杭州の西湖へ往って
宝叔塔の在る宝石山の麓、日本領事館の下の方から湖の中に通じた一条の長
を通って孤山に遊んだ者は、その長
の中にある二つの石橋を渡って往く。石橋の一つは断橋で、一つは
錦帯橋であるが、この物語に関係のあるのは、その第一橋で、そこには聖祖帝の筆になった有名な断橋残雪の碑がある。
元の至正年間のこと、
姑蘇、即ち今の蘇州に
文世高という秀才があったが、元朝では儒者を軽んじて重用しないので、気概のある者は山林に隠れるか、詞曲に遊ぶかして、官海に入ることを好まないふうがあった。世高もその風習に感化せられて、功名の念がすくなく、詩酒の情が
濃かであった。
その時世高は二十歳を過ぎたばかりであったが、佳麗な西湖の風景を慕うて、杭州へ来て
銭塘門の外になった昭慶寺の前へ家を借りて住み、朝夕湖畔を逍遥していた。ある日往くともなしに足に
信せて断橋へ往ったところで、左側に竹林があってその内から高い門が見えていた。近くへ往って見るとその門には
喬木世家という
をかけてあった。
世高は物好きにどんな庭園であるか、それを見てやろうと思って入って往った。
槐と竹とが青々した陰を作った処に池があって、紅白の蓮の花がいちめんに咲いており、その花の匂いがほんのり
四辺に漂うているように思われた。世高はその庭の
景致がひどく気に入ったので、池の縁に立って佳い気もちになっていた。
「おや、綺麗な方だわ」
若い女のすこしはすっぱに聞える無邪気な声が不意に聞えてきた。世高の眼はすぐ声のしたと思われる方へ往った。池の左、そこにある
台の東隣となった緑陰の中に小さな
楼が見えて、白い小さな女の顔があった。それは綺麗な眼のさめるような少女であった。
世高は女のほうをじっと見た。そうした少女から己れの容姿を見とめられて、多感な少年がどうして平気でいられよう。彼は吸い寄せられるようにその方へ往きかけたが、ふと考えたことがあったので引返して門の外へ出た。それはその少女の素性を訊くがためであった。
花粉や
花簪児を売っている化粧品店がそのちかくにあった。そこには一人の老婆がいて
店頭に腰をかけていた。世高はそこへ入って往った。
「すみませんが、すこし休ましてくれませんか」
老婆は気軽く承知した。
「さあさあ、どうぞ、だが、あげるような佳いお茶がありませんよ」
世高は老婆の
信実のある
詞が嬉しかった。彼は老婆に挨拶して腰をかけながら言った。
「お婆さんは、何姓ですか」
「今は
施姓ですが、母方のほうは李姓ですよ、
所天が
没くなってから十年になりますが、男の子がないものだから、今にこうしております。私の所天の
排行が十に当るから、人が私を
施十娘というのですよ、あなたは」
「私は姑蘇の者で、文というのです、この西湖の山水を見にきて遊んでいるのですよ」
「では、あなたは風流の方ですね」
世高は老婆がただの愚な田舎者でないことを知って、ものを訊くにもつごうがいいと思った。
「お婆さん、この隣に大きな門の家がありますね、あれはどうした家ですか」
「ありゃあ、
劉万戸という武官の家ですよ、あんな大家だが、男のお子がなくて、お嬢さんが一人あるっきりですよ、秀英さんとおっしゃってね、十八になります、まだお嫁いりなさらないのですよ」
「十八にもなって嫁にゆかないとは、どういうわけでしょう、そんな家で」
「そりゃあね、お嬢さんが
御標格が佳いうえに、発明で、詩文も上手におできになるから、
相公がひどく可愛がって、高官に昇った方を養子にしようとしていらっしゃるものだから、それに当る人がのうて、まだそのままになっておりますが、だんだんお歳がいくので、お可哀そうですよ」
「お婆さんは、そのお嬢さんを知っているのですか」
「お隣ではあるし、
平生出入して、
花粉などを買っていただくから、お嬢さんはよく知っておりますよ」
「そうですか」
世高はふとあまりせっかちに事をはこんではいけないと思いだした。で、女にはさして興味を感じていないようなふうをして、それから老婆に別れて帰ってきた。
世高は帰りながら女に接近するには、あの老婆に仲介を頼むより他に途がないと思った。それには女の手一つでやつやつしくくらしているから、すこし金をやれば骨をおってくれるだろう、仲介者さえあれば、女の方でも自分を知ってくれているから、僥倖が得られないものでもないと思った。彼はそう思いだす一方で、女が自分に向って発した詞を浮べていた。
(おや、綺麗な方だわ)
世高は昭慶寺の前の家へ帰ったが、女のことで頭がいっぱいになっていて、
書籍を見る気にもなれなかった。そして、夜になって
榻の上に横になっても、女の白い顔がすぐ前にあるようで睡られなかった。
そのうちに、世高の体は自然とうごきだして、家の外へ出て
城隍廟へ往った。城隍廟へ往ったところで、世高ははじめて気が
注いた。気が注くとともにかの女と天縁があるかないかを知りたいと思いだした。彼は廟の中へ入って往って、香を
焼き、赤い蝋燭をあげて祷った。
みるみる城隍神の像が生きた人のようになって、傍の判官に言いつけて
婚姻簿を持ってこさした。判官が言いつけどおり
帳簿を持ってくると、城隍神はそれを見てから朱筆を取り、何か紙片に文字を書いて世高にくれた。世高は何を書いてあるだろうと思って、それに眼をやった。それには
爾婚姻を問う、只
香勾を看よ、破鏡重ねて
円なり、
悽惶好仇と書いてあった。
世高がそれを読み終ったところで、判官の喝する声がした。世高はびっくりして眼を覚した。世高ははじめて自分が夢を見ていたということを悟ったが、それにしてもはっきり覚えている四句の
讖文は不思議であると思った。世高はそれから讖文の破鏡重ねて円なり、悽惶好仇という二句の意味を考えてみた。それは合うことが有って離れ、離れることが有って合うから、時のくるのを待たなくてはならないというように考えられた。
しかし世高は、そんな児戯に類する讖文を信ずることはできなかった。彼は夜の明けるのを待ちかねるようにして起き、そこそこに飯をすまして、断橋の施十娘の店へ往った。
店では老婆が品物を並べていたが、終ってひょいと顔をあげたひょうしに、店頭へ来た世高を見つけた。
「
相公、お早いじゃありませんか、何か御用でもできたのですか」
「お婆さんに頼みたいことがあってね」
世高は店の内へ入った。老婆はどんなことを頼まれるだろうと、その頼まれることが気になってたまらないというようにして顔を持ってきた。
「私に、どんなことです、か、ね」
「すこし頼みたいことがあって、ね」
世高は懐から金を出して、それを老婆の袖の中にすばしこく入れた。それは二錠の銀子であった。
「お婆さん、私はまだ
妻室がないから、
媒人をたのみたいが」
老婆には世高の眼ざしている者が
何人であるかということはすぐ判った。しかし、それは旅にいる無名の秀才では望みを満たすことのできないものであった。老婆はとぼけて言った。
「相公の頼みたいというのは、どこの
姐姐さんですか」
「それかね、それは、昨日お婆さんが話してくれた、あの、劉さんの姐姐さんだよ」
世高はきまりがわるいのできれぎれに言った。
「そいつは相公、だめですよ、他の姐姐さんなら、なんとか話を纏めますが、劉さんの方ですと、劉の相公はいっこくですから、杭州の城内の武官の中で、だんだん申しこんでおりますが、しょうちしないのです、それに旦那は旅の方でしょう、とてもだめですよ」
老婆はそう言って世高の入れた袖の中の銀子を取りだした。
「これはお返しします、とてもできませんから」
「ま、まってください、まだ一つお話しすることがあるから、それを訊いてからにしてください」
世高は老婆の金を持った手を押えるようにして、その口を老婆の耳の傍へ持っていった。
「お婆さん、私がこんなことをいうのは、お嬢さんを知らずに言ってるんじゃないのです、昨日ここへくる前に、あの家の中へ往って、庭を見物していると、お嬢さんが
楼の上にいて、私を見て、おや綺麗な方だわと言ったのです、だからお嬢さんも私を知ってるはずです、そっとお嬢さんに遇って、そんなことがあったかないかを確かめたうえで、私もお嬢さんのことを思っているということを言ってください、また晩方に来ますから」
世高の話の中途から老婆は頻りにうなずきだしていた。
「そりゃ、ほんとでしょうね、お嬢さんが相公のことをほめたのは」
「ほんとですとも」
「ほんとならお嬢さんに言ってもいいのですが、いいかげんのことだったら、私が二度とお嬢さんにお眼にかかることができないのですからね」
「そりゃ大丈夫ですよ、どうかお嬢さんに取りついでください」
「では往ってあげてもいいが、こんなことは縁ですから、縁がなかったらできないことだと思ってくださいよ」
「縁がなければしかたがないですとも」
世高は老婆と後刻を約して自分の家へ帰った。
老婆の施十娘は、文世高からもらった銀子をしまい、午飯を
喫って、新しくできた
花粉と珍しい
花簪児を持って劉家へ往った。
劉家では彼方此方していた夫人が、勝手口から入ってきた施十娘を見つけた。
「お婆さん、この
比はちっともこないじゃないかね、どうしたのだね」
「あいかわらず、貧乏せわしいものですから、つい御無沙汰いたしました、今日は珍しい花簪児がまいりましたから、お嬢さんに御覧に入れようと思いまして」
「ああ、そうかね、それはいい、お前さんのくるのを待っていたところだよ」
そこで老婆は一杯の茶をもらって、それを飲んでから秀英の
繍房へ往った。秀英はその時楼の欄干に
靠れてうっとりとしていた。それは昨日見た若い秀才の顔を浮べているところであった。
「お嬢さん、今日は」
老婆が声をかけると秀英はびっくりしたようにして振りかえった。
「ああ、お婆さんか、いらっしゃい、お婆さん、この比ちっともこないじゃないの、今日は何か佳いものがあって」
「今日は佳いものがございましたから、御覧に入れようと思って、持ってあがりました」
老婆は卓の上へ包みを置いて、その中から金の
梗で銀の枝をした
一朶の花簪児を執って秀英の頭へ持っていった。
「きっとお似合いになりますよ」
そして黒いつやつやした髪に挿してから、
「ほんとによくお似合いになりますこと、いっそのこと、そのつむりで、御婚礼なされて、この年寄にお喜びの盃をいただかしてくださいましよ」
秀英はにっと笑って老婆の顔を見た。と、そこへ女中の
春嬌が茶を持ってきた。老婆はそれをもらって飲みながら言った。
「このお茶よりか、早くお喜びのお酒をいただきたいものでございますね、私は
平生お嬢さんがお眼をかけてくださいますから、その御恩報じに、佳いお婿さんをお世話いたしたいと思うておるのでございますよ」
「いやなお婆さん」
口ではそう言ったが決してそれを嫌うような顔ではなかった。老婆はそっと
四辺に注意した。春嬌ももういなくなって秀英と自分の他には何人もいなかった。老婆は秀英の傍へぴったり寄って往った。
「お嬢さん、ちょっとお耳に入れたいことがございますが、お話ししてもよろしゅうございましょうか」
「どんなこと、いいわよ、お婆さんの言うことなら」
「では申しますがね、お嬢さん、あなたは昨日、ここからお池の傍へ来て立ってた方を、御覧になりはしませんでしたか」
そう言い言い老婆は相手の顔色を伺った。秀英の瞼は微に紅くなった。
「見ないわ」
しかし、それはほんとうに見ない返事ではなかった。
「でもお嬢さん、その方が今日私の処へまいりまして、昨日お嬢さんがここにいらっしゃるのを見かけて、そのうえお嬢さんからお声をかけられたと言って、ひどくお嬢さんの御標格の佳いことをほめておりましたよ」
秀英は耳まで紅くしてしまった。老婆はここぞと思った。
「あの方は、蘇州の方で、文という方ですよ、才智があって学問があって、人品はあんなりっぱな方ですから、お嬢さんのお婿さんにしても、恥かしくないと思いますが」
老婆はそう言って秀英の顔を見た。秀英は俯向いたなりに微に笑った。老婆はもう十中八九までは事がなったと思った。
「あの方は、お嬢さんにお眼にかかってから、お嬢さんのことを思いつめて、何回も何回も私の処へまいりまして、お嬢さんに、私の思っていることをつたえてくれと申します、どうかお嬢さん、何か返事をしてやってくださいましよ、ほんとにお気のどくですよ」
「でも、私、どう言っていいか判らないのですもの」
秀英はそう言ってちょっと詞を切ったが、
「あの方は、これまで結婚したことがあるのでしょうか」
老婆はすかさずに言った。
「ありません、そんな方なら決して私が媒人はいたしません、あの方はそんな軽薄な方ではありません、ほんとにあの方は、人品と申し御標格と申し、お嬢さんとは似あいの御夫婦でございますから、お取り持ちいたすのでございます、私にまかしていただけますまいか」
秀英は
点頭いた。老婆は安心した。
「では、あの方に知らして、喜ばしてあげましょう」
老婆は品物を包みの中に収めて帰ろうとした。秀英はその老婆の袂に手をかけた。
「お婆さんは、このことは、何人にも言っちゃ、厭よ」
「言うものですか」
老婆は夫人にも挨拶して家へ帰った。店へはもう世高が来て待っていた。世高は入ってくる老婆の顔色を見て事のなったことを直覚した。世高はそこで秀英に詩を寄せることにして家へ帰って往ったが、その夜も興奮して眠られなかった。
そして、朝になるのを待ちかねていた世高は、白綾の
汗巾へ墨を濃くして七言絶句を書いた。
天仙なお人の年少を惜む
年少安ぞ能く仙を慕わざらん
一語三生縁已に定まる
錦片をして当前に失わしむること莫れ
世高はその詩を施十娘の店へ持って往った。
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