王宙は伯父の室を出て庭におり、自個の住居へ帰るつもりで植込の竹群の陰を歩いていた。夕月がさして竹の葉が微な風に動いていた。この数日の苦しみのために、非常に感情的になっている青年は、歩いているうちにも心が重くなって、足がぴったりと止ってしまった。……もうこの土地にいるのも今晩限りだ、倩さんとも、もう永久に会われない、これまでは、毎日のように顔を合さないまでも、不思議な夢の中では、楽しみをつくしておったが、明日この土地を離れるが最後、もうその夢さえ見ることもできなくなるであろうと思った。宙は伯父の張鎰が恨めしくなってきた。
小さい時から衡州へ呼び寄せられて倩娘といっしょに育てられ、二人の間は許嫁同様の待遇で、他人に向っておりおり口外する伯父の詞を聞いても、倩娘は自個のものと思うようになり、厳しい当時の道徳では、小さいときのように同席することはできなかったが、それでも二人の間には霊感の交渉があって、女の方のことは判らないが、宙の方では夢の中で倩娘ととうに夫婦となっていた。ところで、その倩娘は伯父の幕僚の一人に許された。
……それにしても、伯父は何んと云う不誠実な男であろう、これが恩義のない他人であったなら、俺はこんな男に対して、どんな手段を取るだろう、俺が蜀の都へ往くのは、拗ねて往くのではない、苦しいから逃げて往くのだ、何れにしても、俺の事情を知っておる者ならどちらかに解釈すべきはずだ、それだのに、伯父はどうだ、お前を手離しては、自個の小供と離れるも同じことで、淋しくてならない、不自由なことがあれば、何んでも言うなりになってやるから、此処におれと云っている、それは別に心にもないことを云っているでもないらしい、だが、倩さんとの関係のことは、綺麗に忘れてしまったような顔をしている、真箇に忘れたとは云わさないぞ、と、宙はまた伯父の心理状態を考えて見た。
……やっぱりとぼけているんだ、狸爺だと、宙は眼の前に醜悪な伯父の姿が立っているような気がした。彼の心は憎悪に燃えた。
「宙さん」
宙は驚いて眼を瞠った。従妹の倩娘が竹にそうて立っていた。
「倩さんか」
宙は倩娘の傍へ寄って往った。宙は倩娘の眼に涙を見つけた。
「倩さん、いよいよあんたとも別れる時が来た、私は明日都へ往くことになった」
倩娘は両手で顔を隠してしまった。倩娘は泣きだした。
「長い間、あんたにも厄介になったが、これも一つの運命だ」
宙の片手は女の肩にかかった。女は全身を投げかけるように体を寄せて来た。と、宙が今歩いて来た方から跫音が聞えて来た。
「何人か来たようだ、では別れよう、体を大事になさい」
宙は女と離れてその前にある小門の口の方へ歩いて往った。宙はその時女の足が一足二足自個を追って来たように感じた。
朝になって宙は伯父の張鎰をはじめ、その幕僚などに見送られて、船に乗って出発した。
宙は船の中にいても、倩娘のことばかり考えていた。そして、その考は昨夜の新しい倩娘の涙と結びついた。微月に照されて竹の幹にそうて立っていた、可憐な女の容を浮べると、伯父に対する恨も、心の苦痛も、皆消えてしまって、はては涙になってしまった。
夜晩くなって船は土手に沿うて進んでいた。宙は倩娘のことが頭に一ぱいになっていて眠られないので、起きて船べりにもたれていた。微赤い月が川にも土手の草の上にもあった。
ばたばたと走って来る人影が土手の上に見えた。この夜更けにどうした人であろうと思って、見るともなしにそれに眼をやった。
人影は近くなって来た。それは若い女らしかった。悪者に追かけられた者であろうか、それとも、親や良人に大事なことでもあって、走っているものであろうか、聞いたうえで都合によっては、この船で送ってやってもいい、どうせ急がない旅である……。
宙はこう思って、船と女との並行するのを待っていた。
「宙さん、宙さんではありませんか」
宙は驚いて眼を瞠った。声なり、姿なり、それは確に倩娘であった。
「倩さん、倩さんか」
「え、え、私よ、宙さん」
倩は急いで船を岸へ着けさした。
「どうして、来たのです」
倩娘は倒れ込むように船の中へ入って来た。いたいたしい跣足の足元が見えた。
「跣足じゃないか、一体どうしたのです」
倩娘は宙にすがりついて泣いた。
「私は、私は、貴君のことが気になって、立っても、いても、いられなくなりましたから、家を逃げだして、夢中になって走って来ました」
「倩さん、あんたの心が判った、私は伯父さんに、もう何んと思われてもかまわない、決してあなたを離さない」
二人は蜀へ往って暮した。五年の間に二人の小供ができた。その時分になって倩娘は父と母のことが気になって、衡州へ帰りたくなった。
「私は、お父さんやお母さんに会って、お詫びをしないと、気がすみません、どうか衡州へ帰ってください」
宙もそれを思わないでもなかった。
「わしも、そのことは思ってる、ではお詫びに帰ろう」
二人は小供を伴れて船で帰って往った。
船が衡州へ着くと、宙は倩娘と小供を残しておいて、一人で張鎰の屋敷へ往った。
「私は王宙でございます、伯父さんにお取次ぎをねがいます」
宙は取次ぎの男が引込んで往った後で、伯父に向って云う謝罪の言葉を考えながら黙然と立っていた。
「王宙が帰って来たと云うのか、待ち兼ねていた、取次ぎも何にも入るものか、さあ、早くあがって来るがいい」
聞き覚のある張鎰の声がして、そそくさと跫音がした。宙は不思議に思って顔をあげた。伯父の張鎰が機嫌のいい顔をして立っていた。
「さあ、他人行儀はいらんことだ、早くあがるがいい、伯母さんもお前のことを云って待ち兼ねてる」
「ほんとに相済んことをいたしております、今日は、お詫びに帰りました」
「何のお詫びをすることがある、さあ、あがるがいい」
「そうおっしゃられると、穴へ入りたいほどでございます、倩娘もいっしょに帰って来ておりますが、伯父さんのお許しを得てからと思いまして、船へ残してまいりました」
張鎰は驚いて眼を瞠った。
「倩娘、倩娘がどうしたと云うんだ、倩娘はずっと病気だ、お前が蜀へ往ってから間もなく病気になって、約束の婚礼も破談にして、それからずっと寝てるんだ、そんな馬鹿なことがあるものか」
宙も不審が晴れなかった。
「でも、確に、倩娘は私が蜀に往く時、私の船を追っかけて来ましたから、伯父さんには相すまんと知りつつ、いっしょに蜀へ往って、二人の小供までできました、小供もいっしょに伴れて来て、船の中に残してあります、嘘とおっしゃるなら、いっしょに往ってください」
「そんな馬鹿なことがあるものか、倩娘は確に寝てる、そんなことはない」
張鎰は家の者を船へやった。船には倩娘がいて、小供といっしょに帰って来た。張鎰は驚いて自個の家で寝ている倩娘の枕頭へ往った。
「へんなことができた、お前の名を騙って、宙と夫婦になった奴があるぞ」
これを聞くと、寝ていた倩娘はにっと笑った。そして、急に起きあがって、髪をかき、着物を着かえて、入口の方へ出て行った。張鎰は驚いてその後から踉いて往った。
其処へ船にいた倩娘が小供を伴れて入って来た。それは寝ていた倩娘とすこしも違わない女であった。張鎰はじめ皆があっけにとられて見ていると、二人の倩娘の体は急にぴったり引ついて一人の女となった。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。