やがて腰の瓢箪の酒を出して飲みだした。伊右衛門は娘に惹きつけられた。
「そなたの名は」
其の時一枚の短冊が風に吹かれてひらひらと飛んで来た。娘はそれを執って、
「わたしの名はこれでござります」
と云ってさしだした。それには、「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の」と百人一首の歌が書いてあった。伊右衛門は頸をかたむけた。
「これが其方の名とは」
「岩にせかるる其の岩が、私の名でござります」
伊右衛門はやがて娘を自由にして帰ろうとした。と、娘がその袖を控えたがその娘の顔はお岩の顔であった。
「あ」
伊右衛門は飛びあがった。同時に伊右衛門の手にしていた鷹が大きな鼠になって伊右衛門に飛びかかって来た。
「さてこそ執念」
伊右衛門は刀を抜いた。そして、無茶苦茶になって其の辺を斬りはらっているうちに、彼の糸車が青い火の玉になってぐるぐると廻りだした。
一二
「これこれ、またおこりましたか。皆がいますぞ、いますぞ」
伊右衛門ははっと思って眼をあけた。伊右衛門はお岩の亡霊に悩まされるので、蛇山の庵室に籠って、浄念と云う坊主に祈祷してもらっているところであった。
外には雪が降っていた。伊右衛門は行燈に燈を入れ、それから門口の流れ灌頂の傍へ往って手桶の水をかけた。
「産後に死んだ女房子の、せめて未来を」
するとかけた水が心火になって燃え、其の中からお岩の嬰児を抱いた姿があらわれた。
伊右衛門は驚いて庵室の内に入った。中にはさっき狂乱して引きちぎった紙帳がばらばらになっていた。お岩の亡霊も跟いて入って来た。伊右衛門はふるえあがった。
「お岩、もういいかげんに成仏してくれ」
と、お岩がゆらゆらと寄って来て、抱いていた嬰児を伊右衛門の前へさし出した。
「死んだと思ったら、それでは其方が育てていたのか」
伊右衛門はうれしそうにその嬰児をお岩の手から執った。同時にたくさんの鼠が出た。伊右衛門は驚いたひょうしに抱いていた嬰児を執り落した。嬰児は畳の上にずしりと云う音をたてた。それは石地蔵であった。其の時傍にいた母のお熊がきゃっと云ってのけぞった。お熊の咽喉ぶえにお岩が口をやっているところであった。
「おのれ」
伊右衛門は刀を抜いて其の辺を狂い廻ったが、気が注いた時には、己を捕えに来ている大勢の捕手を一人残らず斬り伏せていた。伊右衛門は其のまま其処を走り出た。と、其の眼の前へ、
「伊右衛門待て」
と云って駈け出して来た者があった。それは与茂七であった。
「其の方は与茂七か」
伊右衛門はきっとなって身がまえした。与茂七は刀を脱いた。
「お袖のためには義理の姉、お岩の讐じゃ、覚悟せよ」
「なにを」
伊右衛門は与茂七を斬り伏せようとした。と、何処からともなく又数多の鼠が出て、伊右衛門の揮っている刀にからみついた。其のひょうしに伊右衛門は刀を執り落した。其処を与茂七が、
「おのれ」
と云って肩から斜に斬りおろした。伊右衛門の体は朱に染まって雪の上へ倒れた。
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