大学生、三浦憲治君は、ことしの十二月に大学を卒業し、卒業と同時に故郷へ帰り、徴兵検査を受けた。極度の近視眼のため、丙種でした、恥ずかしい気がします、と私の家へ遊びに来て報告した。
「田舎の中学校の先生をします。結婚するかも知れません。」
「もう、きまっているのか。」
「ええ。中学校のほうは、きまっているのです。」
「結婚のほうは、自信無しか。極度の近視眼は結婚のほうにも差支えるか。」
「まさか。」三浦君は苦笑して、次のような羨やむべき艶聞を語った。艶聞というものは、語るほうは楽しそうだが、聞くほうは、それほど楽しくないものである。私も我慢して聞いたのだから、読者も、しばらく我慢して聞いてやって下さい。
どっちにしたらいいか、迷っているというのである。姉と妹、一長一短で、どうも決心がつきません、というのだから贅沢な話だ。聞きたくもない話である。
三浦君の故郷は、甲府市である。甲府からバスに乗って御坂峠を越え、河口湖の岸を通り、船津を過ぎると、下吉田町という細長い山陰の町に着く。この町はずれに、どっしりした古い旅籠がある。問題の姉妹は、その旅館のお嬢さんである。姉は二十二、妹は十九。ともに甲府の女学校を卒業している。下吉田町の娘さん達は、たいてい谷村か大月の女学校へはいる。地理的に近いからだ。甲府は遠いので通学には困難である。けれども、町の所謂ものもちは、そのお嬢さん達を甲府市の女学校にいれたがる。理由のない見識であるが、すこしでも大きい学校に子供をいれるという事は、所謂ものもちにとっては、一つの義務にさえなっているようである。姉も妹も、甲府女学校に在学中は、甲府市の大きい酒屋に寄宿して、そこから毎日、学校に通った。その酒屋さんと、姉妹の家とは、遠縁である。血のつながりは無い。すなわち三浦酒造店である。三浦君の生家である。
三浦君にも妹がひとりある。きょうだいは、それだけである。その妹さんは、二十。下吉田の姉妹と似た年である。だから三人姉妹のように親しかった。三人とも、三浦君を「兄ちゃん」と呼んでいた。まず、今までは、そんな間柄なのだ。
三浦君は、ことしの十二月、大学を卒業して、すぐに故郷へ帰り徴兵検査を受けたが、極度の近視眼のために、不覚にも丙種であった。すると、下吉田の妹娘から、なぐさめの手紙が来た。あまり文章が、うまくなかったそうである。センチメンタル過ぎて、あまくて、三浦君は少し閉口したそうである。けれども、その手紙を読んで、下吉田の姉妹を、ちょっと懐しく思ったそうである。丙種で、三浦君は少からず腐っていた矢先でもあったし、気晴しに下吉田のその遠縁の旅館に、遊びに行こうと思い立った。
姉は律子。妹は貞子。之は、いずれも仮名である。本当の名前は、もっと立派なのだが、それを書いては、三浦君も困るだろうし、姉妹にも迷惑をかけるような事になるといけないから、こんな仮名を用いるのである。
三浦君が甲府からバスに乗って、もう雪の積っている御坂峠を越え、下吉田町に着いた頃には日も暮れかけていた。寒い。外套の襟を立てて、姉妹の旅館にいそいだ。
途中で逢ったというのである。姉妹は、呉服屋さんの店先で買い物をしていた。
「律ちゃん。」なぜだか、姉のほうに声をかけた。
「あら。」と、あたりかまわぬ大声を出して、買い物を店先に投げとばし、ころげるように走って来たのは、律ちゃんではなかった。貞ちゃんのほうであった。
律子は、ちらと振り返っただけで、買い物をまとめて、風呂敷に包み、それから番頭さんにお辞儀をして、それから澄まして三浦君のほうにやって来て、三浦君から十メートルもそれ以上も離れたところで立ち止り、ショオルをはずして、叮嚀にお辞儀をした。それから、少し笑って、
「節子さんは?」と言った。節子というのは、三浦君の妹の名前である。
律子にそう言われて、三浦君は、どぎまぎした。なるほど、妹も一緒に連れて来たほうが自然の形なのかも知れぬ。なんだか、みんな見抜かれてしまったような気がして、頬がほてった。
「急に思いついて、やって来たのですよ。こんど田舎の中学校につとめる事になったので、その挨拶かたがた。」しどろもどろの、まずい弁解であった。
「行こ行こ。」妹の貞子は、二人を促し、さっさと歩いて、そうして、ただもう、にこにこしている。「久し振りね、実に、久し振りね、夏にも来てくださらなかったしさ、それから、春にも来てくださらなかったしさ、そうだ、ひどいひどい、去年の夏も来なかったんだ、なあんだ、貞子が卒業してから一回も吉田へ来なかったじゃないか、ばかにしてるわ、東京で文学をやってるんだってね、すごいねえ、貞子を忘れちゃったのね、堕落しているんじゃない? 兄ちゃん! こっちを向いて、顔を見せて! そうれ、ごらん、心にやましきものがあるから、こっちを向けない、堕落してるな、さては、堕落したな、丙種になるのは当り前さ、丙種だなんて、貞子が世間に恥ずかしいわ、志願しなさいよ、可哀想に可哀想に、男と生れて兵隊さんになれないなんて、私だったら泣いて、そうして、血判を押すわ、血判を三つも四つも押してみせる、兄ちゃん! でも本当はねえ、貞子は同情してるのよ、あの、あたしの手紙読んだ? 下手だったでしょう? おや、笑ったな、ちきしょうめ、あたしの手紙を軽蔑したな、そうよ、どうせ、あたしは下手よ、おっちょこちょいの化け猫ですよ、あたしの手紙の、深いふかあい、まごころを蹂躙するような悪漢は、のろって、のろって、のろい殺してやるから、そう思え! なんて、寒くない? 吉田は、寒いでしょう? その頸巻、いいわね、誰に編んでもらったの? いやなひと、にやにや笑いなんかしてさ、知っていますよ、節ちゃんさ、兄ちゃんにはね、あたしと節ちゃんと二人の女性しか無いのさ、なにせ丙種だから、どこへ行ったって、もてやしませんよ、そうでしょう? それだのに、意味ありげに、にやにや笑って、いかにも他にかくれたる女性でもあるような振りして、わあい、見破られた、ごめんね、怒った? 文学をやってるんですってね? むずかしい? お母さんがね、けさね、大失敗したのよ、そうしてみんなに軽蔑されたの、あのね、――」とめどが無いのである。
「貞子。」と姉は口をはさんだ。「私はお豆腐屋さんに寄って行くからね、あなた達さきに行ってよ。」
「豆腐屋?」貞子は少し口をとがらせて、「いいじゃないか。一緒に帰ろうよ。いいじゃないか。お豆腐なんて、無いにきまっているんだ。」
「いいえ。」律子は落ちついている。「けさ、たのんで置いたのよ。いま買って置かなければ、あしたのおみおつけの実に困ってしまう。」
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