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狐の手帳(きつねのてちょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-25 9:01:47  点击:  切换到繁體中文


       五

 ろくろく睡りもせずに夜の明けるのを待ちかねていた新一は、往来で馬の嘶(いなな)く声や人の話声がしだすと寝床を出て庖厨(かって)の戸を開けた。夜はもうきれいに明けて庭には露がしっとりとおりていた。新一は怪しい獣の落した血の痕はないかと思ってそのあたりを見廻ったが、それらしい物は見えなかった。
 そこへ老婆も起きて来て、新一といっしょになって見廻ったが、べつにそんなものも見えなかった。で、老婆はその後でまだ開けてない雨戸をすっかり開けてからまた見廻ったが、やはり何も見えなかった。
「やっばり何もないのですね」
 老婆は新一に短刀を持って来さして念のために改めてみた。短刀には微黒いものが乾き附いていた。
「たしかにこれは血だがなあ」
 新一の耳には短刀を投げた時に怪しいものの発した声が残っていた。
「たしかに唸ったがなあ」
「ぜんたい何処にいるのだろう」
 奥庭の前(さき)は寺の境内になって竹の菱垣がしてあったが、この一二年手入をしないので処どころに子供の出入のできるような穴が開いていた。其処は寺の卵塔場になっていて樫や楓・椿などの木が雑然と繁っていた。
「お寺の方へ往ってみよう」
 新一はそのまま庭前(にわさき)のほうへ歩いて往った。破れた竹垣の傍には穂のあぎた芒が朝風にがさがさと葉を鳴らしていた。新一は時どきその垣根の破れを潜って卵塔場へ遊びに往くことがあるのでよく案内は知っていた。其処には五輪になった円い大きな石碑や、平べったいのや、角いのや、無数の石塔が立ち並んでいた。木の上では小鳥が無心に啼いていた。
 新一はその墓場の中を彼方此方と歩きながら、もしや血が落ちていはしないかと見て廻ったが、足端(あしさき)にこぼれる露があるばかりで色のあるものはなかった。墓の前に植えつけた桔梗の花も見えた。
 新一は己(じぶん)の家へ帰って来た。老婆が台所で釜の下を炊いていた。
姨(おば)さん、何にもいなかったよ」
「お寺の中にはおりませんよ、お祖師様が、そんな悪いものは置きませんから」
「そうかなあ」
 朝飯ができて老婆がお滝の室(へや)へ往ってみると、お滝はすやすやと眠っていた。
「お媽(かみ)さんは今朝はよくやすんでますよ、悪いものが離れたかも判りませんよ」
「そうかなあ」
「今晩験(ため)してみたら判りますよ」
 お滝はその日は寝床の中にいることはいたが非常に穏かであった。老婆は気に逆うてはいけないと思ったので、黙って飯を持って往って置いて来ると、お滝は何時の間にか喫(く)ってあった。
「今晩験してみたら判りますよ」
 老婆は夕飯を喫いながら新一にこんなことを云った。
「あれで来なくなると好いがなあ」
「もう来ませんよ」
 その晩も新一は茶の間で寝て老婆は奥の間に寝ることになった。新一はその晩もついすると怪しいものが来るかも判らないと思って、夜着の下に短刀を隠しながら一方母親の容子に注意していたが、夜半比(よなかごろ)になるとつい睡ってしまった。そして、眼を覚した時には朝になっていた。
「坊ちゃん、もう眼が覚めましたか」
 老婆はそこへ起きて来て云った。
「ああ、もう夜が明けたかい、お母(っか)さんはどうだろう」
昨夜(ゆうべ)、遅くまで起きて、蒲団の上に坐ってたようでしたが、独言も云いませんでしたよ、坊ちゃんの処には、変ったことはなかったのですか」
「ああなかったのだよ」
「じゃ、やっぱり憑物が離れたのですね、これで二三日すりゃ好いのですよ」
「では、彼奴、死んじゃったろうか」
「そうですね、どうかなったのでしょうよ」
 その日もお滝は表座敷から出て来なかったがへんな挙動はしなくなった。新一はそれに安心して昼からすぐ近くの朋友(ともだち)の処へ遊びに往った。朋友は吉と云う魚屋の伜であった。二人はその魚屋の入口で顔を合した。
「新ちゃん、この間うち、ちっとも来なかったが、何(ど)うしていたのだ」
「おいらは、お母(っか)さんに狐が憑いたから、それで来なかったよ」
「なに、狐が憑いた、ほんとうかい」
「ほんとうとも、嘘を云うもんか、おいらは、その狐を斬ったよ」
「嘘云ってら、狐が斬れるものか」
「でも、斬ったのだよ」
「じゃ、死んじゃったかい」
「逃げちゃったよ、彼奴を殺したかったよ、どうかして、あんな奴を殺せないかなあ」
「狐は化けるから殺せないよ、家のお父(とっ)さんが云ったよ、狐でも狸でも、銀山の鼠取を喫わせりゃ、まいっちまうって」
「そうかい、銀山の鼠取かい、鼠取ならおいらの家にもあるよ」
 新一はそれから吉と一二時間も遊んでいたが、母親のことが気になりだしたので急いでかえって来た。

       六

 お滝はやはり表座敷から出て来なかったが、その晩もその翌晩も、もう独言も云わなければ怪しい挙動もしなかった。ただ新一は彼(あ)の怪しい獣を逃がしたのが残念でならないので、短刀を抜いて怪しい血糊を見たり、吉から聞いた銀山の鼠取のことを考えてみたりした。
 某日(あるひ)新一は、やはりその怪しい獣のことを考えながら、往くともなしに寺の卵塔場の中へ入って往った。それは風のない夕方のことで夕陽が微赤い光をそのあたりに投げていた。新一は石碑の間を彼方此方と潜(くぐ)って歩いているうちに、一処平べったい大きな石碑が横に倒れて、それが芒の中に半ば隠れている処へ出た。新一はこんなに石碑が倒れているのに何故起してやらないのだろうと思いながら、ふと見ると、その倒れた石碑の上に茶色の毛をした犬のような細長い獣が人間の腹這(はらんば)いになったように寝ていたが、それが小さな帳面を前へ置いて、一心になって見ているような容(ふう)をしていた。新一は不思議なことをする獣だと思っていきなり大きな声を立てた。と、獣は吃驚して跳びあがるなり逃げて往ったが、直ぐ傍の石碑の陰へ隠れて見えなくなった。
 新一は獣の癖になにを見ているだろうと思って、その跡へ往ってその帳面のようなものを拾ってみた。それは半紙を三枚綴り合せて、片仮名のような文字を微青く書いたものであった。タカとか、オユキとか、オハナとか、人の名のようなものを紙の中程から横に並べて書いたもので、そうした物が三十ばかりも書いてあったが、初めから二枚目の終りあたりまでは、文字の上に三角の標(しるし)をつけてあった。そして、その最後の三角の下の文字はオタキと云う文字であった。
「……おたき、おたき……」
 新一はその文字を読みながら、なんだか知ったような名であると思っているうちに、その文字が己(じぶん)の母の名と同じであると云うことが判って来た。
「お母(っか)さんの名だ」
 新一は怪しい獣のことを思いだした。それでは彼(あ)の獣が己の家に来る怪しい獣ではないかと思った。
「犬とは違っていた、たしかに彼奴が狐に違いない」
 新一はそれと知ったなら石でも投げつけて、殺してやるのであったにと思って残念になって来た。新一は帳面を握ったなりにそのあたりを彼方此方と歩いて捜したが、もう影も形も見えなかった。
「よし、吉公の云ったように、鼠取を使ってやろう、姨(おば)さんなんかに黙ってて、一人でそっとやってやれ」
 新一は帳面を懐に隠して何くわぬ顔をして家へ帰って来た。庖厨(かって)口を入ろうとしたところで茶の間の方で人の話声がしているので、何人(たれ)かが来ているだろうかと思ってあがった。父親の新三郎が陽焼けのした顔をして火鉢の傍へ坐って老婆と話していた。
「やあ、お父(とっ)さん」
「おお、新一か」
 新一は嬉しいので父親の傍へ往って坐った。新三郎はもう老婆からお滝の怪しい挙動(ようす)を詳しく聞いていた。
「お前は偉いことをやったそうだな、偉い、偉い」
 新三郎は新一の頭を撫でて云った。
「もう好いだろう、それでおっかながって、来ないだろう、また来るようなら、下谷に御嶽様(おんたけさん)の行者があるから祈祷してもらおう」
 新一は墓場のことを思いだしたが、父にはじめから知らしては面白くないので、知らさずにおこうと思って口ヘは出さなかった。
「まあ、ちょっと往って、覗いて来よう」
 新三郎はそう云って表座敷へ入って往った。お滝は夜着を脚下に放ね退けて仰向けになって眼をつむっていた。
「お滝」
 新三郎が声をかけるとお滝はふっと眼を開けて新三郎の顔を見あげたが、そのまま何にも云わずに寝返りして前向きになってしまった。
「まだ体が悪いのか」
 お滝は返事をしなかった。
「まだ気もちがなおらないのだな、まあ、そうして、静にしてるが好い」
 新三郎はしかたなしに茶の間へ帰って来た。茶の間には老婆と新一が坐っていた。
「未だほんとうじゃないね」
「どうかいたしましたか」
「俺が声をかけると、ちょっと眼を開けて見といて、すぐ彼方向きになって返事もしないのだよ」
「それでもおとなしくなりましたよ、初めのうちは、どうしようかと思いましたよ、ねえ、坊ちゃん」
「そうだよ、狂人のようにあばれてたなあ」
 間もなく夕飯が出来ると新三郎は新一と膳を並べて飯を喫(く)った。其処へお滝の処へ膳を持って往った老婆が帰って来た。
「今晩は、何時になく、私がお膳を持って往くと、黙って喫(た)べましたよ」
 その晩新三郎と新一は奥の間へ寝て、老婆は茶の間へ寝たが、その晩もお滝は何事もなかった。
 朝飯の後で新三郎は表座敷へ往った。その時はちょうどお滝が便所へ往っていて姿が見えなかったので、其処に立って待っていると間もなく帰って来た。
「おい、まだ体が悪いのか」
 お滝は眼を見すえたようにして見ていたが、そのまま返事もせずに寝床の上へ横になってしまった。
「やっぱり悪いのか、それとも俺が判らないのか」
「ものを云うのが煩いよ」
「そうか、体が悪いならしかたがない、ゆっくり寝てるが好い、土産を買って来てあるが、なおってからにしよう」
 お滝はもう何も云わなかった。

       七

 夕月が射していた。新一はその夕月の光で脚下を見ながら寺の卵塔場の中へ入って往った。新一は吉の家へ遊びに往くと云う口実をこしらえて、夕飯が済むと家を出て、そのあたりをぶらぶらしていて時刻を見計って其処へ来たところであった。
 新一は懐に短刀を入れ、一方の袂の中に鼠取の袋を入れていた。彼はそうして彼(あ)の狐を斃そうと考えていたが、それをどうして用いるかと云う手段は思いつかなかった。
 虫の声が雨の降るように聞えていた。立ち並んだ石碑は月の下に不思議なものの影をこしらえていた。新一はその間を蛩音をさせないようにして歩いた。
 がさがさと云う音が直ぐ傍で聞えた。新一は足を止めてその音を聞いた。それは人の蛩音のような蛩音であった。夜になってこんな処を歩いている者は、盗人か何かであろう、普通の人ではあるまいから、見つかるとどんな目にあわされるかも判らない、これは隠れるが好いと思いだしたので、其処にあった五輪塔の陰へ蹲んで覗いていた。
 蛩音は直ぐ前に来た。二十二三の壮(わか)い男の姿が其処に見えた。色の白い赤い唇をした※(きれい)な男であった。新一はこの人はべつに盗人のようでもないらしい、どうした人だろうと思いながら腰のほうに眼をつけた。腰には刀も何も見えなかった。
 壮い男は、すぐその前の雑草の上へ腰をおろしてしまった。新一は彼(あ)の人はあんな処へ坐って何をするだろうかと思って見ていた。
 間もなくまた何処からか蛩音が聞えて此方の方へ来るようであった。新一はついとすると彼の壮い男が此処で何人(たれ)かを待ちあわせているだろうと思ったが、それにしてもこんな処で待ちあわして何をするつもりだろうと思った。
 蛩音はすぐ前へ来た。それは僕(げなん)のような容(ふう)をした男でその手には何かものがあった。
 二人はやがて何か話しだしたが、何を云っているのか新一の耳へは聞えなかった。そのうちに二人は手に掴んで何か喫(く)いだした。新一は二人の喫っている物は何だろうかと思って透して見たが見えなかった。
 二人の話は絶えなかった。話しながら絶えずものを口に持って往った。そのうちに新一は体が苦しくなって来た。彼はそっと体を右の方へ傾けようとしたところで、何かちらちらと動いたような気がしたので、見るともう二人の姿は無くなっていた。
 新一はびっくりしてその周囲(まわり)を見廻したがもう影も形も見えなかった。彼はふと怪しい獣のことを考えだした。
 新一は起って二人の坐っていた処へ往って蹲んでみた。其処には魚の骨のようなものが散らばっていた。
 新一はその魚の骨のようなものをじっと見詰めていたが何か思いついたのかそのまま卵塔場を出て、何くわぬ顔をして己(じぶん)の家へ帰って往った。
 家では父親の新三郎が新一の帰るのを待っていた。新三郎は新一を伴れて奥の室(へや)へ往って、老婆の敷いてある寝床の中へ入った。その夜遅くなって新三郎が何かの拍子に眼を覚してみると、お滝の室でお滝が甘ったれたような声をして笑っているのが聞えた。新三郎は老婆から聞いているのでいきなり起きて、隔ての襖を開けて表座敷へ入って往った。其処にはお滝の寝床があるばかりでお滝の姿は見えなかった。新三郎は行灯を持って縁側の障子を開けた。半裸体になったお滝が縁側に肘枕をして横に寝ていた。
「おい、お滝、どうしたのだ、そんな処へ寝ちゃ風邪を引くぜ」
 お滝の大きな声が其処から聞えて来た。
「風邪を引こうと引くまいと、余計なお世話だ、彼方へ往ってすっこんでろ、何しに此処へ来るのだ、痴(ばか)」
 新三郎は怪しい病気が起ったと思ったので対手にならなかった。
「邪魔すると承知しないぞ、痴、ひょっとこ、彼方へ往きあがれ」
「俺も往くから、お前も此方へ入って、寝るが好いだろう、お前は体が悪い、しっかりせんといかんよ」
「煩い」
「煩くっても、そんな処へ寝ていちゃいけない、入んな」
「お前さんのような奴が、其処にいちゃ入れないよ、痴」
「じゃ、俺は彼方(あっち)へ往くから、入んな」
「煩いよ、余計なことを云うない」
 お滝は跳び起きるように起きて新三郎に突っかかって来ようとした。新三郎が体をかわすとお滝はそのまま寝床の上へ往って俯向きになり、大声を出して泣きだした。
「苦しい、苦しい、なんの恨みがあって、俺をこんなに苦しめるのだ」
 新三郎は障子を締めて奥の室へ往こうとした。新一が起きて来て其処に立っていた。
「お父(とっ)さん、また狐が来たのだね」
「そうだろう、狐だろう」
 翌日になって新三郎は下谷の御嶽行者の処へ往って祈祷を頼んで来た。新三郎はそれで幾等かお滝の病気が好くなるだろうと思っていたが、その一方で新一は油揚げを三枚買い、それに鼠取を入れて卵塔場の中へ持って往った。
 その夜お滝は非常に穏かで怪しい挙動(そぶり)もせずに寝た。新三郎も老婆も祈祷のお陰であると思って悦んだ。そして、朝になって皆(みんな)より早く起きた老婆が庖厨(かって)口の戸を開けてみると、簷下(のきした)に一疋(ぴき)の獣が死んでいた。老婆の声を聞きつけて新三郎も起きて来た。獣は狐であった。その狐の尻尾の附け根には生々しい傷痕があった。其処へ新一がにこにことして起きて来た。
 お滝の体は十日ばかりすると元の体になった。新一が狐を殺したことは非常な評判になって、それがため新一は駿河台にあった大きな旗下(はたもと)邸の小供のお伽に抱えられたのであった。



底本:「日本の怪談」河出文庫、河出書房新社
   1985(昭和60)年12月4日初版発行
底本の親本:「日本怪談全集」桃源社
   1970(昭和45)年初版発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:松永正敏
ファイル作成:野口英司
2001年2月23日公開
2001年2月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


●表記について

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

※(きれい)な男であった。

第3水準1-15-80

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