讓は日本室のようになった畳を敷き障子を締めてあった玄関のある方へ往くつもりで、廊下を左の方へ走るように歩いた。間接照明をしたようなぼうとした光が廊下に流れていた。そのぼうとした光の中には鬼魅の悪い毒どくしい物の影が射していた。
讓は底の知れない不安に駆られながら歩いていた。廊下が室の壁に往き当ってそれが左右に別れていた。讓はちょっと迷ったが、左の方から来たように思ったので、左の方へ折れて往った。と、急に四方が暗くなってしまった。彼はここは玄関の方へ往く処ではないと思って、後帰りをしようとすると、そこには冷たい壁があって帰れなかった。讓はびっくりして足を止めた。歩いて来た廊下が判らなくなって一処明採りのような窓から黄いろな燈が光っていた。それは長さが一尺四五寸、縦が七八寸ばかりの小さな光であった。讓はしかたなしにその窓のほうへ歩いて往った。
窓は讓の首のあたりにあった。讓は窓の硝子窓に顔をぴったりつけてむこうを見た。その讓の眼はそこで奇怪な光景を見出した。黄いろに見える土間のような処に学生のような少年が椅子に腰をかけさせられて、その上から青い紐でぐるぐると縛られていたが、その傍には道伴になって来た主婦の妹と云う壮い女と、さっきの小間使のような婢が立っていた。二人の女は何かかわるがわるその少年を攻めたてているようであった。少年は眼をつむってぐったりとなっていた。
讓は釘づけにされたようになってそれを見つめた。婢の方の声が聞えて来た。
「しぶとい人ったらありゃしないよ、何故はいと云わないの、いくらお前さんが強情張ったってだめじゃないの、早くはいと云いなさいよ、いくら厭だと云ったってだめだから、痛い思いをしないうちに、はいと云って、奥様に可愛がられたら好いじゃないの、はいと云いなさいよ」
讓は少年の顔に注意した。少年はぐったりとしたなりで唇も動かさなければ眼も開けようともしなかった。妹の方の声がやがて聞えて来た。
「強情はってたら、返してくれるとでも思ってるだろう、ばかな方ね、家の姉さんが見込んだ限りは、なんとしたって、この家から帰って往かれはしないよ、お前さんはばかだよ、私達が、こんなに心切に云ってやっても判らないのだね」
「強情はったら、帰れると思ってるから、おかしいのですよ、ほんとうにばかですよ、また私達にいびられて、餌にでもなりたいのでしょうよ」
婢は鬼魅の悪い笑いかたをして妹の顔を見た。
「そうなると、私達は好いのだけれど、この人が可哀そうだね、何故こんなに強情をはるだろう、お前、もう一度よっく云ってごらんよ、それでまだ強情をはるようなら、お婆さんを呼んでおいで、お婆さんに薬を飲ませて貰うから」
婢の少年に向って云う声がまた聞えて来た。
「お前さんも、もう私達の云うことはわかってるだろうから、くどいことは云わないが、いくらお前さんが強情はったって、奥様にこうと思われたら、この家は出られないから、それよりか、はいと云って、奥様の詞に従うが好いのだよ、奥様のお詞に従えば、この大きなお邸で、殿様のようにして暮せるじゃないかね、なんでもしたいことができて好いじゃないの、悪いことは云わないから、はいとお云いなさいよ、好いでしょう、はいとお云いなさいよ」
少年はやはり返事もしなければ顔も動かさなかった。
「だめだよ、お婆さんを呼んでお出で、とてもだめだよ」
妹の声がすると婢はそのまま室を出て往った。
妹はその後をじっと見送っていたが、婢の姿が見えなくなると少年の後へ廻って双手をその肩に軽くかけ、何か小さな声で云いだしたが讓には聞えなかった。
女は少年の左の頬の処へ白い顔を持って往ったが、やがて紅い唇を差しだしてそれにつけた。少年は死んだ人のように眼も開けなかった。
二人の人が見えて来た。それは今の婢と魚の眼をした老婆であった。それを見ると少年の頬に唇をつけていた妹は、すばしこく少年から離れて元の処へ立っていた。
「また手数をかけるそうでございますね、顔ににあわない強つくばりですね」
老婆は右の手に生きた疣だらけの蟇の両足を掴んでぶらさげていた。
「強情っ張りよ」
妹が老婆を見て云った。
「なに、この薬を飲ますなら、理はありません、どれ一つやりましょうかね」
老婆が蟇の両足を左右の手に別べつに持つと婢が前へ来た。その手にはコップがあった。女はそのコップを老婆の持った蟇の下へやった。
老婆は一声唸るような声を出して、蟇の足を左右に引いた。蟇の尻尾の処が二つに裂けてその血が裂口を伝うてコップの中へ滴り落ちたが、それが底へ微紅く生なましく溜った。
「お婆さん、もう好いのでしょ、平生くらい出来たのですよ」
コップを持った婢はコップの血をすかすようにして云った。老婆も上からそれを覗き込んだ。
「どれ、どれ、ああ、そうだね、それくらいありゃ好いだろう」
老婆は蟇を脚下に投げ捨ててコップを受け執った。
「この薬を飲んで利かなけりゃ、もうしかたがない、皆でいびってから、餌にしましょうよ、ひっ、ひっ、ひっ」
老婆は歯の抜けた歯茎を見せながらコップを持って少年の傍へ往って、隻手の指端をその口の中へさし入れ、軽がると口をすこし開かしてコップの血を注ぎ込んだ。少年は大きな吐息をした。
讓は奇怪な奥底の知れない恐怖にたえられなかった。彼はどうかして逃げ出そうと窓を離れて暗い中を反対の方へ歩いた。そこには依然として冷たい壁があった。しかし、戸も開けずに廊下から続いていた室であるから、出口のないことはないと思った。彼は壁を探り探り左の方へ歩いて往った。と、壁が切れて穴のような処があった。讓は今通って来た処だと思ってそこを出た。
ぼんやりした微白い光が射して、その前に広い庭が見えた。讓は喜んだ。玄関口でなくとも外へさえ出れば、帰られないことはないと思った。そこには庭へおりる二三段になった階段がついていた。讓はその階段へ足をかけた。
讓を廊下で抱き縮めたような女と同じぐらいな年恰好をした年増の女が、隻手に大きなバケツを持って左の方から来た。讓は見つけられてはいけないと思ったので、そっと後戻りをして出口の柱の陰に立っていた。
肥った女はちょうど讓の前の方へ来てバケツを置き、庭前の方へ向いて犬かなんかを呼ぶように口笛を吹いた。庭の方には天鳶絨のような草が青あおと生えていた。肥った女の口笛が止むと、その草が一めんに動きだしてその中から小蛇が数多見えだした。それは青い色のもあれば黒い色のもあった。その蛇がにょろにょろと這いだして来て女の前へ集まって来た。
女はそれを見るとバケツの中へ手を入れて中の物を掴み出して投げた。それはなんの肉とも判らない血みどろになった生生しい肉の片であった。蛇は毛糸をもつらしたように長い体を仲間にもつらし合ってうようよとして見えた。
讓は眼前が暗むような気がして内へ逃げ込んだ。その讓の体は軟かな手でまた抱き縮められた。
「どんなに探したか判らないのだよ、どこにいらしたのです」
讓はふるえながら対手を見た。それは彼の年増の女であった。
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