二
六七人の人夫の一群が前方から来た。礁の破片を運んでいる人夫であるから、邪魔になってはいけないと思ったので、権兵衛は体を片寄せて往こうとした。其の人夫の先頭に立った大きな男の背には一人の人夫が負われて、襦袢の衣片で巻いたらしい一方の手端を其の男の左の肩から垂らしていた。そして、其の大きな男の後にも枴で差し担った簣が来ていたが、それにも人夫の一人が頭と一方の足端を衣片でぐるぐる巻きにして仰臥に寝かされていた。見ると其の人夫の頭を巻いた衣片には生なました血が浸んで、衣片の下から覗いている頬から下の色は蒼黒くなって血の気が失せていた。
「おう、これは」
権兵衛は眼を見はった。簣の横にいた横肥のした人夫の一人がそれを見て権兵衛の前へ出た。それは松蔵と云う人夫の組頭の一人であった。
「どうした事じゃ」
「礁の上から転びました」
「転んだぐらいで、そんな負傷をしたか」
「物の機でございましょう、下に鋸の歯のようになった処がございまして、その上へ落ちたものでございますから」
「そうか」
一行は其の前に停まっていた。松蔵は負われている男の衣片を巻いた手に眼をやった。
「虎馬は、手端を折りました」それから簣に寝かされている男へ眼をやって、「銀六は頭を破りました」
銀六と云われた簣の上の人夫は微に呻いていた。権兵衛はそれにいたわりの眼をやった。
「それは可哀そうな事をした、早く役所へ伴れて往って手当をしてやれ」
「虎馬の方は此方でもよろしゅうございますが、銀六の方は、安田へ往かんと手当ができませんから、いっその事、二人を伴れて往かそうと思いますが」
「そうか、それがええ、それでは早いがええ」
「そうでございます」松蔵はそこで気が注いて、「それでは、早う往け、安吾さんは役所へ寄って、早川さんから名刺をもろうて往くがええ」
安吾と云うのは後の方にいた。それは六十近い痩せた老人であった。
「ええとも、それじゃ、往こうか」
安吾の声で一行は歩きだした。権兵衛はじっとそれを見送った。松蔵は権兵衛の方へぴったりと寄った。
「旦那」
松蔵の声は外聞を憚ることでもあるように小さかった。
「うむ」
「妙な事を云う者がございますよ」
「どんな事じゃ」
「どんなと云いまして、妙な事でございますが、旦那はお聞きになっておりませんか」
傍には総之丞の顔があった。松蔵は総之丞へ眼をやった。
「武市の旦那は、お聞きになりませんか」
総之丞は好奇らしい眼をした。
「あれじゃないか」
「あれとは、あれでございますか」
「礁の事じゃないか」
「何人かにお聞きになりましたか」
「聞いたと云う理でもないが、釜礁の事じゃろう」
「そうでございますよ」それから権兵衛を見て「旦那様はお聞きになっておりますか」
権兵衛は頷いた。
「今、総之丞から聞いたが、何か確乎した事を見た者でもあるか」
「乃公が見たと云う者はありませんが、妙な事を云いますよ」
「どんな事を云っておる」
「取りとめのない事でございますが、礁へ石鑿を打ちこむと、血が出たとか、前日に欠いであった処が、翌日往くと、元の通りになっておったとか、何人かが夜遅く酔ぱらって、此の上を歩いておると、話声がするから、声のする方へ往ってみると、彼の礁の上に小坊主が五六人おって、何か理の解らん事を云っておるから、大声をすると河獺が水の中へ入るように、ぴょんぴょんと飛びこんだとか、いろいろの事を云いまして」
「うむ」
「それに二三日、負傷をする者がありますから、猶更、此の礁は竜王様がおるとか、竜王様の惜みがかかっておるとか申しまして」
「そうか」
「それに、一昨日も昨日も負傷はしましたが、石の破片が眼に入ったとか、生爪を剥がしたとか、鎚で手を打ったとか、大した事もございませざったが、今日はあんな事が出来ましたから、皆が怕がって仕事が手につきません。私も傍におりましたが、二人で礁の頂上へあがって玄翁で破っておるうちに、どうした機かあれと云う間に、二人は玄翁を揮り落すなり、転び落ちまして、あんな事になりましたが、銀六の方は、どうも生命があぶのうございます」
「どうも可哀そうな事をしたが、あれには両親があるか」
「婆と女房と、子供が一人ございます」
「田畑でもあるか」
「猫の額ぐらい菜園畑があるだけで、平生は漁師をしておりますから」
「そうか、それは可哀そうじゃ、後が立ちゆくようにしてやらんといかんが、それはまあ後の事じゃ、とにかく本人の生命を取りとめてやらんといかん」
「そうでございます」
「それから、一方の手を折った方は、あれは生命に異状はなかろう」
「あれは、安田の柔術の先生にかかりゃ、一箇月もかからんと思います」
「しかし、可哀そうじゃ、大事にしてやれ、何かの事はつごうよく取りはかろうてやる」
「どうもありがとうございます」
権兵衛は其の眼を港の口の方へやった。其処には釜の形をした大きな岩礁が小山のように聳えたっていたが、人夫の影はなかった。
「それでは往こうか」
権兵衛は歩きだした。松蔵と総之丞は其の後から往った。
三
権兵衛は釜礁の上の方へ往った。人夫たちは釜礁を離れて其の右側の大半砕いてある礁の根元を砕いていた。其処には赤泥んだ膝まで来る潮があった。
どっかん、どっかん、どっかん。
権兵衛は右側の礁にかかっている人夫だちの方を見ていたが、やがて其の眼を松蔵へやった。
「松蔵」
「へい」
松蔵は権兵衛に並ぶようにして前へ出た。権兵衛は屹となった。
「松蔵、岩から血が出るの、小坊主が出るのと云うのは、迷信と云うもので、そんな事はないが、神様は在る。神様はお在りになるが、神様は決して邪な事はなさらない、神様は吾われ人間に恵みをたれて、人間の為よかれとお守りくだされる。従って良え事をする者は神様からお褒めにあずかる。此の港は、此の土佐の荒海を往来する船のために、普請をしておるからには、神様がお叱りになるはずはない。此の比暫く大暴風もせず、大波もないが、これは神様のお喜びになっておる証拠じゃ。それに此の普請は、此の釜礁を砕いてしまえば、すぐにりっぱな港になる。一日でも早くりっぱな港を作ることは、神様はお喜びにこそなれ、お叱りになることはないと思うが、其の方はどう思う」
「へい」
と云ったが、松蔵はそれに応える事ができなかった。総之丞が松蔵のために応えなくてはならぬ。
「それは一木殿のお詞のとおりでございます。神様は人の為こそ思え、人を苦しめるものではございませんから、人のために作っておる港の、邪魔をするはずはありません」
権兵衛は頷いた。
「そうとも、其のとおりじゃ」松蔵を見て、「松蔵、判るか」
松蔵にもおぼろげながら其の意は判った。
「判ります」
「それでは、礁を破るに憚る事はないぞ」
「そりゃ、そうでございます」
「それが判ったなら、皆に其の事を云え」
「云いましょう、云います」
「云え、云い聞かせ」
「へい」
松蔵は何かに突き当って困ったような顔をしながら石垣を降りて往ったが、其のうちに彼方此方から松蔵の傍へ人夫たちが来はじめた。人夫の中には鉄鎚を手にした者もあった。権兵衛と総之丞は黙ってそれを見ていた。
松蔵の傍へは五十人ばかりの人夫が集まって来て、それが松蔵を囲んで頭を並べた。松蔵の話がはじまったところであった。
暫くすると其の人夫の中に、不意に口を開けて黄色な歯を見せる者があった。何かを笑っているところであろう。権兵衛は眼を見すえた。見すえる間もなく、人夫は松蔵の傍を離れて散らばって往った。総之丞は権兵衛に呼びかけた。
「話がすんだようでございますが」
「うん」
権兵衛は人夫の方から眼を放さなかった。総之丞もそれに眼をやった。人夫はまた右側の礁の方へ往って、どっかんどっかんとやりだしたが、釜礁にかかる者はなかった。
「かからんようでございますが、話が判りますまいか」
「判らん、困ったものじゃ」
「愚な者どもでございますから、物の道理が判りません」
「うん」
権兵衛は眼をつむっていた。総之丞は口をつぐんだ。陸の方から堰堤の上をどんどん駆けて来た者があった。普請役場の小厮に使っている武次と云う壮佼であった。
「旦那、一木の旦那」
武次は呼吸をはずまして額に汗を浸ませていた。権兵衛は武次を見た。
「何か用か」
「用どころか、お殿様じゃ」
権兵衛は眼をった。
「なに、おとのさま」
「二十人も三十人も馬に乗って、氏神様のお神行のようじゃ」
「藩公が来られたか」
「はんこうか、鮟鱇か知らんが、高知の城下から来たそうじゃ」
「真箇か。真箇ならお出迎いをせんといかんが」
「早川さんが、早く往って呼うで来いと云うたよ、早川さん、歯の脱けた口をばくばくやって、周章てちょる」
「くだらん事を云うな」
権兵衛は叱りつけておいて陸の方へ急いだ。其の時沙と礁の破片を運んでいた人足の群も、陸の方に異状を認めたのか、皆陸の方を見い見い口ぐちに何か云っていた。権兵衛は其の人夫の間を潜って陸の方へ往った。
磯の沙浜には処どころ筆草が生えていた。其処は緩い傾斜になって夫其の登り詰に松林があり普請役場の建物があった。其の役所の向前は低い丘になって、其処に律照寺と云う寺があったが、浜の方から其の寺は見えなかった。其の律照寺は四国巡礼二十五番の納経所で、室戸岬の丘陵の附根にある最御崎寺の末寺で、普通には津寺の名で呼ばれていた。
権兵衛は役所の近くまで往った。其処に二疋の馬がいて傍に陣笠を冠った旅装束の武士が二人立ち、それと並んで権兵衛の下僚の者が二三人いた。権兵衛は急いで陣笠の武士の傍へ往った。武士の一人は国老の孕石小右衛門であった。
「これは御家老様でございますか」
「おお、権兵衛か」
「承わりますれば、殿様がお成りあそばされたそうで、さぞお疲れの事と存じます」
「なに、急に御微行になられる事になって、今朝城下を出発したが、かなりあるぞ」
「二十里でございますから、お疲れになられましたでございましょう、それで殿様は」
「東寺へずっとお成りになった」
東寺は最御崎寺の事で、其処は四国巡礼二十四番の納経所になり、僧空海が少壮の時、参禅修法した処であった。
「それでは、私もこれからお御機嫌を伺いにあがります」
「今日は来いでもええ、明日此処へお成りになる事になっておる」
「さようでございますか、それでは、今日はさし控えておりましょうか」
「それがええ」それから物を嘲るような眼つきをして、港の方へ頤をやって、「権兵衛、池が掘れかけたようじゃが、彼処へ鯉を飼うか、鮒を飼うか」
それは無用の港を開設するのを嘲っているようでもあれば、工事の遅延して港にならないのを嘲っているようでもあった。小右衛門は同行の武士を見た。それは大島政平と云うお馬廻であった。
「政平、どうじゃ」
政平は莞とした。
「なるほど」
「それとも、万劫魚でも飼うか」権兵衛の方をちらと見て、「今に大雨が降りゃ良え池ができる」
権兵衛は小右衛門の詞の意がはっきり判った。権兵衛はじっと考え込んだ。小右衛門と政平の二人は、すぐ馬の傍へ往って馬に乗った。
「権兵衛、精出して池を掘れ」
権兵衛が驚いて挨拶しようとした時には、馬はもう走っていた。権兵衛を追って来て遠くの方に控えていた総之丞が其の時寄って来た。
「殿様は、どうなされました」
権兵衛は何も云わなかった。
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