七
伊右衛門は屏風を開けてお梅の傍へ往こうとした。伊右衛門は其の夜遅くなって喜兵衛がお梅を伴れて来たので、祝言の盃をしたところであった。
「どうじゃ、お梅」
伊右衛門はお梅の枕元へ座って、恥かしそうに俯向きになっているお梅の顔を覗きこんだ。と、お梅が、
「伊右衛門さま、どうぞ末なごう」
と云って顔をあげたが、それはお梅でなく物凄いお岩の顔であった。
「あ」
伊右衛門は傍にあった刀を脱いて斬りつけた。首は刀に従って前へころりと落ちたが、落ちた首はお梅であった。
「やっぱりお梅であったか」
伊右衛門はうろたえて隣の室へ飛びこんだ。其処には喜兵衛が嬰児を抱いて寝ていた。
「喜兵衛殿、たいへんじゃ」
伊右衛門は喜兵衛を起した。それは喜兵衛でなくて嬰児を咬い殺して口を血だらけにしている小平であった。小平は伊右衛門を見た。
「旦那さま、薬をくだされ」
伊右衛門は飛びあがった。
「わりゃ小平め、よくも子供を殺したな」
伊右衛門の刀はまた其の首に往った。同時に首はころりと落ちたが、それはやっぱり喜兵衛の首であった。
「さては、死霊のするしわざか」
其のまわりには青い火がとろとろと燃えていた。
伊右衛門は刀を揮り揮り門口へ往ったが、門口の戸がひとりでにがたりと締って出られなかった。
八
隠亡堀の流れの向うに陽が落ちて、入相の鐘がわびしそうに響いて来た。深編笠に顔をかくした伊右衛門は肩にしていた二三本の竿をおろして釣りにかかった。
傍には鰻掻になっている直助がいて、煙草を飲みながら今のさき鰻掻にかかって来た鼈甲の櫛を藁で磨いていた。伊右衛門はそれを見て、煙草を出して火を借りようとした。
「火を借してもらいましょう」
直助はすまして煙管の火を出した。
「お点けなされませ」そして笠の中を覗いて、「伊右衛門さんお久しゅうござります」
伊右衛門は驚いた。
「そう云うてめえは、直助か」
「其の直助も、今では鰻掻の権兵衛」
話のうちに標がびくびく動きだした。伊右衛門はそれと見て竿をあげると小鮒がかかっていた。
「ああ、鮒か」
其のうちに他の標が動きだした。
「そりゃ、またかかった」
伊右衛門は調子にのって大きな声をしながらあげた。それには鯰がかかっていて草の上へ落ちた。伊右衛門はあわてて傍にあった卒塔婆を抜いて押え、魚籃に入れるなり卒塔婆を投げだした。卒塔婆は近くに倒れて気を失っていた女乞食の前へ落ちた。それはお梅の母親のお弓であった。お弓は伊右衛門に復讐するために、伊右衛門の所在をさがしているところであった。お弓は卒塔婆を取りあげた。其の卒塔婆には俗名民谷伊右衛門と書いてあった。それは伊右衛門の母親が殺人の大罪を犯した我が子のために、世間をごまかすために建てたものであった。
「や、戒名の下に記した此の名は、父さんと娘を殺した悪人の名、それではもう此の世にいないのか」
伊右衛門はそれを知った直助にあいずをした。そこで直助はお弓のあいてになった。
「生きてる者に、なんで卒塔婆をたてる、伊右衛門が死んでから、今日でたしか四十九日」
お弓は無念でたまらないようにした。伊右衛門はそろそろと起って往って、いきなり足をあげてお弓を蹴った。お弓はひとたまりもなく川へ落ちて水音をたてた。直助が感心した。
「なるほど、おまえは、悪党だ」
伊右衛門はにやりと笑った。
「これもおぬしに習ったからよ」
此の時長兵衛が頬冠してきょろきょろとして来たが、伊右衛門を見つけた。
「民谷氏、此処にござったか」
名を云ってはいけなかった。
「これさ、これさ」
「なるほど、これは。だがこなたの巻きぞえをくってはならぬから、遠国に往くつもりでござる、どうか路銀を」
「やろうにもくめんがつかぬ」
「くめんがつかねば、訴え出ようか」
「さあ、それは」
伊右衛門はしかたなしに母親からもらっている墨付を長兵衛にやって帰し、それから竿をあげて帰りかけた。と、前の流れへ杉戸が流れて来たが、それが不思議に立ちあがったので、かけてあった菰が落ちた。其処には水で腐ったお岩の骨ばかりの死骸があった。伊右衛門は恐ろしいので杉戸を前へついた。杉戸は其のひょうしにばったりと裏がえしになった。裏には首へ藻のかかった小平の死骸があった。
九
お袖は山刀を持ってせっせと樒の根をまわしていた。其処は深川法乗院門前で俗に三角屋敷と云う処であった。お袖は直助といて線香を売っているところであった。
淡い冬の夕陽のふるえている店頭には、物干竿にかけた一枚の衣服が風にひるがえり、其の傍の井戸端には盥があって、それにはどろどろになった女物の衣服が浸けてあったが、それは金子屋と云う質屋の手代の庄七が、質の流れだと云って洗濯物を頼んで来ているものであった。お袖は気になることがあるのか樒の根をまわすことをやめて、盥の傍へ往き、
「此の衣服にはどうも見覚えがある、これはたしかに姉さんの」
其の衣服はお岩の着ていたものであるが、お袖はお岩が死んだことを知らないので、そうと断定することができなかった。直助がそこへ帰って来た。
「これ、日が暮れかかったのに、干物を入れねえか」
直助が家へ入るのでお袖は追って入った。
「米屋さんが米を持って来たから、後までと軽う云っておいたよ」
「そうか」そして考えついて叺の莨入から彼の櫛を出して、「此の櫛なら、いくらか貸すだろう」
お袖はそれを見て驚いた。
「おや、その櫛は、そりゃ何処で拾ったのです」
「二三日前に、猿子橋の下で鰻掻にかかったが、てめえ、何か見覚でもあるのか」
「ある段か、これは姉さんが、母さんの形見だと云って、大事にしていた櫛。それに庄七さんに頼まれた彼の衣服と云い、どうしたことだろう」
「おい、これ、馬鹿な事を云うな、世間には幾何でも同じ物があらあな」
直助はそれから質屋へ往こうとした。お袖は其の手にすがった。
「衣服は違ってても、櫛はたしかに姉さんの櫛、どうぞ、そればっかりは」
「てめえも馬鹿律気な。だいち死んだ所天へ義理をたてて」
お袖は直助にせまられても与茂七の讐が見つかるまではと云って夫婦にならずにいるところであった。お袖はやがて夕飯の準備に庖厨へ往った。直助は其の間に質屋へ往くべく門口へ出た。と、其の時傍の盥に浸けてある衣服の中から、痩せ細った手がぬっと出て直助の足をつかんだ。直助は顫えあがって手にした櫛を落とした。と、盥の手が引込んだ。
「今のは、たしかに女の手だ」
直助が考えこんでいるところへ、お袖が膳を持って出て来たが、直助が落としてある櫛を見つけた。
「姉さんが、大事がらしやんす櫛じゃと云うに、こんなにして」
お袖は櫛を拾いあげたが、やっぱり米屋のことも気になるのであった。
「栄耀につかうではなし、姉さん借してくださいよ」
と云って直助を質屋へやろうとした。そこで直助は、
「そうか、それじゃ往って来ようか」
と云ってお袖から櫛を取ろうとした。と、また盥の中から痩せた手が出て直助の櫛を持った手をつかんだ。
「あ」
直助は驚いてまた櫛を投げだした。が、それはお袖には見えなかった。
「おまえさん、何をそんなに。櫛を何処へやったのですよ」
「盥の中にあらあな、おまえが持ってくがいいや」
お袖は盥の中を覗きこんだが、櫛らしいものは見えなかった。お袖はちょっと其の辺へ眼をやった後で、そっと彼の衣服をつかんで振って見た。盥の水は真赤な生なましい血に変わっていた。お袖はびっくりした。と、其の中から一匹の鼠が、彼の櫛をくわえたまま飛びだした。直助はすぐそれを見つけた。
「鼠が、鼠が」
鼠は仏壇へ往って啣えていた櫛を置くなり消えてしまった。
一〇
お袖は按摩の宅悦からお岩が伊右衛門のために殺されて神田川に投げこまれたと云うことを聞いて驚いた。それも姉が小平と不義をしたと云って、小平とともに杉戸へ打ちつけられたと聞いては、泣くにも涙が出なかった。直助はお袖を慰めた。
「憎い奴は伊右衛門じゃ、まあ気を落とさずに時節を待つがいい、きっと俺が讐を打ってやる」
お袖は手酌で一ぱい飲んでそれを直助にさした。
「さ、一つ飲んでくださんせ」
直助は盃を執ってお袖に酌をしてもらった。
「これは、御馳走。それにしても女の身では、酒でも飲まずにはいられまい、他人のおれでさえ」
「其の他人にせまいために、女のわたしからさした盃」
「そうか」
「もし、もう祝言はすんだぞえ、親と夫の百ヶ日、今日がすぎれば、今宵から」
「そんならおぬしは」
「操を破って操をたてるわたしが心」
二人は立ててある屏風の中へ入ったところで、表の戸をとんとんと叩く者があった。直助が頭をあげた。
「何人だ」
声に応じて外から男の声がした。
「すまねえが、線香を一把もらいたい」
直助は忌いましかった。直助は吐きだすように云った。
「気のどくだが、品ぎれだよ」
「それなら、此処にある樒でけっこうだ」
「だめじゃ、そりゃ一本が百より安くはならねえ、他へ往って買わっしゃるがいい」
外の男はちょっと黙ったが、すぐあわてて声をたてた。
「あれ、あれ、盗人が洗濯物を持って往くわ」
直助は飛び起きて雨戸を開けた。其処に一人の男が立っていた。
「これはどうも、つい置き忘れておりまして」
直助は洗濯物を執って入ろうとして対手に気が注くなり、のけぞるようにして驚いた。
「鬼だ、鬼だ」
直助は家の内へ飛びこんで、ぴしゃりと雨戸を締めて押えた。お袖も驚いて出て来た。
「何処に、何処に鬼が」
其の時外の男の声がした。
「わたしは鬼じゃない、此処を開けてくだされ。お眼にかかれば判ります」
お袖が其の声を聞きつけた。
「どうやら、聞きおぼえのある声じゃ」
直助が手を揮った。
「いけねえ、それが鬼じゃ」
「それでも」
お袖は首をかしげながら起きて往って雨戸を開けた。外の男は与茂七であった。
「おや、おまえは、与茂七さん」
「お袖か、わしは、おぬしの所在を探しておったが、かわった処で、はて面妖な」
「わたしよりおまえさんは、いつぞやの晩、観音裏の田圃道で人手にかかって」
「あれか、あれなら奥田庄三郎だ。彼の晩、おめえと別れて、庄三郎に逢い、すっかり衣裳をとりかえた」直助の方を見て、「あなたは、浅草で見知りごしの薬売、たしかに其の名も直助殿」
「あ」
直助の驚く一方で、与茂七はお袖を見た。
「して此の人は、なんで今時分来てござる」
お袖はちょっと困ったが、宅悦の置いて往った杖に気が注いた。
「お、お、それ、按摩じゃわいな」
お袖は死んだと思っていた与茂七が不意に現れたので、身の置きどころに困っていた。お袖は与茂七の讐を打ってもらうために、直助に肌をゆるしたのであったが、今となっては其のためにかえってあがきがつかなかった。お袖はいよいよ腹をきめた。お袖は直助に囁いた。
「一旦、おまえに大事を頼み、女房となったうえからは、やっぱり女房、与茂七殿に酒を飲まして、わたしが手引する」
そこで直助は外へ出て藪の中へ身をひそめた。そこでお袖は与茂七に囁いた。
「寝酒をすすめて寝かしたうえで、行燈の燈を消しますから」
それで与茂七も外へ出た。お袖はそこで時刻をはかって行燈の燈を消した。それと見て直助は出刃を、与茂七は刀を脱いて家の内に入って、屏風の中を目あてに刺しとおした。同時に女の悲鳴が聞こえた。二人は目的を達したと思って屏風をはねのけた。屏風の中にはお袖が血みどろになっていた。其のとたんに月が射した。二人は呆れて眼を見あわした。
「これはどうした」
「これは」
お袖はやっと顔をあげた。
「与茂七さん、どうか、ゆるしておくれ。それから、直助さんは、養父と姉の讐を討った後で、どうか、小さい時に別れた兄さんを尋ねて、此のわけを話してくだされ」
お袖には幼い時に別れた一人の兄があった。お袖は苦しそうに懐から一通の書置と、臍の緒の書きつけを出して直助に渡した。直助は其の臍の緒の書きつけをじっと見た。それには、『元宮三太夫娘袖』としてあった。直助は見て仰天した。直助は傍にあった与茂七の刀を取ったかと思うと、いきなりお袖の首を打ちおとした。与茂七は驚いた。
「何故に、そんなことを」
直助はどしりと其処へ坐るなり、其の刀を己の腹に突きたてた。
「与茂七殿、聞いてくだされ」
お袖が探していた幼い時別れた兄は、直助であった。直助は臍の緒の書きつけによって、先刻祝言の盃を交したお袖が妹であったことを知り、其のうえ、観音裏で与茂七と思って殺したのは、もと己の仕えていた主人の息子であった。直助は己のあさましい心を悔いながら死んでいった。
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