私は一緒に行くべきかどうか迷った。いま彼をひとりで、外へ出すのも気がかりであった。この勢いだと、彼は本当にその一ばん上の兄さんの居所に押しかけて行って大騒ぎを起さぬとも限らぬ。そうして、その門前に於いて、彼の肉親の弟だという私(太宰)の名前をも口走り、私が彼の一味のように誤解せられる事などあっては、たまらぬ。彼をこのまま、ひとりで外へ出すのは危険である。
「だいたいわかりましたけれども、私は、その一ばん上の兄さんに逢う前に、私たちのお母さんに逢って、直接またいろいろとお話を伺ってみたいと思います。まず、さいしょに、私をお母さんのところに連れて行って下さい。」
細君の許に送りとどけるのが、最も無難だと思ったのである。私は彼の細君とは、まだいちども逢った事が無い。彼は北海道の産であるが、細君は東京人で、そうして新劇の女優などもした事があり、互いに好き合って一緒になったとか、彼から聞いた事がある。なかなかの美人だという事を、他のひとから知らされたりしたが、しかし、私はいちどもお目にかかった事が無かったのである。
いずれにしても、その日、私は彼の悲惨な痴語を聞いて、その女を、非常に不愉快に感じたのである。いやしくも知識人の彼に、このようなあさましい不潔なたわごとをわめかせるに到らしめた責任の大半は彼女に在るのは明らかである。彼女もまた発狂しているのかどうか、それは逢ってみなければ、ただ彼の話だけではわからぬけれども、彼にとって彼の細君は、まさしく悪魔の役を演じているのは、たしかである。これから、彼の家へ行って細君に逢い、場合に依っては、その女神とやらの面皮をひんむいてやろうと考え、普段着の和服に二重廻しをひっかけ、
「それでは、おともしましょう。」
と言った。
外へ出ても、彼の興奮は、いっこうに鎮まらず、まるでもう踊りながら歩いているというような情ない有様で、
「きょうは実に、よい日ですね。奇蹟の日です。昭和十二年十二月十二日でしょう? しかも、十二時に、私たち兄弟はそろって母に逢いに出発した。まさに神のお導きですね。十二という数は、六でも割れる、三でも割れる、四でも割れる、二でも割れる、実に神聖な数ですからね。」
と言ったが、その日は、もちろん昭和十二年の十二月の十二日なんかではなかった。時刻も既に午後三時近かった。そのときの実際の年月日時刻のうちで、六で割れる数は、十二月だけだった。
彼のいま住んでいるところは、立川市だというので、私たちは三鷹駅から省線に乗った。省線はかなり混んでいたが、彼は乗客を乱暴に掻きわけて、入口から吊皮を、ひいふうみいと大声で数えて十二番目の吊皮につかまり、私にもその吊皮に一緒につかまるように命じ、
「立川というのを英語でいうなら、スタンデングリバーでしょう? スタンデングリバー。いくつの英字から成り立っているか、指を折って勘定してごらんなさい。そうれ、十二でしょう? 十二です。」
しかし、私の勘定では、十三であった。
「たしかに、立川は神聖な土地なのです。三鷹、立川。うむ、この二つの土地に何か神聖なつながりが、あるようですね。ええっと、三鷹を英語で言うなら、スリー、……スリー、スリー、ええっと、英語で鷹を何と言いましたかね、ドイツ語なら、デルファルケだけれども、英語は、イーグル、いやあれは違うか、とにかく十二になる筈です。」
私はさすがに、うんざりして、矢庭に彼をぶん殴ってやりたい衝動さえ感じた。
立川で降りて、彼のアパートに到る途中に於いても、彼のそのような愚劣極まる御託宣をさんざん聞かされ、
「ここです、どうぞ。」
と、竹藪にかこまれ、荒廃した病院のような感じの彼のアパートに導かれた時には、すでにあたりが薄暗くなり、寒気も一段ときびしさを加えて来たように思われた。
彼の部屋は、二階に在った。
「お母さん、ただいま。」
彼は部屋へ入るなり、正坐してぴたりと畳に両手をついてお辞儀をした。
「おかえりなさい。寒かったでしょう?」
細君は、お勝手のカーテンから顔を出して笑った。健康そうな、普通の女性である。しかも、思わず瞠若してしまうくらいの美しいひとであった。
「きょうは、弟を連れて来ました。」
と彼は私を、細君に引き合した。
「あら。」
と小さく叫んで、素早くエプロンをはずし、私の斜め前に膝をついた。
私は、私の名前を言ってお辞儀した。
「まあ、それは、それは。いつも、もう細田がお世話になりまして、いちどわたくしもご挨拶に伺いたいと存じながら、しつれいしておりまして、本当にまあ、きょうは、ようこそ、……」
云々と、普通の女の挨拶を述べるばかりで、すこしも狂信者らしい影が無い。
「うむ、これで母と子の対面もすんだ。それでは、いよいよインフレーションの救助に乗り出す事にしましょう。まず、新鮮な水を飲まなければいけない。お母さん、薬缶を貸して下さい。私が井戸から汲んでまいります。」
細田氏ひとりは、昂然たるものである。
「はい、はい。」
何気ないような快活な返事をして、細君は彼に薬缶を手渡す。
彼が部屋を出てから、すぐに私は細君にたずねた。
「いつから、あんなになったのですか?」
「え?」
と、私の質問の意味がわからないような目つきで、無心らしく反問する。
私のほうで少しあわて気味になり、
「あの、細田さん、すこし興奮していらっしゃるようですけど。」
「はあ、そうでしょうかしら。」
と言って笑った。
「大丈夫なんですか?」
「いつも、おどけた事ばかり言って、……」
平然たるものである。
この女は、夫の発狂に気附いていないのだろうか。私は頗る戸惑った。
「お酒でもあるといいんですけど、」と言って立ち上り、電燈のスイッチをひねって、「このごろ細田は禁酒いたしましたもので、配給のお酒もよそへ廻してしまいまして、何もございませんで、失礼ですけど、こんなものでも、いかがでございますか。」
と落ちついて言って私に蜜柑などをすすめる。電気をつけてみると、部屋が小綺麗に整頓せられているのがわかり、とても狂人の住んでいる部屋とは思えない。幸福な家庭の匂いさえするのである。
「いやもう何も、おかまいなく。私はこれで失礼しましょう。細田さんが何だか興奮していらっしゃるようでしたから、心配して、お宅まで送ってまいりましたのです。では、どうか、細田さんによろしく。」
引きとめられるのを振り切って、私はアパートを辞し、はなはだ浮かぬ気持で師走の霧の中を歩いて、立川駅前の屋台で大酒を飲んで帰宅した。
わからない。
少しもわからない。
私は、おそい夕ごはんを食べながら、きょうの事件をこまかに家の者に告げた。
「いろいろな事があるのね。」
家の者は、たいして驚いた顔もせず、ただそう呟いただけである。
「しかし、あの細君は、どういう気持でいるんだろうね。まるで、おれには、わからない。」
「狂ったって、狂わなくたって、同じ様なものですからね。あなたもそうだし、あなたのお仲間も、たいていそうらしいじゃありませんか。禁酒なさったんで、奥さんはかえって喜んでいらっしゃるでしょう。あなたみたいに、ほうぼうの酒場にたいへんな借金までこさえて飲んで廻るよりは、罪が無くっていいじゃないの。お母さんだの、女神だのと言われて、大事にされて。」
私は眉間を割られた気持で、
「お前も女神になりたいのか?」
とたずねた。
家の者は、笑って、
「わるくないわ。」
と言った。
●表記について
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