明の末の話である。中州に焦鼎という書生があって、友達といっしょにの上流へ往ったが、そのうちに清明の季節となった。その日は家々へ墓参をする日であるから、若い男達はその日を待ちかねていて、外へ出る若い女達を見て歩いた。焦生も友達といっしょに外へ出る若い女を見ながら歩いていたが、人家はずれの広場に人だかりがしているので、何事だろうと思って往ってみると、一匹の虎を伴れた興行師がいて、柵の中で芸をさしていた。
それは斑紋のあざやかなたくましい虎であったが、隻方の眼が小さく眇になっていた。年老った興行師の一人は、禿げた頭を虎の口元へ持って往って、甜らしたり、鬚をひっ張ってみたり、虎の体の下へもぐって往って、前肢の間から首を出してみたり、そうかと思うと、背の上に飛び乗って、首につけてある鎖を手綱がわりに持って馬を走らすように柵の中を走らした。その自由自在な、犬の子をあつかうような興行師のはなれわざを見て、見物人は感激の声を立てながら銭を投げた。
曇り日の陰鬱な日であった。焦生も友達と肩を並べてそれを見ていたが、見ているうちに大きな雨が降ってきた。見物人は雨に驚いて逃げだした。興行師は傍に置いてあった大きな木の箱を持ってきて虎をその中へ追い込んでしまった。
焦生と友達は雨にびしょ濡れになって宿へ帰った。二人はその晩いつものように酒を飲みながらいろいろの話をはじめた。虎の話が出ると酒に眼元を染めていた焦生が慨然として言った。
「あんな猛獣でも、ああなっては仕方がないな、英雄豪傑も運命はあんなものさ」
これを聞くと友達が笑いながら言った。
「そんな同情があるなら、買い取って逃がしてやったらどうだ」
「無論売ってくれるなら、買って逃がしてやるよ」
酒の後で二人は榻を並べて寝た。焦生はすぐ眠られないので昼の虎のことを考えていた。と、寝室の扉を荒あらしく開けて、赤い冠をつけ白い着物を着た老人が入ってきた。老人は焦生を見て長揖した。焦生は老人の顔に注意した。隻方の眼が眇になっている老人であった。
「私の災難を救ってください、私は仙界に呼ばれているものでございます、あんたが私を救ってくだされて、山の中へ帰してくださるなら、あんたは美しい奥さんができて、災難を脱れることができます」
焦生にはその老人が何者であるかということが判った。
「あの興行師が、あなたを手放すでしょうか」
「明日は手放す機会をこしらえます、来て買い取ってください」
「いいとも、買い取ってあげよう」
翌日焦生は一人で虎の興行場へ往った。もうたくさんの見物人が集まって開場を告げる鉦が鳴っていた。焦生が柵の傍へ往った時には、昨日の興行師は虎に乗って柵の中を走らしていた。
やがて興行師は柵の真中へ往って虎からおりて、鬚を引っぱり出した。焦生は不思議な老人の言った機会とはどんなことだろうかと考えていた。興行師は鬚を引っぱることを止めると、その禿頭を虎の口へ持って往った。と、見る間に虎の唸声が聞えて、老人の顔には真赤な血がかかった。
見物人は驚きの声をあげて柵を放れて逃げた。
柵の中では頭をびしゃびしゃに噛み潰された老人の死骸が横たわって、刀を持った二人の若い男が虎に迫っていた。
焦生はこれを見ると、逃げまどう見物人の間を潜って柵の方へ往って、柵の上へかきあがった。
「おい、その虎をどうする」
一人の若い男が振り返った。
「この畜生、爺親を噛み殺したから、殺すところだ」
「そうか、それは気のどくだが、お父さんを殺されたうえに、虎を殺したら、大損じゃないか、それよりか、俺に売れ、その売った金でお父さんの弔をしたらどうだ」
虎はもう眼をつむるようにして二人の前に立っていた。焦生に詞をかけた男は、傍にいるもう一人の男の処へ往って話をはじめた。焦生は二人の話の結果を待っていた。
二人の話はしばらく続いた。そして、話のきまりがついたとみえてはじめの男が引き返してきた。
「どうする、売ってくれるか」
「十万銭なら、売りましょう」
「よし、買った、銭を渡すから何人か一人、いっしょに来てくれ」
「私がまいります」
焦生はその男を伴れて宿へ帰り、十万銭の金を渡して、興行師といっしょに再び虎の処へ引返した。
「それでは、この虎を放してくれ」
「ここへ放すと、またどんなことになるかも判りません、あんたに売ったから、あんたが山の中へ伴れてって放してください」
虎は柵の隅の方に寝ていた。焦生は柵の中へ入って往って鎖を持って引っ張った。虎は飼い犬のようにのっそりと体を起した。
焦生はその虎を伴れて山の方へ往った。そして、渓川の縁に沿うて暫く登って往って鎖を解いた。と、烈しい風が起って木の枝が鳴り、小石が飛んだ。焦生は驚いて風に吹き倒されまいとした。虎はその隙に何処かへ往ってしまった。
焦生はその秋試験に出かけて往った。彼は馬に乗り、一人の僕をつれていた。道は燕趙の間の山間にかかっていたが、ある日、宿を取りそこねて、往っているうちに岩の聳え立った谷の間へ入ってしまった。もう真黒に暮れていて、あわただしそうに雲のとんでいた空からのぞいている二つ三つの星が、傍の岩角をぽっかりと見せているばかりで、すこしの明りもないので、前へも後へも往けなくなった。
焦生と僕は途方に暮れてしまった。二人はしかたなしに何処かそのあたりで野宿にいい場処を見つけて寝ることにした。焦生は馬からおりて、野宿によい場処を見つけるつもりで、さきに立ってそろそろと歩きだした。短い雑木の林がきた。小さな道はその中へ往った。林の木は風に動いていた。焦生はその中へ往った。其処には小さな渓川が冷たい音を立てて流れていた。林の木におおわれた大きな岩があった。焦生は其処の風陰を野宿の場処にしようと思った。彼は脚下に注意しながら岩のはなを廻って往った。眼の前に火の光が見えてきた。その火の焔のはしに家の簷が見えた。
「家がある、おお、家がある」
焦生が前に立ってその家の門口へ行った。背の高い大きな老人が顔を出した。老人は焦生を客室へあげ、僕にも別に一室を与えた。
老人は声の荒い眇の男であった。焦生は老人に自分の素性を話していた。痩せてはいるがやはり老人のように背の高い老婆が茶を持ってきた。老人は老婆の方をちょっと見た。
「これが私の妻室ですよ」
焦生は老婆に向って挨拶をして、泊めてもらった礼を言った。老婆と焦生がまだ挨拶をしている時であった。老人は後ろの方にあった帷の方を見返って荒い声を出した。
「珊珊、お客さんに御挨拶にくるがいいよ」
焦生が元の座に戻ったところで十五六の綺麗な女の子が出てきた。老人は女の子の肩に手をかけた。
「これが私の女でございます、どうかお見知りおきを願います」
老人はそれから老婆に御馳走の用意をさした。老婆は室を出たり入ったりして酒や肴を持ってきた。
準備が出来ると老人はそれを焦生にすすめた。女の子は母の傍に坐っていた。若い焦生は女の子の方に心をやっていた。
「お客さんは、くたびれておいでだろうから、寝床を取ってあげるがいい」
老人が女の子の顔を見ると、女の子はにっと笑いながら、その室の一方についた寝室へ入って往った。
老人と老婆はいつの間にか室を出て往って、焦生独りうっとりとなっていた。寝床を取ってしまった女の子はそっと傍に寄ってきて、焦生の縋っているを不意にがたがたと動かした。焦生はびっくりして眼を開けた。
「お休みなさいまし」
「ありがとう、あんたはいくつ」
「十六よ」
「もう、お婿さんがきまっておりますか」
女の子は怒るような口元をして笑って見せた。焦生は紅い女の袖をつかもうとした。女の子は後ろに飛びのいた。焦生は為方なしに笑って寝室の方へ歩いた。
焦生は女の子のことを考えているうちに眠ってしまった。そして、咽喉がほてって苦しくなったので眼を覚ました。
「茶を持ってこい、茶を持ってこい」
焦生はいつも僕を呼びつける詞を習慣的にだしてあとでしまったと思った。女の子が茶を持ってすぐ来た。
「や、どうもすみません、僕を呼びつけているものですから、ついうっかり言いました」
「いいのよ、お茶を召しあがるだろうと思って、こしらえてあったのですもの」
女の子はそう言いながら枕頭へ茶碗を置いた。焦生はその手をそっと握った。
「いやよ」
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